第32話 スケープゴート
内海巡査長が立浜短期大学を訪れた同時刻、田端光留警部補は数名の捜査員を引き連れて、立浜市内にある桜井芳郎宅を訪問した。十年前の結婚と同時に建てたというマイホームは、グレーを基調としたスクエア型の外観で、コンパクトながらも都会的な雰囲気をまとう一軒家である。駐車場は普通車が二台停められるくらいのスペースが設けられているが、今は国産車が一台駐車されているだけだ。
仕事用の鞄を携える田端の隣には、刑事部捜査二課の山﨑昴巡査部長が堅い表情で直立している。他の捜査員は道路沿いに停めた車の中で、不測の事態にいつでも対応できるようにスタンバイしていた。すべての手筈が整ったことを確認し、田端は玄関の呼び鈴を鳴らす。
「あなたは、この前の刑事さんじゃないですか」
扉を開けたのは、黒縁眼鏡に若竹色のセーターを着た四十代の男。大学で古代史でも教えていそうな知的な雰囲気を漂わせている。
「何度もお邪魔してすみません。実は、奥様の件でお話がありまして」
「もしかして、詐欺の犯人が捕まったのですか」
二年前の連続詐欺事件に関しては「犯人は未だ逃亡していて捜査継続中」と表向きは公表されていた。
「ええ、まあそのような内容です。これから詳しくお伝えしますので」
「ではどうぞ中へ。相変わらず片付いていなくて申し訳ないですが」
桜井芳郎が一人で住む家は、廊下に書類が山積みになっていたり洗濯物があちこちに放置されていたり、スタイリッシュな外観に似合わない乱雑ぶりだ。家事は亡き妻に任せきりだっという桜井は、片付けも苦手でついさぼりがちになってしまうと前回の訪問時にぼやいていた。それでも、いつ誰が訪問しても慌てないためかリビングだけは程よく片づけられている。
「こんなものしかありませんが」
湯飲みに注がれた緑茶と、袋が皺だらけで賞味期限不明の茶菓子が出される。礼儀正しい田端警部補は、「これはどうも、お気遣いなく」と頭を下げてから椅子を引いた。山﨑刑事も先輩に倣い、緊張した面持ちで隣に坐る。
「捜査の進捗が大変遅れていること、まずはお詫び申し上げます。桜井さんには何度も事情聴取にご協力いただき、感謝しています」
「とんでもない……妻をあんな目に遭わせた犯人を捕まえるためなら、私は何でも力になりますよ」
「お心強い言葉です。では、今からいくつか質問をしますのでお答えいただけますか」
「どうぞ。私に答えられる内容でしたら何なりと」
では失礼して、と警察手帳を開く。ページに目を落とすふりをしながら、視線は目の前の
「二年前の事件で、あなたの妻である桜井千里さんはチャタラットという無料メッセージアプリで七百万円を騙し盗られる被害に遭いましたね」
「ええ、その通りです」
「千里さんは、あなたと共用の銀行口座に貯蓄していた七百万円を引き出し、複数回に分けて現金書き留めで犯人に送金した」
「ええ。本人から聞きました」
「事件後、あなたにひどく責め立てられた千里さんは自責の念に駆られ、自宅の屋根に上り衝動的に飛び降り自殺を図った」
妻を亡くした夫は、微かに顔を顰める。見えない傷の痛みを堪えるように。
「ええ、そうです……私にも、千里の死に対する責任がある」
「ご自分を責めないでください――と言いたいところですが、はたしてそれは本心でしょうか」
「は?」
顔を上げた桜井芳郎は、「こいつは何をほざいているんだ」と言わんばかりの表情で目の前の田端を眺める。
「あの、それはどういう意味でしょうか」
「次の質問をしましょう。桜井さん、あなたは千里さんが亡くなってから一週間後にある慈善団体からお金を受け取っていますね。名目上は詐欺被害者救済金として」
「口座を勝手に調べたのですか」
「あなたに黙っていたのは申し訳ないが、所定の手続きを踏んで確認しています。質問に答えてください」
低姿勢の態度から一変した押しの強い口調に、桜井芳郎は戸惑いながらも「ええ、そうですよ」と認める。
「あなたは、千里さんが騙し盗られた額と同じ七百万円を受け取っていますね」
「千里が巻き込まれた詐欺事件は、他にも多くの被害者がいました。その被害者全員に被害額と同じだけの救済金を提供しているのだと説明を受けましたが」
「その慈善団体についてはお調べになりましたか」
「ホームページくらいなら……それが何だというのです」
山﨑刑事が、一枚の紙を机上に置く。インターネットサイトの画面をコピーしたものだ。上部には〈立浜市連続詐欺事件被害者支援団体〉のフォントが踊っている。
「そのホームページというのは、こちらですか」
「ええ、そのようです」
「こちらの代表者名に見憶えは?」
サイトの下部に掲載された〈代表者 山﨑昴〉という名前を、桜井氏はちらと見る。
「おそらく、この人から説明を受けたと思います」
「実際にお会いになったのですか」
「この団体の事務所に足を運びました。そこで説明を受けたんですよ」
「美土里区にある事務所ですね? ここに事務所の所在地が掲載されています」
「え、ええ。そうだと思います」
曖昧に返す桜井氏に、田端は笑みを湛えたままさらなる質疑を繰り出す。
「こちらの事務所を訪ねた際、他の被害者にもお会いしましたか」
「ああ、そうだ。たしかいましたよ。二、三人くらいだったかな。顔とか名前までは憶えていませんが。さすがに二年も前のことなので」
「説明をした代表者の人相は判りますか」
「何となくなら……うっすら記憶しているかも」
「それは、こちらの男性では?」
田端警部補から写真を受け取った桜井芳郎は、眼鏡のレンズ越しに両目を大きく見開く。
「似ているような気もしますが……まったく同じか断言はできかねます。こういう顔の人はよくいますから」
写真を机上に置き、緑茶を啜る。「そうですか」と呟いた田端は、
「おかしいな。あなたはこの人物をよくご存じのはずですが。少なくとも、顔を合わせたのはその説明のときだけではないはずです」
「どういう意味ですか」
口調を荒げる桜井氏に対して、警部補の声はいたって冷静だ。
「ある人物が証言してくれましたよ。あなたとこの写真の人物が共通の集まりに参加しているところを見たと」
「それは……他人の空似というやつでは? 誰かほかの人と勘違いしているのですよ」
「最近、何かしらの集会や会合などに参加されましたか」
「さあ。あったかもしれないですが、よく憶えていませんね……ああ」
ようやく思い出した、というように宙を見上げる桜井氏。
「判りましたよ。少し前でしたか、所用があって美土里区に行ったとき学生団体がデモ活動をしている場に遭遇したんです。興味本位でちょっとだけ立ち見していたのですが、それを見た人が勘違いしたのでしょう。デモの参加者と思い込んだのです。そのデモ隊の中に、先ほどの写真と似た顔があったのではないですか」
「それは、この事件ですね」
視線で合図をし、山﨑刑事が鞄から捜査資料を取り出す。ある週刊雑誌の原稿で、数週間前に美土里区の公園で検挙されたデモ活動について書かれていた。
「そうそう、これです。あっ、ほら。小さくて判りづらいですがここに映っているのが私です。写真にも撮られていたのか」
見開き二ページにわたり掲載されているデモの様子を捉えた写真だ。見切れるかぎりぎりの部分に、デモ隊を遠目に眺める桜井芳郎が写り込んでいた。隣には、眼鏡にオールバックの髪型できめた男が並んでいる。
「どうですか。これで納得がいきましたか」
曖昧な態度から一転、自信ありげな笑みを見せる桜井氏に田端は頷き返す。
「ええ、必要にして充分です……あなた方がよほど慎重で用意周到であるとよく理解できました」
「一体何をおっしゃっているのやら。どうやらまだ思い違いをされているようだ」
嘲笑する桜井芳郎に、田端は余裕めいた笑顔を返す。
「慈善団体の事務所を美土里区に設置したのは偶然ではない。美土里区は近年、デモ活動の聖地と言われるほど様々な団体が運動を展開させています――あなた方
瞠目する詐欺被害者に、田端は淡々とした声で畳みかける。
「あの近辺には複数の政治団体や環境団体が拠点を設立している。紛れ込むには絶好のポイントだったでしょう。あなたが事務所を訪れたのは救済金の説明を受けるためではない。秘密裏に行われるゾディアック団の定期会合に参加することだったのです。慈善団体の事務所は、組織にとって隠れ蓑にすぎなかった」
「一体……何を言っているのですか。そんな団体名、聞いたことがない。憶測だけで物事を話すのはお止めになったほうがいいのではないですか。仮にも警察の人間ならば、確実な証拠と論理的説明に基づいて捜査をすべきだ」
「私は論理的な説明をしているつもりですがね」
「とんでもない。あなたの話はすべてが想像だ。それに、仮に私が政治団体や環境団体の活動に参加しているからといって、それが何の罪になるのですか。法律で禁じられているわけでもないのに」
「もちろん、正規の手続きを経た活動であれば何ら問題はありません。ですが、詐欺の被害者を装い架空口座を通して政治家から資金を受領していたとなれば話は別です」
桜井氏の上半身が金縛りにあったかのごとく動かなくなった。口だけをぱくぱくと動かし、助けを求めたいのに体が言うことをきかないかのようだ。滑稽にも見える桜井芳郎を前に、田端は平然と話を続ける。
「二年前の事件で、あなたが架空口座を通して慈善団体から七百万円を受け取っている事実は既に判明しています。架空口座の名義人はもちろん偽名で、存在しない人物のもの。その人物は、慈善団体の代表者である
慈善団体のホームページの紙を手に取り、顔の横に掲げる。
「ここに掲載されているのは、代表者の名前ではありません。今私の隣にいる
山﨑昴巡査部長が、胸の前に自身の顔写真と名前入りの警察手帳を掲げた。桜井芳郎は「まさか」と消え入りそうな声で呟く。
「すみません、字面が似ているので打ち間違えてしまいました――実はこのホームページ、捜査資料に基づいて我々が再現したものなんです。よくできているでしょう?」
学者然とした男は、怒りを孕んだ目つきで目の前の捜査員二人を睨んでいる。殺気に満ちた視線をものともせず、眼鏡の警部補は言葉を続けた。
「あなたは、慈善団体が詐欺の被害者全員に救済金を給付していると証言しましたね。残念ながら、それは事実ではありません。慈善団体の口座には、被害総額のおよそ半分の現金しか振り込まれていませんでした。被害者全員の額はとてもカバーできない。では、なぜ半分なのか」
警察手帳に挟んだ一枚の写真を机上に差し出す。そこに写っていた顔を見た瞬間、桜井氏の顔に明らかな狼狽の色が浮かんだ。
「慈善団体の口座に入っていた現金は、複数の架空口座を経て最終的にはある人物から振り込まれたものと判明しました――末永保彦、現自由公正党の国会議員です。詐欺被害者の半数は、毎年陣中見舞いを贈るほど末永の熱狂的な支持者でした」
末永保彦の写真を指で示し、鋭い眼差しを桜井に向ける。
「選挙区内の政治家が個人や団体へ行なう寄附については、厳しい規定があり寄附のほとんどが公選法で禁じられています。のみならず、今回は架空口座および架空の慈善団体を経由しあなた方に現金が支給されている。これは明らかな違法行為です――しかも、それだけではありません」
田端が言葉を切ったと同時に、山﨑刑事がスーツの内ポケットから小型のICレコードを取り出した。再生ボタンを押し、微かなノイズの後に流れてきたのは
『……そもそも救済金のアイデアを思い付いたのは、昨今の自公党の支持率低下がきっかけでした。末永の支持者たちも半ば惰性で見舞金を贈っている節があり、与党第一党としての影響力が弱まっているのは目に見えていた……だから、救済金は恰好の的だったのです。支持者とはいっても、彼らは決して法に明るくない。上手く言いくるめて救済金を配すれば、被害に遭った支持者たちが再び自公党の株を上げてくれるのではないか、とね。支持者たちの凄いところは、おそろしいほどの拡散力です。たった十人そこらの支持者たちが、県内中に散らばっているネットワークを駆使して末永の名声を広めるんです……一本の主根から夥しい数の側根が出ているように』
山﨑刑事が停止ボタンを押す。無言の空間に、桜井芳郎の荒い息遣いが大きく響いていた。
「いい加減、認めてはいかがですか。もう言い逃れできないところまできているんです」
桜井芳郎の双眸が、大きく見開かれる。その口から洩れた「
「事務所を借り、架空の本人証明まで用意し複数の口座を開設するところまで念入りに計画し足がつかないようにしていたみたいですが、警察がそれを見抜けないと高を括っていたのでしょうか。だとすれば随分甘く見られたものだ。ちなみに言っておくと、あなたの共犯者が成りすました
顔面蒼白になった桜井をじっと見据える。先ほどまでの柔和な笑顔は消え失せ、公安警察としての威厳に満ちた顔がそこにはあった。
「二年前の事件で、あなたは詐欺被害者の遺族でしかなかった。だから、警察も迂闊には踏み込めませんでした。しかし、今のあなたは単なる被害者ではない――膝がお悪いのですか」
唐突な問いに、桜井芳郎は膝からぱっと手を放す。
「先ほどから右膝のあたりをずっと擦ってらっしゃるようですが」
「ああ……最近脚が弱っているもので。お気になさらず」
「それは心配ですね。どうですか、うちの山﨑に少し診てもらっては。こう見えても彼は、もともと医者志望の人間だったんです。実家も大きな医院を経営していて、お父様は優秀な整形外科の先生でいらっしゃる」
「ああ、いえ、結構です。大した痛みではありませんから」
慌てて両手を振る男に、田端は「それは残念」とわざとらしく肩を上げてみせた。
「しかし、断るのも無理はありませんね。そこを見られてはあなたがゾディアック団の一員であると暴露されてしまいますから。そうではありませんか、〈ゴート〉さん?」
「な――」
大きく口を開いた桜井芳郎に、止めを刺す。
「さすがに、カプリコーンという名では安直ですからね。警察の捜査を煙に巻くスケープゴートといったところですか」
「――くそったれ!」
黒縁眼鏡を外し、部屋の隅に投げ捨てる。何度も悪態をつきながら、山羊座のコードネームを持つ男は膝に拳を叩きつけていた。
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