第8話 それぞれの一番
原田はなんだかんだと文句を言いながらもしっかり働いているらしい。
日払いというわかりやすい報酬がよかったのかもしれない。
ずっと運動をやってきた奴だから、体を動かすのが性に合っていたというのもあるだろう。
明日も来いよと言われて素直に来るあたりも体育会系だからなのか、原田が単純なのか。
森脇さんや他の作業員たちとご飯に行くのも断らないようで、わりと楽しそうに笑っているとのことだ。
ここの人たちはみんな人がよく、上から目線で押し付けるようなことは言わないし、変な詮索もしない。さっぱりとしているけれど、ちゃんと見てくれているから居心地もいい。原田もそれがわかったのかもしれない。
指示を受けてその通りに動くというのは慣れているだろうし、体を動かせばスッキリする。
おじさんたちはみんな気が良く、作業も原田にとっては辛くない。
それでいて給料はもらえるし、ご飯はお腹いっぱい食べさせてもらえるのだから、そりゃあ毎日通いもするだろう。
推薦で入ったものの部活は辞めた今の状況では、成績が悪ければ進級に関わる。だからか授業中に居眠りをしてしまうことはないが、昼休みもかき込むようにご飯を食べた後はばったりと机に倒れ込む。
やはり生活上のウェイトはバイトにかなり傾いているようで、放課後もホームルームが終わるとすぐに帰るそうだ。
一人目でこれほどうまくいくとは怖いくらいだが、原田に欠けていたものがちょうどよく埋まったのだろう。
もしかしたら、周りのみんなと違って大人との付き合いがある、別の世界があるということも、原田の自尊心を満たしたのかもしれない。
そしてそれは自分がいた世界を幼く見せたかもしれない。
加藤一派から物理的に遠ざけるのが目的ではあるが、人から巻き上げた金よりも、自ら汗水流して得た金のほうが尊いという気持ちも芽生えてくれたらいうことはない。
これに加藤がどう反応するかが気になっていたが、金がないのを知っているからか、バイトに明け暮れていると知っても特段かまうことはなく好きにさせているという。
スポーツができるカースト上位が自分のグループに属していれば箔がつくわけで、加藤としてはそれだけでいいのかもしれない。
だから原田はまだ加藤一派から抜けたわけではないし、わざわざ揉めるような離脱宣言をすることはないだろうが、他のメンバーが離れていけば便乗するだろう。
二人目も既に種は蒔いてあるが、こちらも芽吹くまでには少々時間がかかる。
その間に医者から『理』の登校許可が下りた。
通い始める前にできるだけ戦力は削いでおきたかったと理は申し訳ながったが、心配は無用だ。
こちとらそれなりに揉めて生きてきたアラサーのおっさんなのだから。
さて、初めて一派に会うことになるわけだが、実物はどんなものやら。
原田も加藤も、これまで理の話でしか知らない。
つまり理の一方的な話だけで計画を進めているわけだが、いくら己の目を信じるとはいっても、それでいいのかと思わないでもないから、森田さんに頼んだのだ。
まあ、今回はきっかけを作っただけにすぎず、家にも電話してもらっているし、親の了解のもと原田もしっかり働いているなら悪いことでもない。
「今後は実物に相対するわけだから、場合によっては理の意見と対立することもあるかもしれんぞ。理の中にいるとはいえ、あくまで俺は俺。納得できないことはしないし、自分の目で見たものを信じるからな」
「うん。むしろ、そうしてくれたほうがありがたい。僕が間違っている時は一ノ瀬さんが止めてくれるもんね」
こういうことを言うやつだから、信じたくなるんだよなあ。
「俺の倫理観に頼るなよ。大事な一線は自分で守れ」
「うん。ありがとう」
白く透けて、物も人も素通りしてしまう奴に言うには酷だが。
今の理は体を張って止めることもできず、言葉だけで戦うしかないのだから。
「通うとなると、みんなの顔、覚えないといけないよね。アルバムとかがあればよかったんだけど、まだ二年生だしそういうのはなくて。学年始めの集合写真も希望購入だったから僕は買ってなかったし」
考えるようにしながら自分の部屋をふわふわ漂っていた理が、困ったように言った。
「別に、『記憶喪失』なんだから知らなくてもいいだろ」
「そうかもしれないけど、加藤くんとか原田くんとか、知っておかないと警戒できないかと思って」
「それこそ何も覚えてない、知らない、まっさらな状態だって思わせたほうが動きやすいんじゃないか? ビルでのことを知ってると勘づかれたら、口止めしようと強引な手に出るかもしれない」
「加藤君ならそうするだろうね。でも向こうが接近してくるならいい機会かも」
「いや、リスクが高すぎる。理は記憶喪失ってことになってるんだから、どこから知ったのか気にするだろう。以前から誰かに相談してたか、日記に日々されたことを書いてたのか――それでビルでのことも加藤の加害だと警察に通報されるのを恐れて、情報源として疑わしい理の家族や親しい人まで巻き込もうとするかもしれない」
「確かに……」
「だから俺はフラットに、誰とも『おはよう!』と快活に挨拶して回ってやるさ」
「それはみんな驚くね」
「なんだよ、お前は挨拶もしなかったのか」
「しても返ってこないものは無駄だから」
「それは違うな」
俺がきっぱりと言うと、理は不思議そうに首を傾げた。
「なんで?」
「相手とどんな状態にあろうと、しれっと毎日挨拶を続けてりゃあ勝ちなんだよ」
「どういうこと? 全然意味がわからない……」
「まあ、見てればそのうちわかる」
にやっと笑うと理は心底不気味そうに俺を見た。
これは早く「なるほど」と言わせてやりたい。
そこで階下から理の母親の声がかかった。
「おさむー! ご飯だから下りてらっしゃーい」
「わかったー!」
俺は一人暮らしが長く、こういう親とのやり取りも久方ぶりだったが、もう慣れた。
ダイニングには理の母親がせっせと動き回っているだけで、父親の姿はない。
理が退院してすぐの頃、父親が毎日早く帰ってきていたのは職場に配慮してもらっていたのかもしれない。
今はこうして時折遅くなる日もあるが、それでも週に何度かは夕食を共にする。
「今日はシチューにしたの。お父さんは好きじゃないんだけど、今日は夕飯いらないって言うから。理は好きだったのよ」
「ふうん」
としか答えようがない。
俺は好きでも嫌いでもないのだが、理の母親は別人がそこにいるとは思っていないのだから。
「はい、どうぞ、召し上がれ」
卓に置かれた皿には、カレーライスのように盛り付けたご飯にシチューがかけられていた。
どうやら理はご飯にシチューをかける派だったようだ。
俺は別々に食べたかったのだが、仕方がない。
だが、こうだったわよね? と勝手にあれこれ先回りされるとなんだかモヤモヤする。
理の母親が知る理像を押し付けられているようで、窮屈だ。
それは俺が赤の他人なのだから仕方がない。
だが子どもの頃に好きだったものを今も好きだろうと勝手に決めつけて与えられた時のようなもどかしさがあった。
理はどうだったのだろう。
ちらりと右上を見上げると、苦笑したような顔でシチューがけご飯を見ていた。
どうやらまさに子どもあるあるの通りだったようだ。
「来週はついに学校に行くのね。まだギプスもとれていないから不便は多いでしょうけど、先生も配慮してくれるって話だから、きっと大丈夫だと思うわ」
まるでそう自分に言い聞かせているようだった。
「うん。まあなんとかなるよ」
こんな受け答えはきっと、母親の思う理らしくなかったのだろう。
じっと顔を見られていることに気づき、どう反応すればいいものか悩む。
記憶がない理のことが、母親も不安なのかもしれない。
だから自分の知っている理の姿がそこにあると信じることで、安心したいのかもしれない。
しかし理の母が口にしたのは、思ってもいない言葉だった。
「理。生きていてくれてありがとう」
「……何、急に。前にも聞いたよ」
「下敷きになってしまった人には本当に心から申し訳ないと思うわ。だけど、それでも、あなたが助かってくれて嬉しい。ごめんなさい。だけど私はあなたの母親だから。あなたが一番なの」
言葉が出なかった。
理を見上げることもできない。
俺は固まったように理の母親を見ていた。
「まずは、あれだけの怪我をさせてしまったことは一緒に償っていきましょう」
「――償えるものと、償えないものがあると思うけどね」
「そうね、その通りだと思う。そもそも理がどうしてあんなことになったのか、わかっていないしね……。だけどこれからは知りたいと思うし、助けになりたいと思う。だから、もし何か困ったことがあったら、いつでも言って。私はあなたの話を聞きたいの」
「おさ……僕にとっては、きっとこれまでも家族が支えになってたと思うよ。たぶんだけど」
理が何を考えているのかはわからない。
だが理の母親が考えているのは、俺と同じかもしれない。
「そうだと嬉しいけど……、いざというときに何もできなかった親なんて、無力だと思ったわ。だからもう、同じことは繰り返さない。理はせっかく生きてくれたんだから」
決意を込めたようにそう言って、理の母は静かな笑みを浮かべた。
親の愛を目の前に、俺は一言も発することなく食事を終えた。
今ばかりは、理の代わりに受けることはできない。
これは、理自身がこの体を取り戻し、答えるべきことだから。
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