第13話 パンドラの箱
四月十五日火曜日の正午。時也は県警本部がある湾岸区から電車で三十分近く北上した美鶴区にいた。K県有数の工業地帯である一方、「源頼朝が非常に美しい鶴を放った地」という優美な逸話も伝えられる地域だ。足を向けたのは、美鶴駅を下車し十分ほど歩いたところにある〈路地裏の店サンデー〉。開店当初は日曜日のみ営業していたことが店名の由来らしい。
店内はこぢんまりとしていて、カウンター席と二人掛けの席が二つしかない。そのカウンター席に、目当ての人物はいた。くすんだグレーのスーツがいかにも刑事らしい。「失礼ですが、重松さんですか」と声をかけると、ぎょろりとした目が時也を捉えた。頭上に「自分は刑事です」の看板を掲げているような強面だ。
「県警本部の新宮さんですね。どうぞこちらに」
いかつい顔面に似合わず、落ち着いた声音である。重低音だが、一つひとつの発音がクリアで聞き取りやすい。時也は一礼すると、重松三郎捜査二課警部補の隣に腰かけた。
「不動産社員殺しの件を担当しているそうですね。しかし、どうしてまた十五年も前の話を聞きたいだなんて」
落合が話していた「地検上がりの風変りな刑事」とはまさに重松警部補のことだ。常磐会の事件について話を聞きたい、と時也からコンタクトを取って今日の面会が実現したのである。
「今追っているヤマと関係するか判りませんが、ちょっと臭うんです。今日は、常磐会の事件もですが美濃病院について詳しく教えていただきたくて」
「懐かしい名前を持ち出しますね。まあ、料理を突きながらゆっくりと――といっても、ここは夜がメインで昼は日替わりランチしかありませんけど」
火曜日のランチ定食には、九州地方の名物であるチキン南蛮が登場した。この店のチキン南蛮は本家の味を忠実に再現しているらしく、鶏むね肉にたっぷりかかったソースは甘酢が効いていて白米との相性も抜群だ。聞けば、重松警部補は県警本部でもグルメ家として通っているらしく、「路地裏の店サンデーのチキン南蛮は県内一の美味さだ」と太鼓判を押した。
「しかし、元地検の人間が県警本部にいるとよく知っていましたね。よほど近しい同僚にしか話していないはずなのですが」
落合巡査部長の名前は出さず、曖昧に濁す。相手もそれ以上は追求せず、昔話でもするように常磐会のことを淡々と語り出した。
「もともと常磐会自体、政治家との癒着が強く特捜部は例の事件より以前から密かにマークしていました。新宮さんは、常磐会の全盛期をご存じですか? 県内外に診療所や介護福祉施設を次々と新設し、最新の技術に惜しみなく金を注ぎ込んでいた。あまりに羽振りが良すぎるもので、こっそり調べていたんですよ。驚きましたね。何人もの大物政治家、特に自公党の連中と太いパイプで繋がっていたんですから。あの時代、常磐会と自公党は互いに持ちつ持たれつの関係だった……いや、運命共同体と言ったほうがいいのかな。美濃病院の一件から、常磐会は坂道を転げ落ちるように衰亡した。ちょうどその頃だったでしょう、立民党が劇的な政権交代を果たしたのは」
自由公正党が立法民守党に政権奪取されたときのことだ。数十年ぶりの与野党による逆転劇に、当時は多くの国民が関心を寄せていた。だが、その舞台も結局は長続きしなかった。立民党による独壇場はわずか一年半で幕を閉じたのである。
「そのときの衆院選で自公党が大敗したのは、常磐会との共倒れが要因だというのですか」
「まあ、敗因の一つにはなっているでしょうね。美濃病院の事件以降、自公党の連中は不祥事が相次ぎましたから。立民党にとってはまたとない好機だったでしょう」
「美濃病院の闇献金事件では、七人の議員が逮捕されてそのうち起訴された四人は全員が自公党でした。しかし、不起訴になった三人の中にも一人だけ自公党の議員が含まれていましたよね」
それまで眉ひとつ動かさないでいた警部補が、初めて表情を崩した。苦虫を嚙み潰したような渋面で、
「ここだけの話ですが……あれは、陰謀だったと語る人もいます」
「陰謀?」
「ええ。その裏を知ってしまい口封じされたのが、美濃病院院長だった」
「ちょっと待ってください。美濃佐吉は自殺したのでしたよね」
「たしかに、表向きは自殺として処理されました。というのも、彼には一応の動機があったからでして……当時、院長の美濃佐吉は入院費をろくに払えない経済的に困っている患者を受け入れていて経営状態は赤字すれすれでした」
「ですが、美濃病院のバックには常磐会という大物がついていたのですよね」
「未だに諸説ありますが、美濃佐吉は常磐会と折り合いが良くないという話もありました。常磐会の強引かつ荒々しい経営手法に美濃佐吉が反発していた、とね。当時の関係者は皆、口を揃えて証言していましたよ。彼は善人を絵に描いたような医者だったと。金儲けに目が眩んだ常磐会と犬猿の仲だったというのも頷けます」
「それじゃ……美濃佐吉を闇献金問題に巻き込んだのは、常磐会にとって目の上のたん瘤である彼を始末するためだった。そう考えておられるのですか」
「荒唐無稽な話だ、とお思いですか。ですが、闇献金問題が発覚してすぐに美濃病院が潰れたことは事実です。事件と何のつながりもなければ、いくら院長が亡くなったからといってそんな簡単に閉院するものですか。曲がりなりにも人の命を預かっている施設ですよ」
「美濃病院の患者はどうなったのですか。当然、彼らには病院が突然なくなるなんて想像もつかないことでしょう」
「新たな受け入れ先が見つからずにそのまま亡くなった人、いくつもの病院をたらい回しにされた人、やぶ医者にかかってろくな治療を受けられなかった人……ま、そんなところです」
チキン南蛮を口に入れ、機械的なリズムで咀嚼する。時也はすっかり冷めた味噌汁を飲み干すと、
「美濃佐吉は献金事件の裏を知って消された、とおっしゃっていましたね。裏というのは一体――」
「事件が明るみになったとき、献金の受け取り主の中に自公党の末永保彦がいたことはご存じですか」
「ええ。たしか、受け取り主のリストには挙がっていたけれど証拠不十分で不起訴になったとか」
「概ね事実です。ただ、地検の中には疑惑を抱く者もいましてね。逮捕された四人は全員が自公党の議員でそれぞれが献金の事実を認めたものの、末永保彦だけは知らないの一点張りでした。しかし、末永は逮捕された四人の議員とは懇意の仲で彼だけ献金のことを知らなかったというのは明らかにおかしい。なぜ、自公党の中で唯一逮捕を免れることができたのか」
「地検やサツとの太いパイプがあり、周到に根回しをしていたのではないですか」
「一理あります。ただし、地検やサツに根回しをしていたのは末永ではありません……彼は、共産推進党と手を組んで自公党を売ったのです。そして、その裏で暗躍していたのが堂珍仁だった」
時也は我が耳を疑った。箸を持った手を宙で止めたまま「まさか」と小さく呟く。
「ですが、そう考えれば辻褄が合うのです。起訴された議員の中に共産推進党員がいなかったことも。堂珍仁はサツとの繋がりが強く、特にサッチョウには顔が効きますからね。実際、常磐会闇献金事件ではサッチョウから東京地検へ多少の圧力がかかっていましたから」
「ですが、国会議員レベル以上の政治監視は地検の特権みたいなものでしょう。サッチョウが横槍を入れたところで地検の捜査に影響が出るとは思えませんが」
「ま、そこは地検とサツの間にも根深いものがありますからね……とにかく、末永と共産推進党は共謀して常磐会闇献金事件を引き起こした。起訴された自公党四人と常磐会の段田秋宗は、不起訴になった三人に嵌められたんです。そして、その裏切り劇の一部始終を見ていたのが美濃佐吉だった」
「仮にその仮説が正しいとして、末永が共産推進党に寝返った理由は何なんですか」
「そこまで突き止められたら良かったのですが、四人が逮捕起訴された時点で私たちの捜査は半ば強制終了させられました。サツとは別のところから強い圧力がかかったのです」
空っぽの皿に向かって「ご馳走様です」と丁寧に両手を合わせた。尋ねたいことはまだ山ほどあったが、ラストオーダーの時間が迫っていたため時也は急いで残りのチキン南蛮を胃に流し込む。捜査二課のグルメ刑事は伝票をさっと手に取ると、「お勘定を頼む」と緩慢な動作で立ち上がった。
店を出た二人は、駅方面に向かってぶらぶらと歩く。重松刑事は午後に別件で湾岸区まで戻る必要があるため、あまり長話もできないのだ。
「重松さん、今日は貴重なお時間をありがとうございました。大変興味深い話を聞くことができましたよ」
「私なんかでお役に立てたのなら光栄です。ハムの捜査員たちは粒ぞろいと伺っていますから、こんなおいぼれの話が参考になるのかわかりませんが」
「ハムだから何でも知っているわけではありません。むしろ、何も知らないからこそあらゆるスペシャリストたちから日々知恵を教授してもらっているのです。今日の重松さんの話は、私の守備範囲ではとてもカバーできるものじゃない。参考どころではなく、今後の作業に大きな影響を与える情報ばかりでした」
「まあ、先ほどの話は空想の産物として受け取ってください。定年間近の窓際刑事は過去を振り返ることしかできないものでね」
「定年ですか。それは寂しいですね、まだまだ面白い話をお聞きしたいのに」
「面白い、ですか。あなたもタフなお方だ……もしあなたが出世した際には、私の再就職先でも斡旋してくださいよ」
笑顔に慣れていないのか、片方の口角を不自然に持ち上げた不器用な笑い方だ。それでも、今日初めて見せた表情に時也もつい微笑み返す。冗談抜きに、彼との会話が最初で最後かもしれないと考えると一抹の寂寥を感じるのであった。
駅へ遠ざかる背中を見送っていると、ポケットの中でスマホが震えた。液晶画面には落合巡査部長の名前が表示されている。
『よお、作業の進捗はどうよ』
「ぼちぼちといったところです。落合部長こそ、堂珍仁への聴取はどうなったのですか。しばらく話を聞いていませんが」
『あれからも堂珍の事務所に足繁く通っているが、なかなか本人に会えなくてな。その代わり、受付の姉ちゃんをようやく口説き落としたぜ』
「落合部長のしつこさに根負けしたのではないですか」
『人聞きの悪いことを言うな。俺の人並み外れたコミュニケーション力で彼女の固く閉ざされた心を開いてだな……まあ、そんなことはどうでもいい』
落合が巧みな話術でもって引き出した情報によると、受付嬢は三輪佑美子といって半年前から堂珍の事務所で働き始めた。最初は秘書の業務も兼ねていたが一人では手が回らなくなり、野毛という男性を新しく秘書として雇ってからは受付と事務業に専念するようになったという。
『堂珍の事務所にはいろんな客が訪ねるわけだが、佑美子嬢によればいかにもマルBらしい見た目の連中もよく出入りしているらしい。その中でも高頻度で堂珍と会っている人物の特徴を聞き出したみたんだが、おそらく例のDVDに映っていた男と同一だ』
「中陣豊ですね」
『ああ。それから時々その中陣に連れられて若い男もやって来るみたいだが、おそらく下っ端の構成員だろうな。せいぜい用心棒役ってところか』
「例の、アルファベットの刺青を入れた人間は見ていないのですか」
『露出している肌という肌に派手な刺青を入れた男たちは何人か見かけたようだが、ワンポイントだけの人物は心当たりがないんだと。こめかみに刺青の大男についても記憶にはなさそうだったぜ……なあ、そのこめかみに刺青の男だけど、そいつは堂珍や東凰会とは無関係なんじゃねえのか? いくら堂珍がマルBと繋がりが強いからといって、すべての組織にコネがあるわけじゃなだろうし』
先輩の指摘に、時也は「そうですね」と曖昧に返す。反論できるだけの材料が手元にないからだ。
『それから、友枝雅樹が死亡したと思われる四月十日前後の、堂珍仁のアリバイも確認済みだ。前日の九日は九州へ終日出張していて、日付を越えた十日の夜中に帰宅。午前中は休みを取っていて、午後からは外部での会議や地域行事への参加やらで動き回っている。夜は十時まで地域会合に出席。それから関係者との懇親会にも顔を出し、夜中に帰宅――ってところだ。料亭や居酒屋の領収証が残っていたから、嘘の証言じゃなさそうだな』
「友枝雅樹の死亡推定時刻は、十日の夜中から明け方にかけてです。大抵の人間にはアリバイがない時間帯ですし、終日のアリバイが完璧でも容疑者から外れるとは限りません」
『たしかに、スケジュールを見る限り堂珍にもギリギリ犯行は可能だな。けど、出張から帰ってそのまま犯行に及んだってのは無理があるんじゃねえのか? それなら堂珍が指示役で東凰会が実行犯って仮説のほうが納得いくぜ』
「その友枝殺しについてですが」
葉桐との捜査会議で浮上した仮説に、落合も「なるほど、一理あるな」と一応の賛同を示す。
『しかし、どうにもピースが上手くハマらねえんだよな。友枝殺しが東凰会や青龍会の仕業だとすると、あのDVDはどういうことになるんだ? 東凰会は堂珍と裏で繋がっている持ちつ持たれつの関係だ。その東凰会が、堂珍に濡れ衣を着せるようなマネをするとも思えねえ。それなら、DVDを置いたのは堂珍や東凰会とは無関係の第三者ってことになるが、じゃあ置かれたタイミングが友枝殺しと被っていたのは偶然だってのか』
時也も落合と同じ疑問を抱えていた。だからこそ、葉桐の仮説に百パーセント同意することができないのである。
「もしかすると、友枝殺害は目的ではなく手段なのかもしれません」
『手段? どういう意味だよ』
「俺たちは、友枝雅樹は何か明確な理由があって殺害されたという前提で捜査しています。ですが、そもそもその前提が間違っていたとしたら……友枝殺しもDVDも、他のある目的のために用意された手段に過ぎないとしたら」
『何だよ、ある目的って』
苛立ちを抑えた声の落合に、時也は「ううん」と小さく唸り返す。
「まだ確実に見えているわけではありませんが……たとえば、堂珍仁を社会的に抹殺するとか、東凰会を壊滅させるとか、そういうもっと大きな目的が犯人にはあるのではないでしょうか。そう仮定すれば、DVDの存在にも意味が出てきますし」
『友枝雅樹を殺害しその罪を堂珍に擦り付けることで堂珍を破滅させる、か。たしかに、友枝雅樹を消すことだけが目的ならばあんな目立つ場所に遺体を遺棄しないしDVDを用意する意味もない。犯人の行動は、まるで友枝殺害を警察にアピールしているみたいだ』
新たな仮説を吟味するかのように、二人の間に沈黙が下りる。柔らかな春風に乗って届いたのは、電車が駅に到着する音。ふと、険しい顔で駅のホームに立つグルメ刑事の顔が浮かんだ。
『あのDVD……いや、まさかな』
「落合部長?」
『ああ……何でもねえよ』
「もったいぶらないでくださいよ。何か気付いたことがあるのでは」
『そういうわけじゃないさ。つい突拍子もない想像をしちまっただけだ』
「そういう突拍子もない意見が捜査を前進させることもあります」
『くだらねえ想像だ。あのDVDを置いたのは末永なんじゃねえかってな』
「自公党の末永保彦ですか」
先輩が告げた意外な名前に、瞬時言葉を切る。
『ほら、二人には古川夏生って共通点があるだろ。もし古川と堂珍の繋がりが今でも続いているとして、古川が二人のパイプ役になっているとすれば……堂珍が現役時代、二人は犬猿の仲で有名だったんだよ。末永は次の内閣改造で初入閣の話が持ち上がっている。それを知った堂珍が末永の出世を邪魔しようとしていたとすれば、どうだ』
「出世の足を引っ張る堂珍を蹴落とすために、ですか。しかし、そうなると末永は堂珍が友枝殺害に一枚噛んでいることを知っていたか、あるいは末永自身が友枝を手にかけたということになります。友枝と末永の繋がりは今のところ何も挙がっていませんし、あまり現実味がある仮説とは言えないのでは」
『だから言っただろ、俺の勘繰り過ぎだって』
ぐうの音も出ないといった口ぶりの落合だが、時也はパーマ頭の仮説を完全否定したわけではない。
「ですが、落合部長の予想は当たらずとも遠からずといったところだと思いますよ……実はつい先ほど、落合部長に教えていただいた地検出身の刑事に話を聞きました。常磐会の闇献金問題のことも」
重松刑事との会話の内容を、洗いざらい話して聞かせた。末永保彦が共産推進党に寝返り、自公党を売ったのではないかということ。密談に同席した美濃佐吉が口封じのため殺されたのではないかということ。落合は最後まで口を挟むことなく黙って耳を傾けていた。
『そりゃまた、とんでもねえ仮説だ』
乾いた笑い声が、電話越しにくぐもって聞こえる。それから長い溜息がひとつ。
『もしその仮説が真実だとすれば、随分とでかいパンドラの箱を開けたものだな。俺らは恐ろしい連中を敵に回すことになるわけだ』
「正直なところ俺もまだ半信半疑ですが、末永と堂珍が実は水面下で繋がっていた、という部分は落合部長の推測と共通しています。二人の関係を調べる価値はあると思いますよ」
『判った。末永保彦にも黒い噂がないわけではないからな。せいぜい、友枝雅樹の二の舞にならない程度にやってみるか』
「落合部長に限ってそれはないでしょう……くれぐれも慎重に、よろしくお願いします」
「おうよ」という掛け声と同時に電話が切れた。スマホをポケットに仕舞った時也は、陽が傾きかけた空を見上げながら小さくぼやく。
「パンドラの箱、か。一体どんな災厄が飛び出してくるのやら」
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