第3章 魂の行く先
第1話 間違った泣き方
翌日、竹中は学校に来なかった。
その次の日も、また次の日も。
制服を着て学校へ向かうフリをし、市役所に行っていたのだ。
昨日は母親を連れて、市役所と、そこから別の場所へ移動していったという。
母親とも向き合い、父親から逃げることにしたのだろう。
理と俺にとっては、これで竹中のことは片が付いた。
だが竹中と母親にとっては、これからが大変なのだろう。
いつ見つかるかと怯えることもあるだろうし、避難先も二人にとって居心地がいいかはわからない。転々としなければならないこともあるかもしれない。
環境が変わる度に労力もかかる。
どこまで頑張れるか。どこまで支え合えるか。
それは俺にはわからないことだが、どこか遠くで平和に暮らせるようになればいいと思う。
登校するはずだった竹中が来ないとわかっても、桜井は気に留めていないようだった。
自分が女子生徒をまとめているという自負があるのか、余裕に見える。
杉本と原田はそんな状況にほっとしたようだ。
苛立つ加藤を「まあま、仕方ないよ」「何か理由があるんだろう。あの家も複雑らしいからな」とやんわりと宥めるものの、あとは寄らず触らずで、これ幸いと徐々に距離を広げているように見える。
加藤はその苛立ちを俺にぶつけた。
だが加藤のいじめは最近単調で、目新しいものがなく、どう来るかわかっていればこちらも対処のしようがある。
たぶん、これまであれこれ考えていたのは杉本だったのだろう。
加えて、俺の毎日朗らか挨拶作戦は功を奏し、最近小さいながらも「おはよう」と返してくれる声がちらほらと現れ始めたのだ。
人は毎日朗らかに挨拶をされて無視をし続けることに罪悪感を覚え、だんだん耐え難くなってくるものだ。
「一ノ瀬さんってすごいね」
北風と太陽と同じで無理矢理そうさせているようなものではあるが、突破口にはなりうる。
これまで徹底的に無視されていたという理は、そんな一つ二つの挨拶でもそう驚いていたが、俺は過去の経験上から返した。
「喧嘩をして怒っていた相手も、あいつは何にも気にせずただ当たり前に『おはよう』と言っているだけなのに、何をしゃかりきに無視しようとしているのかと馬鹿らしくなってくるんだよ」
ただの挨拶。ただの「おはよう」。それだけのことに拘り続けているほうが恥ずかしい。
そんな気になって、挨拶を返してくれたらそこからもう一度会話して、仲直りする。
それが俺が人付き合いの中で見つけた仲直りの方法だった。
そうして怒りに怒りを返すのではなく、無視に無視を返すのではなく、ただ当たり前の毎日を過ごす。
そんな俺に、クラスの何人かが戸惑いを覚えていることには気づいていた。
俺へのいじめを疑問に思えばいい。
加担していることに罪悪感を抱けばいい。
それらがこの現状に一石投じる何かになればいいと、期待していた。
加藤はまだそんな小さなさざ波に気づいてはいないだろうが、最近じっと黙っていることが多く、なんとなく周囲を観察しているようだ。
もしかしたら、俺がつまらないからと他のターゲットを見繕っているのかもしれない。
そうなったら最悪だ。被害者が増えてしまう。
俺が平気なのは中身がおっさんだからであって、普通の高校生に加藤の攻撃は効きすぎるほど効く。
加藤が被害を広げてしまう前に、なんとかしなければ。
そう考えていた時のことだった。
放課後、担任の高田に呼ばれ、職員室で「最近どうだ?」と聞かれ「変わりありませんよ」と答えるだけの、意味があるんだかないんだかわからない会話をした後、教室に戻ると桜井の甲高い声が聞こえた。
「ねえ、ナノカのピアス。それさぁ、なんでそんなの付けてんの? 全然似合ってないんだけど」
心底から馬鹿にするような、嘲笑う声だった。
「あっ、これ? これはこの前誕生日に――」
「マジそれ外したほうがいいよ。ダサい子とは一緒にいたくないし。ね、ミワ」
「え――? あ、あの、うん」
同意を求められて動揺しているのは、確か平井美和だったか。いつも手間がかかりそうなお団子頭をしている。
勝手ながらお団子頭というと明るい性格のイメージがあるが、平井はあまりはしゃぐタイプではない。
しかし、教室の中にはまた面倒なメンバーが揃っているようだ。
バッグを取りに行かないと帰れないのだが、こんなところに突入したくはない。
足を止めると、教室の様子をうかがっていた理が戻ってきた。
「これまで平井さんがいじめられていたのに、今度は沢田さんにターゲットを変えたみたいだよ」
なるほど。だから急に話しかけられて平井は驚いていたわけか。
「毎回、何が気に入らないのかわからないけど。ああやって女子グループの中で桜井さん以外の誰かをターゲットにしてぐるぐる回してる」
「ああ……、なんか女子ってそういうのあるよな。だけど自然に加害者と被害者が入れ替わるんじゃなくて、桜井の指名制ってことだろ? エグいな」
「うん。次は誰かわからないし、ターゲットにされるのを避けるために裏で誰がどんな行動をしてるかわからないから、お互いに疑心暗鬼だし、相当なストレスだと思う。平井さんは円形脱毛症を髪で隠してるみたいだし」
なるほど。それでお団子なのか。
年頃でそれは辛いだろう。
桜井は、他のクラスメイトがいるところでは表立って女子いじめをしない。
桜井の女子グループがクラスの上位として君臨するため、一枚岩に見せたいのだろう。
加藤一派としては、桜井以外の女子グループメンバーはただの付随物という扱いで、上位ではないらしいが、女子には女子の派閥と上下がある。
だから桜井も女子グループを作って女子の中でも上位として君臨しているのだろうが、彼女たちは何故物のように扱われながらもついていくのか。
桜井を見限ってしまえばいいのにと思うが、そんな単純な話ではないらしい。
特定の誰かが仲の良いそぶりを見せると片方に指示して攻撃させる。そうかと思えば脈絡なくターゲットを変える。これが巧妙なところで、理由が目に見えないと、裏で誰かが何か密告したのかもしれない、何か企んだのかもしれないと不安になる。
そうして互いに疑心暗鬼の状態にさせ、徒党を組めないようにしているのだ。
つくづくエグい構造を作ったものだ。
理とこそこそ話している間に教室の中の会話は進んでいた。
「ねー、みんな今日カラオケ行くでしょ? あ、ナノカは今日用事あるんだったよね。じゃあ今日は四人だね」
「え……、あ……」
「そうだね……! いつものとこでしょ? それともたまには店変える?」
戸惑う声は新たなターゲットとなった沢田のものだろう。
無理矢理合わせるような張り上げた声は誰のものかわからないが、聞いているのも痛々しい。
「今日は駅の北口の店にする? ――あ、ごめん、彼氏から電話だわ」
唐突に会話を打ち切り、桜井が「はいはい、なにー?」と一段高い声に変える。
猫なで声ではないのだが、聞いていて不快になる絶妙な変わり具合だ。
「え? バイトなくなったの? じゃあ行けんじゃん。前から約束してた新しいカフェ! そうそ、水曜の日替わりケーキがモンブランだから、今日行きたいって話したでしょ。ね、だから行こ! ――うん、おっけ、じゃあ駅で待ち合わせね」
桜井の電話が終わったのか、一瞬辺りがしんとなる。
続けて聞こえたのも桜井の声だ。
「ってわけで、今日は元々彼氏とデートの予定だったんだよね。キャンセルがキャンセルになったから、いってくるねー」
強引なマイルールで先約だと言い切る声がだんだん大きくなってきたかと思うと、奥の扉がガラリと開き、桜井がぱたぱたと出て行った。
振り返ることもなく、こちらに気づいた様子はない。
教室の中からは、何の声も聞こえなくなった。
ターゲットが変わったばかりで、互いに互いの出方を伺っており、誰も何も言えないのだろう。
そう思ったが、間もなくしてぽつりと声が聞こえた。
「ごめん。そのピアス、私たちが選んだのに」
今まで聞こえなかった声だ。
続く声も、平井と沢田ではなかった。
「ナノカの誕生日だから、菜の花っぽい黄色と緑のピアス、いいね、って……。私たちがそんなの選ばなければよかったね。言われてみれば確かにダサかったかも、本当ごめん」
「ううん! 私、これ、気に入ってたんだ。だって、友達にプレゼントもらうの、久しぶりだったから――」
普段は互いに警戒しあっていて、踏み込めない関係だったのだろう。
それが瓦解したきっかけはわからないが、ずっと変わらないままの関係はないということだ。
ちょうど時期に来ていたのかもしれない。
このまま少しずつ反桜井の空気になっていけばいいのだが。
しかし、そう簡単にいくものではないらしい。
「勝手に、喋っちゃったね。ナノカと……」
「バレたらどうなるかな。ナノカのピアスのことも……。偶然会ったからって、勝手に三人だけで買い物してたことがわかったら――」
急に現実に返ったような声が聞こえ、場がしんと静まる。
「あ、ご、ごめん。今までこういう時、絶対みんな触れないようにしてたのに、今日は声かけてくれたから、嬉しくなっちゃって、つい……。ごめんね、もういいよ、先帰って。いつまでも一緒にいるのがバレたらヤバイし。忘れものとかあって戻ってくるかもだし」
何を言っているのだろうかと思った。
それだけ気遣いあう関係ができているのに。
気付けばずかずかと最後の距離を詰め、ガラリと教室の扉を開けていた。
「――は? 白崎、あんた盗み聞きしてたの?」
「サイテー」
さっきまでのしょんぼりムードはどこへ行った。
一気にかわいくないクソ生意気な顔を作り、こちらを見下げるように睨んでくる。
「ここ、俺のクラス。そこ、俺の席。学校が公共の場だって知ってたか?」
自分たちだけの世界だとでも思っていたのだろう。
学生が陥りやすい錯覚だ。
電車の中でさえ、友人同士で喋っていると自分たちしか見えなくなるのだから、閉じられた教室の中ならなおさらだろう。
俺は気にせず割って入り、机の横にかけたバッグを取った。
そのまま帰ろうかと思ったが、気が変わった。
「おい。一人泣いてんじゃねえかよ。泣き方が間違ってんだろ」
俺の言葉に、一人だけ「はあ?」と苛立った声を上げた。
だが顔は揃って怪訝だった。泣いている本人さえ。
随分と仲良しなグループである。
「おまえら、ズレてるぞ」
スッパリ言ったつもりだったが、誰もピンときていない。
狭い狭い井戸の底から引っ張り上げて外の光を見せるのは、とんでもない労力がいりそうだ。
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