第10話 一つのおわり

「静稀にはこの辺りに何かいるの、見えるか?」

「ううん、全然。っていうか、なんか、高校生の姿にだぶって亮が見える」

「だからすぐに俺だってわかったのか……」

「いや、なんか、亮だってわかったら、ふわっと二重に浮いて見えるようになったっていうか」


 理の中にいる俺が見えて、傍に浮いている理は見えないとは、一体どういう原理なのか、さっぱりわからない。

 いや。もしかして、俺だとわかってから見えるようになったということは、そこにいると認識することで見えるようになるということだろうか。


 思えば、俺も理の体に入ったとわかった時、どこかに理自身がいるだろうと思った。

 自分が魂だけの姿になって浮遊していた身だからだ。

 だから俺だけに理が見えたのだとすれば、理屈はあう。

 てっきり、理の体にいるからその繋がりで見えているのだろうと思っていた。

 俺が死んだときは、どんなにここにいると手を振って声をかけても、誰にも気づかれることはなかったから。

 それは静稀も同じで、この体に入る前の俺のことはまったく見えていないようだった。

 まさか俺が魂だけの姿になってそこらに浮いているなんて、考えもしなかったんだろう。

 静稀は事故でぼろぼろに傷ついた俺の体を目の前にしていて、それが現実だったから。


 あれは一瞬の間に起きた事故だった。

 信号待ちでぼんやりと歩道に立っていた俺の元に、トラックが突っ込んできたのだ。

 それが何故なのかは知らない。

 あ、と思った時には、俺の体は宙に舞い上がっていた。

 俺の『一ノ瀬亮』としての記憶はそこでおしまい。

 痛みを感じるよりも、事態を把握するよりも先に視界が真っ暗になって、俺は死ぬのだと自覚するよりも先に死んでいた。

 自分が死ぬ瞬間を覚えていないことは幸せなのか、不幸なのか。

 ただ痛みを感じなかったことは不幸中の幸いではあっただろう。

 俺はこの世への未練を口にする暇もなく、我が人生に悔いなしと嘘をつくこともできず、婚姻届を破って捨てることもできず、強制的にこの世から切り離された。


「なんでずっと傍にいたなら教えてくれなかったの?」

「『おーい。おいおい静稀』って何度も呼んだぞ。答えなかったのはおまえだろ」

「わかるわけないじゃない! 亮はすっかりこの世から消え去ったと思ったんだもの」


 あっさりとなんてあの世に逝けるわけがない。

 もっと静稀と一緒にいたかった。

 ちゃんとプロポーズして、結婚して、子どもを産んで、子どもが大きくなって、巣立って、そうしたらまた二人の生活に戻って、ケンカしながら笑って――

 どこまで生きていたって未練なんて残るのかもしれないが、それにしたってこれはあんまりだろう。

 俺も静稀も一人同士で、これからやっと家族を作って生きていこうって時に。

 俺が静稀を一人にするなんて、受け入れられるわけがなかった。


「おまえ、思い切りがいいよな」

「そうよ。だから絶望したのよ」


 静稀はどこまでも真っ直ぐで。ゆえに危うい。

 だから俺がずっと傍にいてやりたかった。守ってやりたかった。

 違うな。

 ただ俺が、傍にいたかったんだ。

 笑って、泣いて、まっすぐに感情を伝えてくれる静稀を、ずっと見ていたかった。一緒に笑って泣きたかった。

 一緒に生きていきたかった。


「そんな簡単に絶望すんなよ。生きてる人間はこの世界に約八十億人もいるんだぞ」

「亮は一人でしょ」

「人間はいつか死ぬもんだ。毎日日本だけでも何千人って数が死んでるんだし」

「なんで亮が死ななきゃいけなかったのよ。なんで居眠り運転のトラックなんかに突っ込まれてんのよ。トラックと生身の人間がぶつかって、無事で済むわけないじゃない……。勝てない戦いなんかしないでよ」

「おいおい、避ける暇もなかったっつうのに。理不尽すぎるだろ」


 しかも居眠り運転だったのか。

 そりゃあ恨みは晴れねえな。

 家族を養うための激務だったのかなんなのか知らねえが、俺の未来にいたはずの家族はどうしてくれる。


「そうよ。人生なんて理不尽よ。やってられるかってのよ」

「だから、そう自暴自棄になるなって……」


 理は面倒くさいとでも思ってるんだろうな。

 そう思い右上を見上げたが、そこに姿はなかった。

 ちらりと目だけで探すと、部屋の隅のほうに『僕はここにいません』とでもいうように身を潜めている。

 悪いなと思ったが、理は目が合うと、構わなくていいというように頷いた。

 俺は目で感謝を伝え、ありがたく静稀に向き直った。

 たぶん、こうして向き合えるのは今しかないから。


「自棄にもなるわよ」

「だから籍を入れたのか?」


 もう死ぬとわかっている人間と。

 プロポーズできるほどの貯蓄もない、資産もない、自慢できるような身内もいない俺なんかと戸籍上の結婚をしたって、何の意味もないのに。


「違う。亮の奥さんになりたかったから。それが、私の夢だったから」


 そう言われて、俺は何も言えなくなった。


「バカだな」


 やっと出てきたのはそんな言葉で。

 二度と話せない。二度と名を呼んでもらえない。二度と笑い合えない。

 そう思った静稀とこうして面と向かい合っているのに、ロクな言葉なんて出てきやしない。

 かっこいいエピローグなんて、泥臭く生きてきた俺には紡げやしない。


「バカじゃない。ちゃんと考えて、ちゃんと調べた。亮とは一緒に住んでたし、財布も一緒にしていたし、ほとんど事実婚みたいなものだったし、婚姻届けも亮の分は自分で書いてくれてたから、意識不明でも認められるだろうって勝算はあったもん。勝手に消えていなくなるなんて、無理。耐えられない。一生私を縛っててよ」


 私を一人にしないで。

 そう囁くように吐き出して、顔を覆った。


「ごめんな」


 ただ素直なままにこぼれた言葉に、静稀は肩を震わせて泣いた。


 謝らないで。

 小さな声が、そう縋った。


「最後にちゃんと話せてよかった」


 ぴたりと静稀の動きが止まり、顔を上げると目からは雫が絶え間なく流れていく。


「やだよ。最後じゃない。最後にしないで」

「俺はもう死んだ。運よくこの体に入り込んでおまえともう一度会えただけで、俺は幸せだよ」


 理の体に入ってしまったとわかってから、ずっとずっとこの時を待っていた。

 ちゃんと静稀が生きていけると見届けたかった。

 そしてもう一度だけ、静稀と話したかった。

 俺のエゴだ。

 俺が旅立つための。

 ちゃんと別れを言って踏ん切りをつければ、あとは旅立つしかなくなるから。

 でなければ、静稀がいるこの世にいつまでも留まってしまいそうだったから。

 それではいけないことはうすうすわかっていたから。


 一人透けた体で漂ううちに、意識がぼんやりすることが増え、そのうち、何故死んでしまったのかと加害者を呪う気持ちが強くなっていき、このままでは自分が悪いものになっていくのだろうとわかった。

 だから静稀がきちんと前を向いて歩いていけるとわかるまで。そう決めて、傍にいたのだ。


 この体に入りどれくらい経った時だったか。

 理から最近意識がぼんやりすることがあると聞き、そろそろ潮時だと悟った。早く理に体を返さなければならなかった。

 静稀の目覚めが間に合ったのは、本当に運が良かったとしか言えない。


「やだってば! ずっとそのままでいればいいじゃん」

「無理だ。これは俺の体じゃない」

「でもその子、死のうとしたんじゃないの? 落ちる間際、下を確認してた。だったら亮がその体をもらったっていいじゃない!」

「静稀。おまえ、理が落ちるとわかって、助けに走っただろ。だからぶつかったんだろ。咄嗟に他人を助けようと動くような奴が、そんなことを心から許せるわけないだろ」


 もし強引に二人でこの体を奪ったところで、俺たちは幸せにはなれない。

 ずっと罪の意識に囚われ続けるのだから。

 静稀だって、それくらいわかっているはずだ。

 それでもそう叫びたくなる気持ちは俺にだってわかる。

 俺だって何度も考えたのだから。

 理が自ら死を選ぼうとしたのかもしれない。そう思った時、だったらこのままこの体はもらってやると思った。

 静稀が巻き添えをくらって死ぬかもしれないなら、理が一人のうのうと生きるなんて許せないとも思った。

 もし静稀の体が死ぬようなことがあれば、理の体を静稀に渡そうとも思った。


 だが俺は理を知り過ぎた。

 理が消えてもいいとは思えない。そこにある理の魂を見ないふりなんてできない。

 理にも、理の人生を生きて欲しい。今は心からそう思うようになったから。


「もう理は、自分の命を自分の足でしっかり生きようと思ってる。死にふらつくことはない。だから俺はこの体を返さなきゃならない」


 部屋の隅にいた理がふわりと浮いて俺の隣に立つ。

 俺は向き直り、理とまっすぐに向かい合った。


「一ノ瀬さん。消えちゃうの?」

「元々消えるはずだったんだよ。理が気に病む必要はない」

「だけど……」

「じゃあおまえはこの体を俺に譲れるのか?」


 唇を噛みしめ、理はふるふると首を横に振る。

 俺は心から笑って、透ける理の頭を撫でる真似をした。


 理は変わった。

 自分の体も命もないがしろにしていたような、存在感も希薄だったあの時とは違って、今は明確に生きる意志を持ってそこにいる。

 だからこそ、消えゆく俺を惜しんでくれるのだろう。

 命の尊さを知っているから。

 生きたいという心からの望みを、知っているから。


「そんな顔すんな」

「ごめんなさい……。僕のわがままに付き合わせて。振り回して。本当はせっかく動ける体があったならやりたいこと、たくさんあったんじゃない? なのに」

「確かに喉から手が出るほど生きられる体が欲しかった。だけどこれは俺のじゃない。俺の未練は俺の人生の続きを歩むこと。それは絶対にかなわないし、この体じゃ意味がないんだよ。俺は俺として静稀の側にいたかったんだから」


 生死の境を彷徨う静稀を見守り、その上こうして話すこともできた。

 これ以上ない幸運だ。

 ちゃんと別れられる別離など多くはないのだから。


 職場の人たちにも会えた。本当なら二度と話せなかった人たちともう一度話せた。

 それだけで俺は恵まれている。

 だからそれ以上俺は一ノ瀬亮として何かしようとは思わなかった。

 この体で何をしたって、それは白崎理なのだから。


 俺はへの字眉毛で涙を流し続ける静稀に向き直る。


「静希。生きろよ」

「やだ」

「幸せになれ」

「亮が幸せにしてよ」

「そのはずだったんだけどな。俺にはもうできない」

「一人残されて、どうしろっていうのよ。何を支えにして生きたらいいのかも、どこ向いてけばいいのかさえもわかんないじゃない。ずるいよ。最後まで何にもしてくれないの? そんなんじゃ生きていけないよ!」


 体中が震えるほど、静希を抱きしめたくて仕方がなかった。

 生きたい。

 静希と一緒に生きたい。

 こんなにも生を渇望したことはない。

 自ら死を選ぶ人間が得られなかった感情。

 だがそれが死を与えられた人間にはこんなにも苦しい。苦しくて苦しくて仕方がない。


「生きてくれ。幸せになってくれ」


 包帯だらけの顔から覗いた瞳から涙が盛り上がって流れ落ちた。

 涙を拭おうと腕がわずかに動くが、持ち上がらず涙はこぼれるままになった。


「亮のバカ。そればっかり……」

「俺にはもう、それしかないから」


 俺の人生はもう、終わっているから。

 ただただ、今生きている静稀に幸せであってほしい。

 俺が願えるのはそれだけだ。


「静稀。俺と一緒にいてくれてありがとう。生きてる意味をくれてありがとう」


 この心残りこそ、俺の人生で得た一番のものだから。

 静稀は俺に、生きたいと思える人生をくれたのだ。

 静稀と一緒に思い描く未来は幸せでしかなかった。

 それはかなうことはなくても、もう、俺の胸から消えることはない。

 それを抱えて死ねることは、幸せだと思う。


 だから。誰がどうなろうと、静希にだけは幸せになってほしい。

 だけどそれはどこかの誰かによってじゃなく、俺の手で成し遂げたかったことだ。俺が静希を幸せにしたかった。俺が静希と幸せになりたかった。俺が静希の隣で笑っていたくて、静希に俺の隣で笑っていてほしかった。

 死を自覚した瞬間に思ったのは、ただ静希と一緒に人生を歩みたかったということ。


 だけど。

 静希の幸せだけあればいい。

 そう思った時。それが、俺が俺の生を諦めた瞬間だった。

 そうして俺は俺とも別れることになるのだと、どこかが知っていた。

 心の底から湧いたその思いはもう変えようもなく、その瞬間から俺の意識はうっすらとぼやけていくのがわかった。


 静希が幸せなら俺はそれでいいと思えたことが、消えゆく俺の一番の幸せだ。


「理の人生はここからで、先は長いんだ。しっかり生きろよ」


 ぐっと唇を噛みしめた理にそう言葉を向けると、しっかりとした頷きが返った。

 理の透けた体が、だんだんと薄れていく。


「静稀も見守ってやってくれ」

「私にそんなこと頼まないでよ……」


 再びしゃくり上げる静稀の背に手を伸ばしかけ、やめた。


「なんで手をひっこめんのよ」

「俺以外の男がおまえに触れるのは許さない」

「でも今は亮でしょ」

「違う。これは俺の体じゃない。俺は俺だけだ」


 静稀は俺をじっと見て、それから歪むみたいに笑った。


「そういう独占欲、嫌いじゃなかった」

「静稀のことが好きすぎたんだよ」

「なんでこんな時にそういうこと言うかな……。諦められなくなるじゃん」

「俺はな、漫画みたいにわざと嫌われてすっぱり未練なくさせて自己満足に浸りながら一人でニヒルに笑って消えてくなんてことはしないんだよ。だって、悪い記憶ほど残っちまうだろう? だから、『いい男だった!』ってさっぱり笑って次に行けよ」


 その方が幸せに決まっている。

 俺は静稀に少しの陰も残したくはない。

 そんなのは無理だということも、贅沢だということもわかっていても。


「じゃあな」

「うそ、待って、唐突すぎるよ! もっと何か――」


 伝えたいことはすべて伝えた。

 あとはどんなに言葉を重ねても、一緒の時間を過ごしても、足りることなどない。

 俺は最後に少しだけ迷って、右手で静稀の頬に触れた。

 温かい、けれどかさついて、涙の跡だけ湿った静稀の肌。

 これだけでも持っていければいいのに。


 俺は目を閉じ、すべてを閉じ込めるように掌を握った。

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