第37話 正義の天秤


「政治家の汚職に続いて、今度はテロ組織ですか。どこまでも作り話めいていますね」

「虚勢を張るのもそろそろお止めになったらいかがですか。あなたのが揃って自白しているんですよ」

「仲間?」

「一色乙葉、宍戸悠、桜井芳郎、古川夏生の四名です。それとも、スピカ、レオ、ゴート、カストルのコードネームで呼んだほうが解りやすいでしょうか」

 チッ、と舌打ちする音が微かに聞こえた。続いて、たっぷり三秒のため息。

「刑事さん、ひとつ教えてあげましょうか――人間は皆、組織の駒にすぎないんですよ。どんな人間だって、所詮は誰かと替えが利く存在でしかない。女性が毎日ファッションを替えるように、あるいはレストランの日替わり定食のように、ころころと移り変わる。私は自分を含めて、それでいいと思っています。自分は特別な存在でありたいなど、非常に浅はかな思考だ」

「その意見には否定も肯定もしません。私自身、警察組織の中の駒だと思っていますから」

「刑事さんは話が解る人でよかった」

 安堵の息を吐く大村に、「ですが」と言葉を続ける。

「あなたの意見には、賛同しかねる部分もあります」

「ほう、具体的にどの部分でしょうか」

「自分は特別な存在でありたい……その思考に最も縛られていたのは、あなた自身ではありませんか」

 姿が見えずとも、時也には大村の表情が安易に想像できた。今の時也の言葉を聞いて、さぞ不快な顔をしているだろう。

「それは、どういう意味でしょうか」

「あなたは、自身の思考と行動が矛盾しているとすでに証明したのです」

「回りくどい言い方は嫌いなんでね。もっと明瞭に話していただけませんか」

「では、はっきりとお伝えしましょう。あなたは、特別な存在でありたかった。だから、薬剤師として四年もの間、美濃総合病院に勤めていたのではないですか。運命的に再会した父親に、誰よりも自分を見てほしかったから。誰よりも自分の存在を認めてほしかったから」

 引きつったような笑い声が廃病院の廊下に反響した。暗闇の中で、懐中電灯の灯りがムービングライトのように目まぐるしく動き回る。

「あなたは……あなたという人は、どこまで妄想が激しいのですか」

 時也の主張がよほど可笑しかったのか、ぜいぜいと息を切らした後やっとのことで言葉を吐き出した。

「あなたは私をよほど悪者に仕立て上げたいようですが、私が美濃佐吉の実子だからといってそれが何の罪になるというのです。正直、私をここに呼び出してこんな長話をする理由が思い当たらない……私はただのしがない不動産営業マン。それ以外の何者でもありません。では、そろそろ失礼しますよ」

「まだですよ、大村さん」

 瓦礫を踏みつける足音に、時也は鋭い声で呼びかけた。

「自覚なさっていないようですが、あなたは複数の犯罪への関与が疑われています。そのすべてが否定されない限りはここから動けないんですよ」

「これはこれは、驚いたな。一体、私にどんな嫌疑がかかっているというのですか」

「あなたは西神名河にあるMERCURYというパチンコ店の経営に、県内最大の暴力団組織である東凰会の二次団体、青龍会が関与していることを承知していますね」

「MERCURYに暴力団が? ちょっと待ってください、まったく聞き覚えのない話だ」

 動揺した声を出す大村だが、闇に閉ざされた空間では表情までは読み取れない。声で演技をしながら、顔はほくそ笑んでいるかもしれないのだ。

「そもそも、経歴詐称をしてまであなたが小林誠和不動産に潜り込んだのは、堂珍仁と小林誠和の繋がりを探るためだ。実際に、小林誠和不動産の関連会社には共産推進党の支持基盤である企業が複数あります。あなたは堂珍仁を徹底的に調べていた中で、小林誠和にたどり着いたのではないですか。そして、美濃佐吉の無念を晴らすために彼の悪事を暴いてやろうと決意した……そのひとつが暴力団との癒着です」

「一体何のことやら」

「惚けても無駄ですよ。堂珍仁と東凰会の暴力団幹部が小林誠和不動本店に出入りしている事実は既に調べがついています……いや、そうなるように仕向けたんだ。水前署の玄関口にDVDを置いたのも、あなた達ゾディアック団のメンバーですね」

 本人が自供したのか、と追及されたら答えようがなかったが、幸いにも大村がその問いを発する様子はない。

「堂珍と東凰会が小林誠和に出入りする様子が映ったDVD、これが事件の発端でした。ほぼ同じタイミングで、友枝雅樹の遺体が発見された。ゾディアック団の目的は、友枝殺しの罪を堂珍仁と東凰会に着せ、彼らを社会的に抹殺することだったのではないですか。しかし、組織内部から裏切者が出た――第三の被害者である森野一裕です。彼は我々に組織の存在を仄めかした。あなたはそれに気付いて森野を粛清した」

「ちょっと待ってくださいよ。まるで私がその組織の一員であるような前提で話が進んでいますが、私はそんなところに所属してなど」

「先ほどの四人全員が自供しているんですよ。あなたが組織のサブリーダー〈〉であるとね。一色乙葉と宍戸悠は、あなたに指示を受けて森野殺しに間接的に関わったと自供しています」

 重い沈黙が廃墟を包む。闇の中で聞こえるのは、二人分の微かな息遣いだけだ。

「青龍会にMERCURYの経営の一部を任せたのもあなたです。既に県警の捜査員がMERCURYの店を押さえ、証拠を得ているんですよ。青龍会は店の常連客に裏サービスと称して女性を接待させていました。もちろん店長もグルです。MERCURYの運営会社は、関西に本部を置く株式会社賢者の石。あなたは、立浜支店に貸しビルを紹介していますね。鶴谷町にある物件です」

 闇の中から、大村の怪訝な声が上がる。

「おかしいな。なぜあなたがそんな社外秘の情報を知っているのですか。いくら警察だからといって、会社が警察に捜索されたわけでもないのに」

 数秒の沈黙の後、「ああ」と腑に落ちたようなため息が聞こえた。

がいるのですね。そんな卑怯な捜査をして、警察の名に泥を塗る行為ではないですか」

「あなたに何と言われようと、それが公安のやり方です」

「はっ。素晴らしい開き直り方ですね。いっそ清々しいほどだ」

 大村の嘲笑もどこ吹く風で、時也は脱線しかけた話を元のレールに戻す。

「鶴谷町の物件を紹介した相手は、立浜支店の狭間慎二支店長ですね。先週の金曜日には貸しビルの内見も済ませている」

「――薄汚いネズミどもが」

 捨て台詞を吐いた大村に、時也は「ネズミですか」とおもむろに呟き返す。

「大村さん、こんな話はご存じですか。昔、研究チームがネズミを使ったある実験を行いました。繁殖に十分なスペースと餌を用意した空間に、数匹のネズミを投入してどのような行動をとるか観察したのです。はじめのうちは順調に繁殖が進んでいたのですが、あるときを境に様子が一変。それまで形成されていたネズミたちの社会があっという間に崩壊して、一時は数百匹にまで増えていたネズミが最後には一匹残らず全滅したそうです」

「へえ、初めて聞きましたよ。刑事さんは物知りだ」

 小馬鹿にしたようなコメントを返してから、「それが何か」と気怠げに問いかける。

「大村さんがネズミとおっしゃったのでふと思い出しましてね……ただ、私はあなた方のほうがよほどネズミに近いと思いますがね。それも、先ほどの話に出てきた実験用のネズミだ」

「どういう意味ですか、それは」

「お話ししたネズミの実験は、マウスユートピア実験と呼ばれていましてね――ユートピア、つまり繁殖のための恵まれた環境にいたはずのネズミは、しかし完全な理想郷を維持できずに破壊してしまう。理想郷というと聞こえはいいですが、実現はそう簡単にはいかないものです。あなた方が楽園パラダイスを生み出そうとして上手くいかなかったようにね」

 暗闇の中で、微かに歯ぎしりの音がする。よほど感情を押し殺しているのだろうか、再び荒い息遣いも聞こえてきた。

「薄汚れた政治家や暴力団に犯罪の濡れ衣を着せて、表社会から追放する……その裏には、ゾディアック団メンバーそれぞれの復讐という影の目的があった。

 森野一裕は、株式会社賢者の石に実の弟を殺された復讐。彼の弟である森野浩二は、地元のパチンコ店でアルバイトをしていました。しかし、遊技機の違法改造に関わったという罪を被せられて店を辞め、その後謎の事故死を遂げます。その死は株式会社賢者の石が仕組んだもので彼は口封じに殺されたのです。あなたの実父が口封じをされたようにね」

 なおも聞こえる歯ぎしりの音に神経を尖らせながら、時也は話を続ける。被告人の罪状を読み上げる裁判官のように。

「古川夏生の父親は、H県H市の元市長である古川冬治。彼は、条例を無視してパチンコ店を建設しようとした株式会社賢者の石を民事裁判で訴えていました。ですが、古川冬治は最高裁判所まで上告したにも関わらず、裁判を途中で降りている。古川氏はその年の冬、運転手のハンドル操作ミスによる自動車事故で亡くなっています。この事故は、株式会社賢者の石が古川氏の車に細工をして意図的に起こしたものだった。

 その事故に巻き込まれたのが一色乙葉の母親でした。彼女の母、一色和葉は古川氏が乗車していた車と衝突し、その後死亡しています」

「たしかにその三人には、株式会社賢者の石を恨む理由がありそうですね……ですが、それはあなたが話していた政治家や暴力団への復讐とは無関係なのでは」

「株式会社賢者の石は、暴力団のフロント企業なんですよ。狭間支店長は、青龍会の組長である周春佳と蜜月の仲です。関連店には中国系の人材が多く雇われていて、MERCURYの店長である林龍二も中国に自らのルーツを持っています。

 そもそも、あなたが潜り込んだ小林誠和不動産自体が東凰会のフロント企業です。あなたはそれを承知した上で潜入したのでしょう。かつて父の病院を建設した会社が暴力団と深く繋がっていた……ゾディアック団にとっては、小林誠和不動産と株式会社賢者の石もまた復讐の対象だった。あなたはトロイの木馬だったわけです。小林誠和不動産に侵入し、その内部から組織を破壊していくウイルスそのものだ」

 一息ついてから、「ですが」と再び言葉を紡ぐ。

「私からすれば、あなた達のほうがよほど薄汚いネズミ……いや、それ以下だ」

 大村がいる方向から、砂利を踏む音がした。明かな挑発行為と解っていても、時也は胸の内に渦巻く感情を抑えられずにいた。

「青龍会とMERCURYを意図的に仲介して、売春斡旋を裏で指示した。狭間慎二に金ビルでの雀荘を隠れ蓑にした薬物売買を持ちかけたのもあなたですね。そして、あなたの不審な動きに勘付いた友枝雅樹を殺害して、その罪を堂珍仁に被せようとした。

 そんなことで、世の中が変わると本気で思ったのですか。そんな復讐で、美濃佐吉や森野浩二、古川冬治や一色和葉が救われると本気で考えたのですか。だとするならば、それは大きな勘違いだ。あなた達が作り出そうとしていたのは楽園パラダイスでも理想郷ユートピアでもない。復讐という餌をまかれて醜く太った、ただの怪物だ」

「違う!」

 耳をつんざくほどの大声とともに、懐中電灯が床に叩きつけられた。中の電池が外れ、本体があらぬ方向に飛ぶ。外からの光も届かない、完全な闇が二人を包み込んだ。

「俺たちは、復讐に身をやつした怪物なんかじゃない。俺たちは、本気でこの世界を良くしようとしたんだ。堂珍や末永、狭間や青龍会のようなやつらが野放しになって好き放題している世界で、善良な民が平和に安心して暮らせると思うか? 私利私欲にまみれた政治家どもは国民の血税を貪り、暴力団は欲望の赴くままに悪事を働いている。そんな奴らを好きにさせたまま、世の中が今より良くなるなんて……なあ、あんたは本気でそう思うのか」

「思わないよ」

 同意する時也に、大村は「だったら」と期待に満ちた声を出す。

「だが、あなた達のやり方が正しいとも思わない。だからこそ、俺は警察官になった。自分にできる正しい方法で、世の中をどうにかしたいと考えたから。暴力に暴力で返しても、何も変わらないとわかっているから」

「はっ……であれば、俺たちと同じだ」

 大村の言葉に、「同じ?」と問い返す。靴底で瓦礫を踏む音が聞こえた。

「ああそうさ。俺たちは、俺たちが正しいと信じた道を歩んだまでだ。あんたが自分の正義を信じて警察官になったように、俺らは俺たちの正義でもって世の中を良くしようと活動していた。あんたは一方的に俺たちを悪だと糾弾するが、それは偏った思考なのさ。いいか、俺とあんたの違いはただひとつ――正義の意味が、異なっていただけだ」

 瞬間、時也の背後から何者かが全速力で接近した。身を躱す暇もなく、右腰あたりに刃物のようなものが突き刺さる。ほぼ同じタイミングで、廃墟内に無数の足音がこだました。



 時也は右手を素早く後ろに回し、襲撃者の腕を掴んだ。「あっ」という小さな声を耳にしながら、相手の腕を容赦なく捻じり上げる。カラン、という音とともに刃物が床に落ちた。腕を掴んだまま身体を半回転させ、今度は襲撃者の両腕をがっちりと握る。相手は身体を捩らせて必死に逃れようとするが、日頃のトレーニングで鍛えた時也の握力には敵わない。そのまま床に押し付けて、手首に手錠を回した。

 再び時也の背後から慌ただしい足音が近づくが、今度の相手は県警刑事部捜査一課の伍代警部補だった。多少呼吸が乱れているのは、時也が攻撃された音を無線イヤホン越しに聞きつけて、大急ぎで廃墟に突入したからだろう。

「おい、大丈夫か」

 ペンライトの灯りが、時也の顔を照らす。眩しさに目を細めながら「ええ」と短く返した。

「防弾チョッキのお陰で事なきを得ました。昨年に性能がグレードアップしたと聞き及んでいましたが、噂通りですね」

「まったく、心配させやがって……敵の巣穴に単独で潜り込むなんて、無謀にも程があるぞ。よく東海林さんも許したな」

「ボスであれば、きっと班員の誰が立候補しても許可しましたよ」

 顔を上げた時也に、伍代警部補が「あ?」と怪訝な声を返す。

「東海林班のメンバーは、ボスに全幅の信頼を置いている。同時に、ボスも我々メンバーを信じてくれています。だからこそ、命運を左右するような作戦にもゴーサインを出したんですよ」

「ふん……意外だな」

「何がですか」

「あんたは他人を信用しない、クールぶった一匹狼タイプとばかり思っていた」

「その指摘は間違っていませんよ」

「だが、一匹で動く狼は仲間から信頼されないだろ。そもそも信じてくれる仲間がいないんだから」

 伍代刑事のコメントに、時也は小さく笑って「それもそうだ」と独り言ちた。

「ところで、そのワッパに掛かっている野郎は誰だ――」

 刹那、頭上で鈍い爆発音が轟いた。「上か?!」と叫ぶ伍代につられて、時也も頭上を向く。その動きが隙を生んだ。手錠を掛けられた両腕が勢いよくスライドして、時也の手から逃れた。「おいっ」という時也の静止も空しく、襲撃者は脱兎のごとく闇の中に消える。数秒遅れで事態に気付いた伍代が慌てて後を追いかけようとしたが、その間にも二階では爆破音が連発していた。このまま廃墟内に滞在し続けると、崩落する建物の下敷きになりかねない。

「くそっ、ネズミのようにすばしっこい奴だな」

 伍代の悪態に、時也は「ネズミ、か」と呟く。二人はそのまま出入口へと駆け出し、同時に伍代刑事はイヤホンマイクを通して院内の捜査官らに撤退指示を出した。外には既に数人が退避していて、茂みの中からは別の捜査官たちが唖然とした表情で事態を傍観していた。

 徐々に大きくなるサイレン音に急かされるかのごとく、美濃総合病院は時折猛烈な火柱と黒煙を噴き出しながら次第に崩れ落ちていく。消防隊が到着した頃には、既に建物の半分以上が炎に包まれどう見ても手遅れの状態になっていた。

「お前らの話はあらかた聞いたが、とんでもねえ連中がいたものだな。復讐を無理やり正当化して、それを正義と言い張るんだから」

 消火活動を見守っていた伍代が、ちらと横を向く。数メートル右手で、大村泰明が捜査官に押さえられて地面にうずくまっていた。だらりと頭を垂れて、その表情は窺い知れない。

「彼は、行動を起こすか起こさないかという二つの錘を正義の天秤にかけたんですよ」

「天秤?」

 猛火に飲み込まれる廃墟を眺めながら、時也は「天秤です」と静かに繰り返す。

「行動を起こすとはすなわち、復讐の決行です。それは彼らにとっては復讐というよりも、復讐を名目にした正義の実行だった」

「逆じゃないのか。表面上は正義感からの行動だとほざいているが、実際は正義を盾にした復讐にすぎなかった」

「違います」

 きっぱり否定する時也に、「どう違うんだよ」と食い下がる伍代。

「彼らは本気で信じていたんですよ。堂珍や青龍会の連中を社会的に抹殺することで世の中が良い方向に変わると。それが社会を変革させる契機になると、本気でそう思っていたんです」

 その言葉に伍代は何も返さず、ただ小さく鼻を鳴らす。轟轟という音とともに崩れ去る廃病院を見つめながら、時也は誰に言うでもなくぼやいた。

「楽園は破滅した、か」

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