第22話 株式会社賢者の石
翌月曜日の十時。時也は小林誠和本店へ車を走らせた。店はすっかり通常営業に戻っていて、乗用車やトラック、タクシーなどあらゆる車が出入りしている。社員が殺されたことなどすっかり忘れ去ったかのような、日常の風景。だが、まだ事件は解決していない。犠牲者は三人に増え、犯人は野放しのままだ。これ以上の被害拡大は何としてでも防がなければならない。陳腐な表現だが、公安警察の威信がかかっている。
駐車場の一角に車を停め、時也は裏口へと向かう。従業員専用の扉をためらいなく押し開け、警備室の窓口で警察手帳を掲げた。
「ああ、あんたはこの前の」
白髪頭の男性警備員は、一週間前に一度だけ訪れた時也の顔を憶えていた。すかさず営業スマイルを浮かべながら、
「その節はどうも。すみません、ちょっとお聞きしたいことがあるのですが……この裏口、社員も頻繁に利用しますか」
「まあ、使う人は使うね。使っちゃいけないという決まりはない」
「お客もここを通ることができますか」
「客は別だよ。基本は正面玄関から出入りしてもらう。業者とか、他支店の社員とかは例外だがね」
「たとえば、予め社員の許可を得た客がここを通過することはありますか」
「そういう部外者もいないことはない。私に一言伝えてさえくれたら」
「この一週間で、営業課の大村さんを訪ねてこちらに来た方は?」
質問の意図を図りかねているのだろう、警備員は露骨に怪しむような表情で時也を見上げる。
「そりゃ、事件の捜査に関係あるのかい」
「関係なければお訊ねしませんよ。それとも、令状がなければ返答できませんか」
「そんなことはないが……ちょっと待ってくれ」
警備室の奥に引っ込んだ男は、窓口のすぐ横にある扉をそっと開けた。
「こっちにカメラがある。裏口の映像もあるから確認してくれ」
「いいんですか」
「確認が面倒なんだよ、見るなら好きにしてくれ。映像は一ヶ月前まで記録されているから。ただし、裏口付近の分だけだぞ」
「もちろんです。ご協力感謝します」
気前が良いのか単に職務怠慢なのか、とにかく警備員の申し出を快く受けた時也は素早く映像チェックを開始した。四月一日から昨日までの二十日間、大村が裏口を利用したのは三回。四月九日、十二日、二十日。九日は友枝雅樹の消息が途絶えた日、十二日は友枝の遺体発見日、そして二十日は森野が行方を眩ませた日だ。
「十二日と二十日は土曜日と日曜日ですが、この日はあなたも出勤されていたのですか」
「いや、警備員は土日休みだよ。ここの監視カメラは録画するだけなら警備員なんている必要はない。万一店休日に異常事態が起きれば、別のセキュリティ会社に連絡が入って駆けつけてくれるからね。まあ今までそんなことは一度もなかったが」
「裏口の鍵の管理は」
「警備員がいるときはもちろん警備室で管理するが、いない日は社員証で開閉できるように設定を変えるんだ。なかなかよくできているだろう」
「ええ、非常に合理的です」
大村泰明が裏口を使ったことは映像から一目瞭然だが、部外者を引き連れている様子はない。どの画面でも大村一人が出入りしているだけで、不審な動きは見られなかった。
「ちなみに、今朝は大村さんとこちらで会いましたか」
「いいや。今日は業者以外には誰もここを通っていないよ」
「そうですか。どうもありがとうございます」
丁寧に頭を下げ、警備室を辞する。車に戻った時也は、県警本部の刑事部にいるスジへ連絡を入れて裏口を使った日の大村泰明の動きを調べてもらうよう頼み込んだ。大村が明確なターゲットになった今、時也自ら彼を訪ねてあれこれ聞き出すとかえって不信感を抱きかねない。あくまで本人からは一歩距離を置き、外堀を着実に埋めていくのが利口だろう。
小林誠和本店から車を発進させ、次に時也が向かったのは株式会社賢者の石の立浜支店だ。最寄りには方蔵町駅があり、上港区の新立浜駅や西港区の立浜駅まではいずれも電車で二十分足らずの距離。中心街へのアクセスには困らない立地だ。広々とした片道二車線の本通りは、レストランやスーパー、書店、ドラッグストア、雑貨屋など生活するには充分な店が点在している。株式会社賢者の石の支店は、本通りに面した〈方蔵第一ビル〉の三階に居を構えていた。
時也はビル付近をぐるりと一周し、向かいにある小さな公園を監視場所に決めた。時刻は昼の二時を回ったところ。雲一つない空には白い太陽が燦燦と輝き、アスファルトに陽炎を生み出している。照りつける日射しにワイシャツの下がじんわりと汗ばむのを感じながら、時折コンビニで買ったミネラルウォーターで水分補給をし辛抱強くビルを見張り続けた。
張り込みを始めてから、一時間半。首筋の汗をハンカチで拭い、場所を車内に移そうかと考えあぐねていたときだ。ビルの一階エントランスから一人の女性が姿を見せた。紺のベストに膝丈のスカートというスタイルはいかにも事務員のそれだ。腕には小さなトートバックと日傘を下げている。時也は荷物をまとめて立ち上がると、急いで横断歩道を渡り小走りで女性に近づいた。
「あの、すみません」
振り返った女性は、いきなり声をかけたスーツ姿の男に怪訝な目を向ける。
「突然申し訳ありません。あの、こちらのビルから出てこられましたよね? 私、こちらの株式会社賢者の石という会社に用事がありまして……失礼ですが、社員さんではないですか」
「え、ええ。そうですけど」
丸眼鏡にひっつめ髪の女性は頷きつつも、その目には警戒の色が浮かんでいる。時也は「ああ、よかった」と大袈裟に笑ってから、
「申し遅れました。私、こういう者でして」
懐から名刺入れを取り出し、一枚を女性に差し出す。〈株式会社サンスタッフ営業課係長 宮野和也〉と印字された会社名は、時也が以前スジを作った人材派遣会社から借りたものだ。名刺の電話番号は
「本日は、狭間支店長に用件があって伺ったのですが」
「ああ、ごめんなさい。彼は本日不在なんです。先週から出張に行かれて、今日まで戻らないはずです」
「そうですか、それは残念だ」
肩を落とす時也に、女性は優しい声で「ごめんなさい、わざわざ来ていただいたのに」と陳謝する。
「いえいえ、私のタイミングが悪かっただけで。アポも取らず来たので当然と言えば当然です」
「あの……もしかしてお昼からずっと待っていらしたんですか」
女性が遠慮がちに時也の顔を覗き込む。ジャケットとネクタイを片手に引っ掛けて額に汗の玉を浮かべた姿を見れば、誰だって容易に想像できるだろう。
「ああ、これはお恥ずかしい。実は、狭間さんがご在室のタイミングを狙いたくてそこの公園で待機していたんです。でも、これじゃまるでストーカーですね」
ハンカチを取り出し額に当てる時也。女性は小さく笑いながら本通りを指すと、
「すぐそこに、私の行きつけの喫茶店があるんです。そこでお茶でもどうですか。私、今からお昼なんです。今日は日差しが強いしずっと外にいてお疲れでしょう」
「よろしいのですか……それでは、お言葉に甘えて」
はにかむ時也に、女性事務員は「もちろんですわ」と鷹揚に応えた。
二人が入ったのは、本通りに面した〈方蔵いこいカフェ〉という小さな喫茶店だ。店内は椅子やテーブルなの家具も含めて落ち着いたマカボニー色で統一され、レトロな趣を感じられる。キッチンにはペイズリー柄のバンダナを巻いた男性が立ち、白いエプロンを着けた女性がホール担当のようだ。
「素敵なお店ですね。料理も美味しそうだ」
メニュー表には、ナポリタンやハンバーグ、オムライスなどの定番メニューが揃っているが、店のイチオシは卵サンドだという。
「ここの卵サンドは、パン生地がふわふわで中の卵も柔らかくて甘いんです」
「そんな紹介をされると食べたくなっちゃうな」
などという会話を経て、女性はオムライスを、時也は卵サンドを注文した。テナーサックスが奏でる穏やかなジャズは、音量控えめで客の会話を邪魔しない。ランチタイムにしては遅い時間で、コーヒーを飲んでいた老夫婦が会計を終えてからは時也と女性事務員だけの空間になった。
「自己紹介が遅れましたね。私、木内冬実といいます。株式会社賢者の石で事務員をしています」
眼鏡の事務員はぺこりと頭を下げる。時也への警戒心は幾分か薄らいだようで、ぎこちなさはあるものの笑顔を見せる回数も増えた。掴みとしてはまずまずの反応である。そもそも、最初から支店長に用事などなかったのだ。
「実は、狭間さんを訪ねるのは今日が初めてでしたので緊張していたんです。風の噂でとても厳しい方だと聞いていましたので」
「そうですね。仕事に関しては容赦のないところもあります」
「やっぱり。次に行くときも心構えしていかないとですね」
木内冬実は立浜支店に入社して九年目。就学前の一人娘を育てるシングルマザーだ。地元は県外だが、大学入学以降はずっとK県にいるという。卒業後は県内の文房具メーカーで事務員をしていたが、取引先の小学校で出会った元夫と結婚し妊娠を機に寿退社。だが、元夫が職場でトラブルを起こし教職を離れてからは苦難の連続だった。
「夫が重度のアルコール依存に陥ったんです。専門機関の受診も勧めましたが、なかなか説得できなくて。そのうち暴力を振るうようになってしまい家庭が破綻しました」
「地元には戻らなかったのですね」
「実は、両親とは折り合いが良くなくて。実家は酒造なんですけど、本当は大学を卒業したら家業を手伝ってほしいと言われていたんです。それを押し切ってこっちに来たので、帰るに帰れなくて……ごめんなさい、つい自分のことばかりぺらぺらと」
職場にいる女性はほとんどが年配で、気を許して話せるような同僚はいないのだと漏らす。
「年齢を聞いて驚きました。とてもお若く見えたから……というより、私が老けているだけなんですけどね」
木内冬実は時也より四つ上の三十六歳。周りからはしばしば「三十代に見えない」と冗談めかして言われるのだ、と自嘲した。
「それは、木内さんが物腰柔らかで落ち着いているからでは? 僕は実年齢より若く見られはしますが、よく聞くと『言動が落ち着きなくて見ていて不安になる』らしいです。僕からすれば、木内さんの立ち居振る舞いはとてもエレガントで羨ましいですよ」
運ばれた卵サンドを敢えて豪快に頬張る時也。木内冬実は「そうかな」と照れ臭そうに首をすくめると、
「私は、華やかでオープンな性格の人が眩しく見えます。自分が地味で目立たないから、僻みっぽく聞こえてしまいそうだけれど……そういう意味では、支店長はとても目立つ方ですよ。存在感があるというか、その場にいるだけで周囲を圧倒するというか」
「かなりの経営手腕をお持ちのようですね。狭間さんの代になってから店舗数がかなり増えたとか」
「もともとは関西の本部にいらしたんですけど、そちらの業績が好調で関東へ事業拡大の話が出たときに白羽の矢が立ったのだとか。支店長は高校と大学時代を関東で過ごされていて、当時の本部内でこちら方面に詳しい人が支店長しかいなかったのだそうです」
「なるほど。その人選は間違っていなかったようですね。こちらにはいつ異動されたのですか」
「七年前です。以前の支店長はお人柄が良くて温厚篤実な方でしたが、押しに弱いというかここぞという場面で強く出られない性格が災いして、精神的な疲労で辞められたんです」
「その後釜になったのが狭間支店長だったわけですか。しかし立浜支店でのご活躍を見るに、本部でも手放すに惜しい人材だったのでしょうね」
「そう……ですわね。ところで、宮野さんは支店長にどのようなご用件で?」
時也は食べかけの卵サンドを皿に置き、紙ナプキンで口元を拭う。
「そうそう、お喋りに夢中で肝心の仕事を忘れるところでした。実は私、この一帯で人材派遣の営業を担当していまして。簡単に言えば『人手不足でお困りではありませんか。うちから人材を派遣しましょうか』と提案に回っているんです」
「大変そうですね。私は経験がありませんが、営業部の人たちを見ると並大抵の精神力ではありません」
「仕事は適材適所ですからね。それを見極めることは難しい部分もありますが。僕は大雑把できっちりした業務が苦手なので、事務職には向いていないと自己分析しています――ああ、そうだ」
鞄からクリアファイルに収めた資料を取り出し、木内嬢に渡す。株式会社サンスタッフが実際の営業活動で使っているものだ。
「これ、うちの営業用の資料です。もし近いうちに新店舗を出す予定等あれば、ぜひうちのサービス利用をご検討いただきたくて。よければ狭間支店長にお渡しいただけますか」
「ええ、もちろんですわ」
「名刺も入っていますので、何かあればお電話くださいともお伝えいただけると」
時間が差し迫っていたので、慌てて食事を済ませる。木内嬢が手洗いに立ったタイミングで会計を済ませ、店を出たのは昼休憩が終わる十分前だった。
「あの、ほんとにお支払いは」
「いいんですよ。こちらから無理に押しかけてしまったし、お陰様で営業資料も渡せたので」
深々と頭を下げ、事務所へ戻りかけた木内に「あの」と声をかける。
「木内さん。もし、何かお困りのことがあれば話を聞きますから。僕なんかでよければ、ですけど」
狭間慎二の話をしていた途中、木内冬美の表情が微妙に変化した一瞬を時也は見逃していなかった。唐突な申し出に、木内は言葉を詰まらせ視線が僅かに泳ぐ。
「あの、私は――」
自転車のベルが突如会話に割り込んだ。瘦せこけた老人がけたたましい音を鳴らしながら、二人の間をすり抜ける。それが別れの合図であったかのように、時也は無言で一礼し車を停めたパーキングエリアに向かって歩き出す。しばらく経って振り返ると、方蔵第一ビルに重い足取りで戻る木内嬢の後ろ姿が見えた。
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