第19話 蟹座の女


 美濃病院で森野の遺体が見つかってから一夜が明けた二十日の日曜日。その日の午前、時也は足立興信所を訪れた。「小林誠和不動産の信用調査で興味深い結果が出た」と所長の足立衛から連絡が入ったのだ。

「やあ、随分とお疲れみたいだね」

 にこやかな笑みを湛える足立は、例えるならば早朝の森林を吹き抜ける風のように爽やかだ。一方の時也は、僅かにこけた頬と落ち窪んだ眼、生白い顔を自宅の洗面鏡に映して思わず「すごいな」と自嘲したほどである。

「ああそうさ、見た通り疲労困憊だよ。悪いが今はお前の皮肉を跳ね返す余裕はない。結果を手短に報告してくれ」

「そこまで君を追い詰めるなんて、なかなか手強い相手みたいだね――まあ、たしかに一筋縄ではいかないってのは同意見だよ」

 時也がタブレットで調査報告を速読する間、事務員の女性が二人分のコーヒーを運んできた。はっとするほど鮮やかな瑠璃色のコーヒーカップは、近畿地方で生産された焼き物で日本六古窯の一つに数えられる名器である。人の粗探し以外に趣味がないという足立の、数少ない道楽だ。

「なるほど。やはり繋がっていたのか」

 報告書を読み終えた時也は、タブレットを大理石のテーブルにそっと置いてからコーヒーカップに手を伸ばす。

「小林誠和不動産の前進となる建築会社と、美濃病院が関係していた。これで事件の核にまた一歩近づいたな」

「真野建設株式会社。美濃総合病院の建設に直接携わった会社だね。病院が竣工したのは今からちょうど五十年前の一九八二年。現在の小林誠和不動産へと社名を変えたのは二〇一九年だ。建設業に加え不動産販売を開始することになり、事業拡大に伴う社名変更だって話だけれど」

「不祥事を起こした美濃病院との繋がりを断ち、社のイメージ刷新を図るために名前を変えた――と見るのが妥当だな」

「だろうね。ただし、変えたのは社名だけじゃない。真野建設から小林誠和不動産に変わったとき、大規模な人員整理があってね。真野建設時代の社員の多くは半ば強制的に辞めさせられ、代わりに新社員を大量採用したみたいだよ。その中に、小林誠和不動産として新しく開業した当時の採用者リストもある。十七年前のものだから、辞めた社員もいるだろうけれど」

 タブレットを素早くスクロールしていた時也の指が、ある社員の名前が表示された瞬間にピタリと止まる。

「大村泰明は、真野建設当時の社員ではなかったのか」

「大村?」

「マル害の直属の上司だよ。真野建設から小林誠和不動産への社名変更は十三年前。現在の大村の年齢は――四十三。だとすると、入社時は三十歳か」

 経歴書によると、大村は都内の薬学系大学を卒業後に病院で薬剤師として働いていたものの、両親の介護を理由に二十八歳で退職。二年後に小林誠和不動産へ営業マンとして転職した。

「病院から不動産業界か。かなり異業種への挑戦だな」

「別に珍しいことじゃないだろ、今の時代は」

 かくいう足立も、二十代半ばまでは職を転々としていた経歴がある。キャリアチェンジという意味ではたしかによくあることだ。

「警察も大変だな。ちょっとでも普通から外れている要素はすぐ怪しまなくちゃならないんだから」

 苦笑いする足立に、時也は小さく鼻を鳴らす。

「一種の職業病さ、お前だって似たようなものだろ」

「失敬だな、僕は無差別に人を疑うようなことはしないよ」

「足立の場合、人を疑う以前に信じていないからな」

 時也の無礼な言い草にも、旧友は「ひどいなあ」とけらけら笑い返す。

「ああ、そういえばこの前追加で頼まれた件も調べておいたよ。データは入っているはずだ」

 画面をスライドさせる。MERCURYの雇われ店長について身辺調査を依頼していたのだ。

「林龍二、四十二歳。県内出身で高校卒業後は車の部品を造る工場に就職するも、二年未満で退職。以降は職を転々としながら立浜の中華街に流れ着き、料理店で働いていた。四十のとき料理店を辞めたのはこの頃に株式会社賢者の石の狭間社長と知り合ったからか」

 林龍二には、三十代までに傷害と覚醒剤使用の前科がある。傷害事件は、居酒屋で偶然居合わせた客と口論になり相手を負傷させた。覚醒剤は暴力団から入手したものを使用し、知人に横流ししていた罪にも問われていたようだ。

「マルBとのつながりがあったのなら、狭間社長はその筋を介して林龍二の存在を知ったのかもな」

「その狭間って人のことも調査済みだよ。絵に描いたかのごとく怪しさ満点の人物だね」

 もとは関西にある株式会社賢者の石の本部に在籍していたが、七年前に立浜支店へ異動。支店長になったのは五年前だ。狭間が立浜支店へ移った頃は県内に二店舗しかなかったパチンコ店も、現在では十数店舗まで拡大し中にはボーリング場やゲームセンターを併設した店もある。かなりのやり手であることは間違いない一方で裏では暴力団と蜜月の関係にあり、さらには法律すれすれの高利貸し業も営んでいるなど、黒い噂も絶えない。

「たしか、本部の社長は華僑だったな」

 用意周到なことに、足立は本社の信用調査まで済ませていた。代表取締役の龍安尭は、中国人の父親とともに幼少期で日本に帰化。母親は日本人だが中国籍を取得していて、安尭が生まれた直後に病死している。父親は母のルーツを辿って日本に行き着いたのだ。

 日本戸籍を取得してからは小学校から大学まで順調に進学。大学在学時代には学友とともに経済研究サークルなるものを設立し活発に動いていたようである。卒業後の数年間は空白時代が続くが、二十七歳で株式会社賢者の石を起業。経営者としての才覚があったのだろう、めきめきと頭角を現し娯楽業界をのし上がった。葉桐の言通り上場企業とまでないかないものの、まずまずの業績をキープしこの数年は他県へも積極的な進出も目立つ。

 詳細な社歴を目で追っていると、時也の興味をことさら惹きつける情報にたどり着いた。

「この〈H市パチンコ店建設中止請求事件〉って、本部もパチ屋関連で事件を起こしているのか」

 森野浩二がY県のパチンコ店で遊技機の違法改造に関与し自殺した事件とは、別案件のようだ。詳細をまとめると――

「八年前の二〇二四年夏。株式会社賢者の石がH県H市のある地区でパチンコ店を新規建設しようとした。ところが、H市の市長がその計画に待ったをかける。H市には〈パチンコ店その他の遊戯施設およびライブハウスその他の遊興施設を建設するにあたっては市長の許可を得なければならない〉という独自の条例が定められていて、遊戯施設および遊興施設を建築できる位置まで決められていた。株式会社賢者の石が建てようとしている場所は条例により建設禁止区域に指定されていたことから、市長はパチンコ店の建築工事を中止するよう求めた。

 市長の中止命令を、株式会社賢者の石はいとも簡単に撥ね退けた。すでに同市の建築審査会からは建築確認が下りていて、またH市の条例には罰則規定が設けられていないことから市に対して強気に出た。そして、条例を無視し建築を強行しようとする姿勢に激怒した当時の市長が民事訴訟で訴えた」

 問題はここからだ。裁判の判決が出る前に、市長が被告に対する工事中止命令を取り下げたのである。

「市長は自ら起こした裁判を自分から下りた。何故だ?」

「さあね。土壇場になって怖気づいたのか、はたまた相手側に脅されたのか……ただ、裁判所側はもともと原告である市長側の訴えを棄却しようとしていたから、いずれにせよ市長に勝ち目はなかったんだけど」

「棄却、か」

 反復する時也に、興信所所長は含み笑いを返す。

「意外そうだね。市長は上告して最高裁にまで持ち込んだけど、最高裁としては〈国または地方公共団体が国民に対して行政上の義務の履行を求める場合、それは法律上の訴訟にはならず裁判所で審判するに相当しない〉という結論でまとめたらしいよ」

「行政権をめぐる争いは法律上の訴訟ではないから、法を司る裁判所が審理する必要はない……ということか」

「かみ砕いて言えばね。ただ、最高裁が判決を下す前に原告である市が訴えを取り消したから、結末としては不完全燃焼といったところだろうけど」

「わざわざ最高裁に上告までしたのに、なぜ判決が出る直前に白旗を振ったんだ」

「さあ、今となっては解明しようがないね。原告側の市長は裁判の後に事故死して、真相は闇から闇に葬られてしまったし」

「事故死?」

「公用車での移動中、運転手がハンドル操作を誤って対向車と正面衝突。市長側の車は見るも無残な有様で、乗車していた二人とも即死だったそうだ」

「相手側は?」

「たしか妙齢の女性だったかな。当時の新聞記事では意識不明の重体だと報じられていたけど、その後どうなったかまでは」

 瑠璃色のコーヒーカップ片手に肩を竦める足立。時也はタブレットを机上に置くと、冷めたコーヒーを喉に流し込んだ。

「遊技機の違法改造に関与したパチンコ店の従業員も、店の建設に反対した市長も車絡みの事件で死亡している。偶然で片づけるには奇妙な一致点だな」

「市長の事故は警察が処理しているはずだから、データベースですぐ見つかるんじゃないか」

「ああ。Y県の事故みたいに不可解な点が見つかるかもしれないな……収穫が多くて助かったよ。小林誠和の提報者だけじゃここまで仔細な情報は引き出せないからな」

「調査結果に満足してくれたようで何よりだ。データのコピーは?」

「それは不要だ。全部ここに入っている」

 こめかみを指で叩く時也に、足立はにこりと微笑んだ。



 興信所を出て車に戻ると、車内時計は〈12:21〉を示していた。このまま次の行動に移るかそれとも昼休憩を挟もうか――などと思案していると、鞄の中でスマートフォンが震える。

『葉桐だ。急ですまないが、ちょいと時間を作ってくれないか。本部で話があるんだ……何の話かって? まあ、ちょっとした作戦会議だよ。あ、弁当あるから昼飯まだなら手ぶらで来い』

 言われるがまま県警本部の小会議室に向かうと、なぜか内海明日夏巡査長が三人分の弁当を携え待機していた。

「内海。どうして葉桐と一緒なんだ」

「科捜研でお会いしたんです。それで、捜査情報を共有するうちに葉桐部長が『新宮も呼び出そう』とおっしゃって」

 三人前の幕の内弁当とお茶のペットボトルをてきぱきと机上に並べる内海。時也は釈然としないままジャケットを脱いで、パイプ椅子の背凭れに引っかける。

「葉桐が科捜研に?」

「ええ。たしか、殺されたスジが調査していたパチンコ店を探っていて、客引きをしている怪しい女性がいるのだとか。詳しいことはまだ伺っていませんが……新宮部長、弁当どれにします?」

 立浜駅構内で販売されている期間限定の弁当箱には、ソメイヨシノ、八重桜、枝垂桜の模様がそれぞれプリントされている。内海によれば中身のおかずも微妙に異なるということだが、時也はてきとうにソメイヨシノの箱を選んだ。

「ところで、肝心の呼び出した張本人はどこに行ったんだ」

「煙草だそうです。私、午後から森野のマンションに行くのでお先にいただきます」

「それじゃ、俺も先に」

 二人が弁当の蓋を開くと同時に、部屋の扉が勢いよく開いた。風圧に乗って微かに煙の匂いが漂ってくる。

「おいおい、まさか俺を待たずに食い終わっちまったのか」

 責め立てるような口調の葉桐に、時也が「まさか、その逆ですよ」と返す。

「葉桐部長。内海から科捜研で会ったと聞きましたが、何か遺留品でも見つけたのですか」

「そうそう、話ってのはそのことなんだが」

 枝垂桜の弁当箱を開封した葉桐が、子どものように唇を尖らせる。「なんだよ、俺エビフライ苦手なのに」

 交換しましょうか、と言いかけた内海を遮って時也はソメイヨシノの箱を突き出す。

「MERCURYで何か見つけたとか」

「お、サンキューな……煙草だよ、煙草。ほら、彼女が美濃病院で煙草の吸殻を見つけたんだろ」

 だし巻き卵を口に運びかけていた内海が「そういえば、葉桐部長も煙草が何とかとおっしゃっていましたね」と手を止める。

「ああ。聞いて驚くなよお二人さん……美濃病院の坂道に投棄されていた煙草の吸殻と、MERCURYの店内で押収した煙草の吸殻のDNAが一致したんだよ」

「それはつまり、森野一裕の遺体が発見された日に美濃病院跡を訪れた女性がMERCURYの客の中にいるということですか」

 内海に割り箸の先を向け、葉桐が「そういうこと」と頷き返す。

「しかも、同じDNAの吸殻が見つかったのは一度だけじゃない。おそらく女は常連だ」

「常連……葉桐部長、まさかを」

 にやり、と笑ってスーツの内ポケットに手を入れる葉桐。

「敵は案外、近くにいたってことだな」

 弁当箱の横に並べられた写真を、時也と内海は食い入るように見つめる。

「赤髪に真っ赤なワンピーススーツ。噂に出ている客引きの女ってのはおそらくこいつだろう。しかし、こうも派手な格好だと客引きと思われても仕方ないよな」

 葉桐の呟きに、内海も同意するように首を縦に振る。写真の中には、自動ドアを背に煙草を燻らせているショットもあった。

「葉桐部長は彼女と接触したのですか」

「いいや。あんな高嶺の花、恐れ多くて近づきがたい。それに俺の好みじゃないし」

 無言で睨みつける時也に、「冗談だよ」と肩をそびやかす。

「女とは接触していない。けど、彼女と親密な雰囲気で話し込んでいた男を取っ捕まえて根掘り葉掘り聞き出したんだ」

 その男によれば、女は単に店の常連で、「店の前で一服してから入ると当たりやすい」というジンクスが自分の中にあり入店前の習慣にしているそうだ。それを見たほかの客が彼女を「客引きの女だ」と勘違いするのだという。事実、警邏中の警察官に何度か職務質問を受けたこともあると本人が語っていたらしい。

「MERCURYは店の外だけじゃなく店内にも喫煙スペースを設けている。さすがに外のゴミ箱を漁るわけにもいかないから、店の中の喫煙所を探ったんだ。客層の九割は男だし女の客は化粧っ気のないおばさんばかりだから、口紅の付着した吸殻は目立つんだな。DNAだけじゃなく、口紅の成分を解析した結果ブランドの種類まで一致したよ……で、ここからが重要なんだが」

 葉桐はポケットからさらにもう一枚の写真を取り出す。テーブルの上に置きかけて、その手を宙で止める。

「先に断っておくが、これは女と親しく話していた男に小型カメラを仕込んで撮ったものだからな。あくまで捜査のためだぞ」

 念を押すように言ってから時也に写真を渡す。肩越しに覗き込んだ内海が、一瞬顔を逸らす気配がした。

「葉桐部長が警官で良かったと、今初めて思いました」

 ぽつりと漏らした後輩に、「だから俺の趣味じゃねえって」と葉桐が唾を飛ばす。ざっくり開いたスーツの襟元からのぞく、白い肌と豊満な胸元。直視するにはいささか刺激が強い画像だが、時也の興味が注がれたのはまったく別のところだった。

「この、左胸の痣のようなもの。小さくて一見すると判りづらいですが、蟹座のシンボルマークですね」

 女の左胸に、数字の6を横向きにして上下に二つ並べたような奇妙なマークが刻まれている。内海に指摘され十二星座のシンボルマークを頭に叩き込んていた時也は、すぐに察しがついた。

「決定打はまだあるぜ。その女、自分のことを〈カレン〉と名乗ったそうだ。正確な綴りは〈Caren.C〉らしい。顔の彫りが深くて見た目はハーフのようだったから男はすんなり信じたらしいが」

「Caren.C――アナグラムか。並び変えると〈Cancer〉つまり蟹座のスペルになる」

「ご明察だ。どうせ偽名だろうが、人をおちょくったような名前だよな……何度も言うが、俺の好みじゃねえからな」

 写真をまじまじと見ていた内海が「わかってますよ」とすげなく返す。

「これで、組織の中で判明したメンバーは五人か」

「お前たちの予想だと、メンバーは十二星座になぞらえて全部で十二人なんだろ」

「仮説の域を出ませんが、これで全員ということはないでしょう。少なくとも今判明している五人の中にリーダー格はいないと思われます。ただ、ひとつはっきりしたことがある」

 蟹座の女の写真を机上に伏せ、その上に指を押し付ける。

「友枝雅樹は、小林誠和が新組織とつながっているかを探る目的で潜り込んでいた。そしてMERCURYの存在に辿り着いた。そこでもしこの女と接触していたとすれば――彼を手にかけたのは、刺青の組織である可能性が極めて高い」

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