目には目を。悪には幸福を

笹木柑那

第1章 高校生とアラサー

第1話 何だこの体は

 人生二十九年。人が上から落ちてくるのを見るのは初めてだった。

 三階建ての、あまり高くもないビルだ。

 太陽を腹に抱えるようにした人影が頭上に迫るのはあっという間のことで。

 俺はただの一音すら発することはできなかった。


   ◇


 白い天井。

 白い布団。

 窓から差す眩しい光。


「よかった! よかった……!!」

「もう目を覚まさないかと……。丸二日も意識を失ってたんだぞ」


 ひたすら「よかった」を繰り返し、くずおれて泣く中年女性と、その隣で男泣きする中年男性。

 そして重い体。

 そこまではわかった。


「戻って来てくれてありがとう、おさむ……!」

おさむ、聞こえてるか? 本当に生きててくれてよかった――」


 肝心の『おさむ』がわからない。

 あんたたちも誰だよ。


 しかしどう見てもこの二人は俺に縋って泣いているし、何度も目が合っている。

 俺、『おさむ』だっけ。

 記憶喪失になったのか?

 いやいや、ちゃんと覚えている。

 かわいさだけはいつも褒められた保育園時代。

 やんちゃし通した学生時代。

 高校を卒業して土木作業のアルバイトからそのまま正社員として雇ってもらい、運よく出会ったかわいい彼女と結婚するため、キャリアアップを狙って片っ端から重機の免許を取った社会人生活のことも、他人からみればどんなに薄っぺらだろうと俺はしっかりと覚えている。


 この人たちはあたかも親のように俺の目覚めを涙して喜んでくれているが、俺の親でもない。

 二人とも既に亡くなっているし、こんなに泣いてくれるほど親しい親戚もいない。


 では一体何が起きているのか。

 どこかの病院の病室にいるのだろうことは今目に入る景色から十分わかる。

 俺がベッドに寝かされていることも。

 しかもここは個室だ。他にベッドがなく、十人は押しかけられるほど空間に余裕がある。

 すごいな。こんな個室なんて初めてだ。

 見舞いに来る人間なんて十人もいないのだが。

 さらに周囲を見回そうとわずかに頭を動かすと、すぐさまずきりと痛み、驚いて動きを止めた。


「まだ動いちゃだめよ、すごい怪我をしてるんだから!」


 言われて、そっと目だけを動かし己の全身を見た。

 腕も足も包帯でぐるぐる巻き。

 腹には布団がかかっているから見えないが、はっきりとした痛みと、何かが巻かれている感覚がある。


「覚えてるか? お前は屋上から落ちて病院に運ばれたんだ」


 男の言葉に耳を疑い、凝視した。

 俺の記憶はしっかりしているはず。

 ちゃんと覚えている。

 なのに、屋上から落ちた、だと?

 この男は、何を言っているのか。

 男は俺を上回るだろう不審そうな目でこちらをまじまじと見つめ返した。お互いの探り合う視線が気まずく絡み合う。


「理……? もしかして、覚えてないのか? 落ちたことも、俺のことも」


 落ちたのも、理も、俺ではない。

 俺は見上げていた側だ。その記憶もしっかりある。

 咄嗟に手をゆっくりと持ち上げ、まじまじと眺めた。

 骨ばってはいるものの、白く細い指。

 腕も骨ばかりごつくて肉付きが薄いのが包帯越しにもわかる。

 男であることに違いはないが、毎日肉体労働に明け暮れていた俺の体とはあまりにかけ離れた、少年のような体だ。

 呆然と腕を眺める俺に三つめの視線が向けられていることを感じ、はっとして顔を上げた。

 目が合った瞬間、俺は思いっきり顔を顰めた。

 そのせいで皮膚が攣れて痛みが走るが、それどころではない。

 肘をついて体を起こそうともがくと、中年女性が慌てて駆け寄ってそれを抑え込み、中年男性がはっとしたように手元にあったベッドのリモコンを手に取った。


「動いたらダメって言ったじゃない!」


 じっとしていられるわけがない。

 中年の男がベッドの角度を変えてくれて、俺は上半身を押されるようにして身を起こした。

 そうして必死に横を向くと、少し離れた洗面台の鏡に顔が映った。


「いやだから誰だよ」


 思わずそう声に出していた。

 その声も、顔も、記憶にない。


 いや違う。さっき見た。


 ばっと振り返ると、鏡の中と同じ顔がそこにあった。

 ただし、鏡で見た姿とは違って、頭に包帯は巻かれておらず、その白い肌にも傷一つない。

 服も病院の白い寝間着ではなく、制服を着ている。

 確かあれは、近所でも有名な進学校の高校だったはず。

 どこか幼さの抜けきらない顔立ちに丸みのある眼鏡をかけているが、その瞳には利発そうな色があり、なんともつかみどころのない、アンバランスな印象だった。


 もう一つ、少年が頼りなげに見えるのはその線の細さのせいばかりではない。

 少年の体は白く透けているのだ。

 もう一度鏡を見るが、やはりそこには先程の少年と同じ顔。

 ただしその顔に眼鏡はかかっておらず、眉間に皺を寄せ、食い入るようにじっとまっすぐにこちらを見ている。

 顔を右に動かせば鏡の少年の顔も同じように動き、手をかざせば鏡には包帯だらけの白い手の平が映った。

 だがその後ろにいるはずの白く透けた眼鏡の少年は映っていない。


 愕然とする俺を、これまた呆然と見守っていた中年の男は、力が抜けたように傍らの椅子に腰を落とすと、頭を抱えるようにしてうなだれた。


「頭を打ったせいで記憶喪失になってしまったのか……? 自分が誰かもわからないとは、なんてことだ――」


 将来有望な自分の息子の顔で、「いや、俺は肉体派のしがないおっさんだぞ」と告げられたらこの人は耐えられるのだろうか。

 いつの間にか立ち上がってこちらを見つめていた女も、先程と同じようにわなわなと震える手で口元を抑えると泣きながら再びくずおれた。

 今度のすすり泣きは失意に満ちている。


 透けた体の少年はそんな二人をなすすべなくただ見守っていた。

 改めて少年の頭から足先までじっくりと眺める。


 うん。ここは定番だが、足はあるな。


 だが、足と床の間には頭一つ分くらいの隙間があった。その間には何もない。つまり、浮いていたのだ。

 透けて浮いている少年。その少年と同じ顔をした俺。

 ゆっくりとあの時の記憶を思い起こしてみるが、やはりそうとしか思えない。

 落下点にいた俺の魂とでもいうべきものがこの少年の体の中に入り込んでしまい、少年を追い出してしまったのだ。

 少年は自分を見る俺の視線に気がついているようだったが、じっと目を合わせるものの、話しかけてくることはなかった。

 そんな佇まいがものすごく幽霊らしさを漂わせているが、ここに本人の体があるのだから、まだ死んでいるわけではないのだろう。

 しばらくうなだれていた中年男は一度深いため息を吐くと顔を上げ、意識的に気持ちを切り替えるように無理矢理笑みを浮かべた。


「いや、すまない。一番戸惑ってるのはお前だろうに。俺たちも気持ちの整理が追いつかなくてな。さあ、母さん。泣くのはやめよう。命は助かったんだ。記憶はこれから戻るかもしれないし、もし戻らなくてもまた一から作っていけばいい。な!」


 女も涙をハンカチで拭きながら、こくこくと何度も頷いた。


「俺はお前の父親、隣にいるのが母さんだ。お前の名前は白崎しろさき理。年は十七で、高校二年生だ。近くにある聖陽せいよう高校に通っている。この辺りでは有名な進学校で、自転車で通えるから定期代もかからない。お前は本当に親思いのいい子だよ」


 そう言ってから、はっとしたように言い添えた。


「今は十月。受験まではまだ時間もあるし、勉強のことは焦らなくていい。今は怪我をしっかり治して、ゆっくり過ごそう」


 本心からそう思っているようで、どうやら進学校に通っているといっても、親は勉強や進路をカリカリと心配している様子ではない。

 本人が進学校を選んだのだろうか。だとしたら俺とは真逆の人間だ。


 理の父親は他にも家の場所などあれこれ説明を続けると、やがて言いつくしたのか椅子の背にもたれ、わずかに俯いた。

 組んだ手を離してはまた組むのを幾度か繰り返すと、わずかにためらってから口を開く。


「確かに俺たちのことを覚えてなかったことはショックだが、お前を責めてるわけじゃないんだ。ただ、な。お前が目を覚ましたら、いろいろ聞こうと思ってたんだよ。……なんであんなビルの屋上なんかにいたのか、何故落ちたのか。それを聞かないことには、安心できなくてな」


 男が何を気にしているのかは俺にもわかった。

 柵がなかったようだから間違って落ちたのかもしれないが、どこかの会社の事務所ばかりで店も入っていないようなビルに高校生が用があったとも思えない。

 かと言って三階程度のビルを自殺に選ぶとも考えにくいのだ。

 だとしたら、誰かに呼び出されて、突き落とされたのではないだろうか。故意か事故かに関わらず、他に誰かが関わっているのであれば、再び命が狙われることもありうる。そう考えると不安なのだろう。

 それに万一自殺だったとすれば、また死にたがるかもしれない。

 その場合は記憶がなければある意味安心かもしれないが、いつ思い出すともわからないのだ。


 この体が何故落ちたのか。

 その答えは、すぐに剥がれてしまった笑顔を取り戻せないままうなだれる夫婦の傍で、ぼんやりと佇んでいるこの少年が持っているはずだ。

 少年の母親は医師を呼びに行き、父親も「電話しなきゃな」と病室を出て行ったが、去り際に少年の母はぐっと涙を堪えると、じっと俺を見つめた。


「とにかく生きてくれていただけでいいわ。今はもう、それだけで十分。生きていてくれてありがとう、理」


 泣きはらした瞼からはまだ涙が滲んでいたが、口元にかすかに笑みを浮かべていた。

 ずっと、細い望みの綱を必死に握っていたのだろう。意識を失っている間、ずっと「死なないで」とだけ願い続けていたのだろう。

 胸に刺さるようだった。

 本当の息子は透明な姿となり生きていると言っていいのかわからない状況にあり、その体の中にいるのは他人の息子。

 俺が悪いわけではないが、申し訳なさを感じずにはいられなかった。

 それだけ母の想いというのは真っ直ぐに胸を射抜いた。

 隣に浮かぶ少年にとってもそれは同じだったのだろう。ぐっと歯を噛みしめ、痛みを堪えるような顔でじっと母親を見つめていた。

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