最終話

「なんだよ、白崎」


 睨む加藤に怯むことなく、理は真っすぐに立っていた。


「僕、応援してるよ。加藤くんならきっと、優勝できると思う」

「何に、だよ」


 適当なこと言ってんじゃねえぞと加藤が理を睨む。


「今度、地区大会でしょ? 頑張ってね」

「随分調子に乗ってるな、白崎」

「そうだね。もう加藤くんのことは怖くないから」

「……あ?」

「次に僕の持ち物を壊したら、弁償してもらうね」

「おまえ……。どの口が言ってる?」

「加藤くんがしてたことは、犯罪だから。次は許さない」

「俺を幸せにするんじゃなかったのか?」


 あざ笑った加藤に、理は「うーん」と小さく首を傾げた。


「やっぱりそれ、無理だってわかったんだ。だって、加藤くんがこの先幸せを感じることは、ないと思うから」

「なんだよそりゃ。やっぱり俺のことを殺すつもりか?」

「加藤くんのために自分の人生を台無しにしたりしないよ、もったいない。そうじゃなくて、加藤くんはこの先どれだけ長生きしても、幸せだって感じられることになんて出会えないだろうなって思ったんだ」

「俺には心なんてないから、って?」


 笑った加藤に理は答えなかった。

 加藤は恵まれている。家庭にも能力にも。

 それでも幸せだと感じることができない加藤は、そもそも幸せというものを感じることができないのかもしれない。

 理もそう思ったのだろう。

 何をしても、満たされることはない。それはいっそ哀れだった。


「法律って、誰かがされたら嫌なことをされないように、抑止力とするためにできたものだと思うんだよね。だから僕も素直に法に頼ろうと思って。無理なものは無理だから、計画を変更したんだ。そうして僕が証拠を揃えて加藤くんを訴えることで、もしもその人生に何か変化を与えられるとしたら。その先に初めて幸せがあるのかもしれない」


 持って回った言い方だが、わかる気がした。

 訴えられても加藤の人生は何ら変わらないような気がする。落ち込んだり、反省したり、内面に変化が生じるとも思えない。

 だがもしその人生に落差を感じるようなことがあれば、当たり前にあったものが幸せだったのだと気づくかもしれない。

 理はそう言いたいのだろう。

 だが加藤にそんな意図が伝わるわけはない。

 理解できず、気味悪そうに理を睨むだけだ。


「まあ、そんなことはもう僕にはどうだっていいんだ。とにかくこれからは、加藤くんが僕にをしたら、きちんと司法に訴え出る。そう伝えておこうと思っただけだよ」


 加藤の心に悪を教えることはできなくとも、証拠を揃えれば司法はきちんと『加害者』を裁く。

 たとえ加藤がそれを悪だと自覚しなくとも、周囲はそうではない。

 加藤が加害行為を止められなくとも、加藤が当たり前に持っているものたちが――家族や彼女が、止めてくれるかもしれない。

 加藤が裁かれるその時も、持っているものが変わらずそこにあるかはわからないが。


 そんな日が来ないことを祈ってる。

 そう言って理は加藤に背を向けた。







「おはよう」


 理が教室に入りながら挨拶をする。

 俺がするよりもどこか柔らかく、朗らかな声で。


「おはよう」


 歩み寄ってきたのは、一番最初に挨拶を返してくれるようになった白石ゆあ。


「帰ってきたんだね。今度こそ、白崎くんだ」

「うん」


 その答えを、白石は黙って受け止めた。


「一番最初にあの人に挨拶を返してくれたのは、白石さんだよね」

「そう、かな?」

「罪悪感に耐え切れなかったんだろうって、あの人が」


 言いかけた理に、白石は「罪悪感?」と笑った。


「それは確かにあるけど、ちょっと違うよ。私もああいうふうに強くありたいって思ったの。真っすぐに生きたいって。誰かに恥ずかしく思うような自分ではいたくない、って」

「そっか。わかるよ。僕もそうだった」

「すごい人だったね。誰も挨拶なんて返さないのに、毎日同じ顔で堂々と『おはよう』ってさ。あんなの、いつまでも返さずにいられるわけないじゃない」


 理は笑って、目の端を拭った。


「本当にね。最初僕は、しても返ってこないものは無駄だって思った。だけどあの人は、『相手とどんな状態にあろうと、しれっと毎日挨拶を続けてりゃあ勝ちなんだよ』って。わけがわからない僕に、『見てればそのうちわかる』って言ったんだ」

「見事、その言葉の通りになったわけね。今頃さぞほくそ笑んでることでしょうね」

「さあ、どうかな」


 静かに笑った理に、白石は小さく首を傾げた。


「もうそこにはいないの?」

「うん」

「ふうん。そう」


 白石は理をじっと見つめると、再び口を開いた。


「記憶喪失だったから別人格のようなものが出来上がったのか。それとも別の人がいたのか。わからないけど、でも結局、そこにいるのね」


 そう言って白石は、理の顔を指さした。


「白崎くんの顔が、前とは違うわ。別人のよう、とは言わないけれど、生まれ変わったみたいではある。それはあの人が白崎くんの中で生きているからなんでしょうね」


 その言葉に理は、見たこともないくらいに大きく笑みを広げた。


     ◇


 理のクラスメイトたちは、縮こまるような毎日から解放され、教室には和やかな笑いがあちこちで聞かれるようになった。

 理も以前のようにクラスメイトたちと話すようになったし、授業はちゃんと聞いていたから勉強も問題ないどころか成績も変わらず上位をキープしているようだ。

 将来の夢は政治家らしい。

 いじめ、居眠り運転、世の中に溢れる様々な問題を変えるにはテッペンに行くしかないと淡々と父親に話していた。

 さすがの肝っ玉に俺は笑った。

 こんな若者がいるなら、日本の将来は明るい。


 静稀はというと、とにかく泣いて泣いて泣きまくっていたが、そのうちに涙も涸れた。

 それだけ泣くと、何してんだか、と我に返るのかもしれない。

 真っ暗な中で布団をひっかぶり、がびがびになった顔もそのままに一晩眠ると、翌朝にはパンパンに腫れた顔で看護師を驚かせていた。

 重湯から五分がゆまで食べられるようになり、その後の回復は早かった。

 人は食べれば自然と生きるエネルギーも湧いてくるものだ。


 理とは時々連絡を取り合い、お互いに俺の話をしているらしい。

 俺のいないところで俺の話をされるのはこっぱずかしいものだが、そうして話すうちに俺という存在は記憶が整理されて薄れていき、話の中の『一ノ瀬亮』という存在に変わっていくのだろう。

 そこには細かな俺の言動なんて残っていなくて、『あの時、こう言ってたよね』といういくつかのエピソードにコンパクトにまとめられていくのだ。

 そうして静稀は俺を思い出の中の俺として胸に収めて、ちゃんと新しい日々を送っていくだろう。

 俺は静稀を信じている。

 俺が心から愛した、ただ一人の人だから。

 俺に心からの愛をくれた、たった一人の人だから。


 俺だけは、静稀や理と話した細かなことも俺という中に閉じ込めたまま、消えていける。

 今日もこの空の下では、俺の大切な人たちが必死に生き続けている。

 そう信じて消えて行けることを心から幸せだと思う。

 理不尽に対するささやかなオマケだったのかもしれないが、エンドロールを見られたことを感謝した。


 静稀も、いつかそこそこいい男を捕まえて、今度こそちゃんとした結婚だってするだろう。

 そんなところを目の当たりにする前に、さっさと俺は消えるとしよう。


 俺は思い切り伸びをした時のような、心地よい何かに引っ張られ、何もかもが溶けていくのを感じていた。

 目を閉じると、そこに広がるのはひたすらの青だった。

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目には目を。悪には幸福を 笹木 @sasa_no_sasa

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