第11話 幽霊病院


 翌日の月曜日。時也は朝から県警庁舎四階の情報技術推進室に入り浸っていた。落合巡査部長が話していた、常磐会闇献金問題の情報収集のためだ。

 常磐会のデータ量は、他の事件と比べても明らかに膨大だ。政治家が絡む事件は必然と情報量も多くなりがちである。時也は事件の概要をまとめたページにじっくり目を通していた。

 二〇一七年十月某日、場所はK県内の高級料亭〈月見草〉。医療法人常磐会の理事長を務めていた段田秋宗は、自由公正党と共産推進党の議員七人に総額一億円の小切手を渡した。段田はこの政治献金に対して領収書の発行を求めたが、議員らは後の幹部会で領収書を出さず収支報告書にも未記入のままだったことから、政治資金規正法違反の疑いがかけられた。

 ところが、七人の議員に小切手を渡したという段田の証言とは裏腹に、実際に起訴まで持ち込んだのは四人。当時の防衛省副大臣や厚生労働省政務官などいずれも自由公正党議員で、残りの三人は証拠不十分により不起訴となったのだ。不起訴に終わった三人の議員は、自由公正党議員が一人と共産推進党議員が二人。その自由公正党議員こそ、現衆議院議員の末永保彦だ。

 会食の現場には段田秋宗のほかにもう一人、常磐会の関係者が同席していた。美濃佐吉、当時五十五歳。常磐会が運営する大手総合病院〈美濃総合病院〉の院長だ。

「美濃総合病院の住所は、上港区か……そういえば、廃院になった常磐会の病院があるって落合さんも言っていたな」

 当然、警察は美濃佐吉にも事情聴取を実施。だが、美濃が語ったのは「あのお金が違法な献金とは思わなかった。会食の場にいた政治家は四人で、段田秋宗はその四人にお金を渡した」。段田を問い詰めると「美濃は嘘をついている。自分だけ罪を逃れて俺を陥れようとしているんだ」と啖呵を切ったが、月見草で保管している来客者リストには不起訴となった三人の名前はなく、店の防犯カメラに映っていたのも段田に美濃佐吉、そして起訴された四人の自由公正党議員のみで末永たちがその日来店した事実はどこにもなかったのだ。

「段田は美濃佐吉に裏切られたのか……だが、密会の一週間後に美濃佐吉は自宅で命を絶っている。なぜ彼が自殺する必要が?」

 独り言ちながら資料を読み込んでいると、背後から「新宮さん」と声をかけられる。横井警部補がのっそりとした足取りで近づきながら、

「携帯に着信が入っていましたよ」

 情報技術推進室では、入室の際にすべての所持品をカウンターで預かる規則になっている。だが、携帯電話の着信は場合によって緊急招集の可能性もあるためカウンター担当者が知らせてくれるのだ。

 時也のスマートフォンに残されていたのは、見知らぬ番号からの着信履歴だ。リダイヤルしてみると、相手は友枝雅樹のスジ運営をしていた捜査員だった。

『公安一課の新宮部長だな。友枝をスジ運営していた葉桐だ。東海林補佐から話は聞いたよ、友枝についての情報がほしいんだって?』

 随分と馴れ馴れしい口調だが、時也は慇懃な態度で「そうです」と返す。

「特に、彼が小林誠和について掌握していた情報を知りたいのです。もし友枝殺害の動機に小林誠和に関する情報が絡んでいるとすれば、彼は口封じのため殺害された可能性が高い」

『初回の捜査会議でもそんな話していたな――今は作業中で手が離せないから、そうだな。一九〇〇ヒトキュウマルマルに恵比寿通りの〈キャロル〉に来てくれ。ヤマシタで席を取っておく』

 公安警察官が店を利用するとき、本名で予約することはほとんどない。捜査に支障を及ぼす虞があることから、外部で素性を明かす行為はできる限り避けるのだ。

 葉桐とアポイントを取った時也は、情報技術推進室を後にして県警本部六階の警務部へ向かう。警務部は一般企業でいうところの人事会計にあたる部門を担っていて、時也の目的は警務課室にある採用センターだ。K県警に採用されたすべての警察官および警察関係者のデータが集約されている。

「おや、新宮部長じゃない」

 課長デスクから目ざとく時也を見つけたのは、飛崎星子警視。ノンキャリアで警視まで昇りつめた敏腕警察官だ。かつて生まれ故郷の高知で刑事をしていた時代に〈高知県警のタカラジェンヌ〉の異名を取るほどの美貌の持ち主だが、その見た目に似合わず男顔負けの度胸と腕っぷしで女性警官として県内トップの検挙数を叩き出したことも――というのは、風の噂で聞くところによる。

「飛崎課長。丁度良かったです、お願いがあって来たのですが」

「こっちは丁度良くないんだけど、新宮部長のお願いなら断れないな」

 この警務課課長はどういうわけか、採用試験時から時也を逸材として注目している節があり、所用で警務部を訪ねるといつも快く出迎えてくれるのである。

「お時間は取らせません。公安課の過去の採用者情報を拝見したくて」

「いいけど、まさかお仲間のスパイ?」

「そんな滅相もない」

 笑いながら、飛崎課長は時也に手招きをする。課長デスクのパソコンには、すでに目当てのデータファイルが開かれていた。

「採用年度別になっているからお好きにどうぞ。ただし、時間は三分だけね」

 タッチバッドに指を添え、最小限の動きで画面上のカーソルを操る。葉桐柊巡査部長の採用時データはすぐ見つかった。

「最終学歴は高卒なのか」

 画面を素早くスクロークしながら、思わず口に出す。葉桐は地元の高校を卒業後に関東の大学に進学するも、二年次に中退。その後すぐ日本を出て、海外留学をしていた。二年後に帰国してから警察試験を受け、高卒枠で合格している。

 偽経歴カバーだ、と直感した。公安の世界はどこまでも秘密主義を徹底している。職員の経歴を馬鹿正直に晒すわけがない。たとえ、同じ警察組織の中であってもだ。おそらく本来の経歴データは、堅牢なセキュリティシステムのもと公安課で管理されているのだろう。警務課で閲覧できるデータは表向きに拵えたものなのだ。

「なかなか面白い人よね、彼」

 時也の肩越しに画面を覗き込みながら、飛崎警視が呟く。

「葉桐部長をご存じなのですか」

「実はちょっとだけ話す機会があってね。世間話程度だったけれど、その中でぼやいていたよ。『人間は昇りつめるほど馬鹿で愚かになっていくから』って。昇進とかキャリアとかも全く興味がないって吐き捨てていた」

「なるほど。さすが世界を見てきた男は価値観が違いますね」

「相変わらずシニカルね」

 にやりと笑う女警視。無言で肩を竦めてからデータファイルを閉じると、

「あら、もう終わり?」

「三分だけと言ったのは飛崎課長ですよ」

「そうだったかな」

 わざとらしい惚け方も、高知県警のタカラジェンヌが演じれば不思議と様になっていた。



 本部庁舎を出た時也は、公用車を一台借りて上港区を目指した。フロントガラスの向こうには雲一つない青空が広がり、仕事でなければそのまま県外までドライブしたいほどの清々しい天気だ。行き先が廃虚と化した病院という点がいたく残念である。

 K区の北側に位置する上港区は、立浜市を構成する十七の行政区の一つだ。市が示す総合都市計画〈たてはま2030プラン〉では、立浜市における都心ツインコアの一つに位置付けられている。サッカーの世界大会やオリンピックの会場にもなった立浜総合国際競技場、K県最大規模の駅である新立浜駅があるのも上港区だ。ちなみに、捜査初日に時也が内海巡査部長と集合した立浜駅は新立浜駅ができる前からある古株で、新立浜駅より規模は劣るものの県民の足として長年親しまれている。

 目的地である廃虚の病院は新立浜駅から西方面、車で十分とかからない。戦国時代の城郭〈小杖城跡〉と美鶴川に挟まれるように位置していた。市民の森として整備されている小杖城跡の駐車場から、廃病院まで徒歩で向かう。

「医療法人常磐会美濃総合病院……ここか」

 病院へ続く上り坂の前までたどり着くと、錆びついてボロボロになった看板が時也を迎えた。あちこちの塗装が剥がれているものの「美濃」「病院」の文字は辛うじて残っている。緩やかな傾斜の坂道は案外距離が短く、三分も歩けば美濃総合病院跡が姿を現した。

「幽霊病院、か。落合部長の言葉もあながち大袈裟ではないな」

 時也の目の前にそびえ立つのは、今にも崩れ落ちそうな外観の病院施設だった。もとは白塗りだったであろう外壁は、雨風を受けてペンキが剥がれ落ち全体的に黒ずんでいる。建物は六階建てだが、正面玄関の自動ドアから各階の窓ガラスまでことごとく割れていてどこからでも侵入し放題の有様だ。窓に下がっていたであろうカーテンはほとんどが破られていて、僅かな切れ端が不気味に揺れている。陽が昇った時間帯でも鬱蒼とした雰囲気に包まれているのは、小山のような小杖城跡の裏手にあり陽光が木々に遮られるためだろう。たとえ市民の森までの最短ルートであったとしても、ここを突っ切るのは勇気が要りそうだ。

「まるで、横溝正史の〈病院坂の首縊りの家〉だな」

 日本を代表する名探偵・金田一耕助の生みの親である横溝正史の遺作が〈病院坂の首縊りの家〉だ。いわくつきの廃墟で起きる殺人事件を描いた長編小説で、たしか作中では廃虚に男の生首が吊り下げられる描写があったはずだ。名高い私立探偵の金田一が、解決まで二十年の月日を要した難事件であったと記憶している。

「まさか、今回の友枝殺しもそうなるんじゃ……まさかな」

 不吉な想像を追い払うように、頭を振る。それから廃虚周辺を散策してみたが、友枝殺しに繋がる手がかりはこれといって見つからない。玄関の自動ドアにはお粗末な規制テープが貼られているが、警察手帳を持つ時也は堂々とテープを跨ぎ中に入った。

 自然光がほとんどないため、携帯用の懐中電灯を手に建物内を捜索する。一帯を漂う何とも形容しがたい腐敗臭は、廃虚独特のものだろう。だが、腐敗臭とは別に時也の鼻はある臭いを嗅ぎ付けていた。

「人が生活しているのか」

 調理場やトイレなどの水回りを確認すると、手術室や病室と比べて微かに綺麗な状態なのだ。調理場には鍋やフライパンなどのキッチン用品もあり、水も使用された形跡がある。ごく最近、ここで誰かが料理をしていたのは明白だ。

「ホームレスでも居ついているのか。いや、ホームレスにしては中途半端な生活臭だ。どちらかといえば、一時的な避難場所として使っているような雰囲気だな」

 ぶつぶつと呟きながら、視覚で得た情報を脳内で整理する。最上階までざっと見て回ったところ、一階から二階までは各診療科の診察室や手術室が入っていて、三階より上は病棟のようだ。生活の痕跡は一階に集中していて、病室のベッドを寝床にしている様子はない。ホラーの類にさほどの苦手意識がない時也でも、廃墟の病院で寝泊まりするなど想像するだけで背筋が薄ら寒くなる。

「長居するような場所でもないし、このあたりで切り上げ――」

 カラ、ン。

 空き缶か何かを蹴ったような音が、廃虚内にこだました。すぐさま懐中電灯のライトを消し、近くの壁に身を潜める。外界から差し込む微かな光で、虚空に舞う埃の粒子がよく見えた。それだけの光源があれば人影を捉えるのには充分だ。

 そのまま数分間、息を殺して周囲の様子を窺う。一階フロアに人の気配がないことを確認し、壁からそっと身を離すと忍び足で玄関へ向かう。規制テープを跨いでからは、わざと悠長な足取りで徐々に廃虚から離れていった。殺気や警戒心が感じ取られない以上、こちらが過敏に反応する必要はない。

 病院跡の坂を下りきると、時也は不意に立ち止まる。顎を伝う汗がアスファルトに小さな染みをつくったとき、ようやく自分が緊張していたことを自覚した。

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