第2章 売られた喧嘩を買う
第1話 登校初日
眼鏡というものは不便だ。
俺は頭が悪かったが目だけはよく、眼鏡とは無縁だったからいまだに慣れず、理の部屋にいるときは外していた。
だがこれからは毎日日中はこれをかけていなければならないのだ。
そこに眼鏡があることを忘れて目をこすってしまいそうになり、レンズに指紋がつくわ、鼻当てがズレて視界が歪むわ、とかく小さなストレスが積み上がる。
一番不便なのは、ベッドに寝転がって漫画を読む時だ。
仰向けの時はいいが、姿勢を変えようと横を向こうもんならフレームが歪み、レンズの位置がズレてしまう。
とてもではないが、長時間読むことはできない。
うんざりしながら理に「どうすりゃいいんだよ、これ」と聞いても「寝転がって本を読むと目が悪くなるよ」と返る始末で、この苦労を分かち合うこともできない。
そもそも自分の体を使ってる奴に、何を他人事な指摘をしているのか。
知らずため息を吐きながら歩く俺の斜め前には、変わらず理がぷかぷかと浮かんでおり、その下半身を何人もの人が通り過ぎていく。
歩いていくにつれ、同じ制服の割合が増えていた。
「なあ。別について来なくてもいいんだぞ。学校にはおまえを殺しかけたやつがいるんだからな」
俺だって湧きあがる凶悪な感情を抑え込めるかは自身がない。
理はそれまでの蓄積もあるのだ。
叫んでも相手に聞こえることはなく、殴っても痛みを与えることはできないその体で、ただひたすら傍観していなければならないのは辛いのではないだろうか。
しかも自分の体を操っている男は、完全にその意思に従うわけではないと宣言までしているのだ。
俺だったらイライラしてとても見ていられないだろう。
「うん。でも、自分のことだからね」
理は時折自分の体を蔑ろにしているように感じる時があるが、加藤一派に関してだけは主体的で、実際に行動するのが俺であっても、決して他人事にはしない。
季節はいつの間にか冬になっており、過ぎ去る風はピリピリと頬を痛める。
男子高校生なんてもっと脂ぎっているものと思ったが、理は乾燥肌らしく、風呂上がりの保湿を欠かすとすぐに肌がピリピリするし、夜中に痒くなる。
俺とは無縁だった悩みでこれもまた慣れず、今日もうっかり何も塗らずに出てきてしまったことを後悔した。
「バックに保湿クリームを入れておくか」
まるで女子な独り言に自分でぞわっと鳥肌を立てたが、これ以上小さなストレスに痒みと痛みを上乗せしたくはない。
「聖陽高校。ここだな」
本当に理の家から近かった。
骨折しているから自転車には乗れないが、それでも三十分かからないくらいで着いたのではないだろうか。
理の母が車で送るという申し出は「高校生にもなって毎日送ってもらうのはちょっと恥ずかしいからいいよ」と断った。
別に俺の評判に関わることではないのだから楽をしてもよかったのだが、できるだけ理の親と学校は切り離しておきたかった。
何か企んでいる時は親から離れたいというのは、他人の体であっても同じ。いらぬ心配はかけたくなかった。
校門を入っても、校舎からざわざわとした声が聞こえてくるようなことはない。
高校なんてこんなものだったか。
それとも、進学校だから落ち着いた奴が多いのか。
「んで、靴箱はどこだ?」
「わからないことは全部誰かに聞いたほうがいいよ」
「そりゃそうか」
何でも答えてくれる奴が傍に浮いているからつい聞きたくなってしまうが、俺は今『白崎理』で、『記憶喪失』なのだ。
「じゃあ、職員室だな」
で、職員室はどこだ、と懲りずに聞きかけて、目線で『すまん』と謝る。
きょろきょろと人の流れをうかがえば、北の四階建ての校舎に生徒が入っていき、ジャージやスーツを着た大人は南の三階建ての校舎に入っていく。
その入り口を見れば、『聖陽高校』と木の札が掲げられており、ガラス越しにスリッパなどが用意されているのも見えるからそちらが職員玄関で、職員室もその先にあるのだろう。
あたりをつけて歩き出すと、すぐに声をかけられた。
「お、白崎! よく来たな。大変だったろう」
振り向くと、ジャージ姿の男が小走りですぐ横に並んだ。
たぶん教師なのだろうが、名札も何もつけていない。
「おはようございます」
とりあえず挨拶をしたものの、『お前は誰だ?』と顔全面で聞いていたのがわかったのだろう。
「ああ、記憶喪失なんだっけな。俺はおまえのクラス、二年四組の担任、高田だ。とりあえず一旦このまま職員室に行こう。一通り説明してやる」
「ありがとうございます」
「おう!」
気の良さそうな男ではある。
だがなんとなく、ザルな予感がした。
気遣いも見ているものも、取りこぼしがある。そんなザルさだ。
その予感は当たっていたようで、職員室で学校の説明やクラスのことなどを聞いたが、その口ぶりからは理がどういう扱いを受けていたかなど把握していないようだった。
加藤が現場にいたことで警察から事情も聞かれているのではないかと思ったが、いじめと関連付けてはいないのだろうか。
加藤と理が放課後につるむほど仲がいいとでも思っているほど何も見ておらずどんな情報も取りこぼしているのだとしたら、ザルから輪っかに格上げしてやろう。
「――ってところだが、大体わかったか? 白崎のことだから日記でもつけてそうだしな、知ってた内容もあるかもしれんが」
「いえ。日記には食べたものとか、何の教科を何ページ勉強したかとか、記録みたいなことしか書かれてませんでした」
嘘だ。いまだに一ページも見ていない。
高田は「はっはっは! 白崎らしいな!」と快活に笑うばかりで、こちらをうかがうような様子はなかった。
やはり何かあるとも思っていなさそうだ。
いじめを認識していて隠そうとしている素振りがあれば、こいつもターゲットに加えるよう理に進言するつもりだったが。
黙って傍で浮いている理も、特段高田に思うところはないのか、何の反応も示さなかった。
「じゃあ、白崎の靴箱に一緒に行ってから、そのまま教室に行こう。音楽とか移動教室は誰かに聞いてくれ」
靴箱の場所を教えてくれるのは助かるが、案内もザルだった。
理がいつも誰かに話しかけていたと思っているということか。
理は挨拶すらまともにしていないと言っていたのに。
本当にこの教師はどこまで見ていたのだろうか。
俺の中にはもはや不信感しかない。
こいつに頼るのだけはやめておこう。
説明を受けている間にホームルームが始まっていたようで、廊下に人気はなかった。
「さあ、ここがおまえの教室だ」
右上を見上げると、そこには悲壮感も覚悟も何も浮かんでいない、家を出る時と同じ理の顔があった。
こちらは何を考えているのか本当にわかりにくい。
高田がドアに手をかけても、その顔色が変わることはない。
さて。いよいよ、ターゲットとの対面だ。
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