描きたいに辿り着くこと

 本格的な片付け日は明日だから今日は早く帰れる。各クラス、明日は片付けとそして打ち上げ。

 べえちゃんと福島は「とりあえずカラオケだ」と、近藤くん大塚くんとともに早々に撤収した。二人はと聞かれ、差し入れの残りのケーキを美術室の机で食べていたわたしと鈴子は首を振った。

 四人が行ってしまうと美術室はぱたりと静まった。日が落ちた窓ガラスに蛍光灯が映っている。絵の具がまだ乾かないキャンバスはブルーシートごとそのまま。廊下の向こうからどこかのクラスの声が聞こえてきた。文化祭のことが頭の中にぽつぽつと浮かんでは消えた。

「ひらの、メニュー係ありがとね」

 鈴子が私の隣で言った。

「なにもしてないよ」

 謙遜とか、過大評価されたくないというのではなかった。ありがとうと言うべきはわたしなのだ。誘ってくれてありがとう、と。

「三組喫茶の成功の決め手は、メニュー名と言っても過言じゃないですよ」

「それは過言でしょ」

 わざと大げさな鈴子の口ぶりに二人で笑う。鈴子が言うと、本当はどう思っているんだろうと考えずに素直に受け取れた。大げさなことは大げさな気持ちとしてそのまま受け取ることができた。

「あと美術室も、使わせてくれてありがとね。べえがいたから余計に楽しかったし、福島くんとも仲良くなったし。ほんとあの二人が喋ってるといつも笑いが起こるよね。また遊び来ていいかなぁ」

 思い出したことを思い出した順に鈴子は喋る。

「全然来てよ。絵描かなくても、来たいときに」

「ここは三人のたまり場だね」

「そう、たまり場」

 スピークイージー、と最初にべえちゃんが言ったのを思い出す。たまり場だし隠れ家だ。

「わたしも何か頑張ること見つけたいなぁ」

 座ったまま伸びをして、鈴子が言った。わたしは意外な気持ちで鈴子を見る。

「鈴子には書道があるじゃん」

「うーんまぁ、得意なことかもしれないけど、べえの絵みたいに燃えてるわけじゃないもん。やりたくてメラメラすることってなかなかないよねぇ」

「そうなんだ」

 ぴょんと立ち上がってまた伸びをする鈴子を、わたしは座ったまま見上げた。

「まだ帰んない?」

 鈴子が振り返って聞く。

「ごめん。ちょっと残るから、先帰ってて」

「わかった。また明日ね。片付け、美術部優先でいいからね」

「明日は来れるよ。いろいろありがとね」

 じゃあね。うんじゃあね。そう言って手を振った。


 一人になると本当に美術室は静かになってしまった。

 教室を見回す。キャンバスの絵の具の匂いだけがまだ熱気を残していた。

 パーテーションのすきまに入り、棚から共用の画材を出した。正式に美術部員なのだからこれを使う権利は最初からあったのだ。画集も持ってきて机に並べる。お気に入りの絵のページをひらく。

 最初は鉛筆でいっか。スケッチブックに線を引く。それだけで白い紙は別の空間になった。ひるんでしまいそうだった。何も考えないようにして、手を動かし始めた。その動かし方もよくわからない。力の加減もなにもわからない。

 なんのためでもない、ただ描こうと思ってわたしは初めて描いていた。

 これは、鈴子の言うメラメラしていることなんだろうか。べえちゃんは描いているときどんな気持ちなんだろう。今までそれを考えたことがなかったことに気がついた。福島もこんなことを考えてバンドをやるんだろうか。なんでもいいや、と自分に言い聞かせる。ただ描きたいだけ。

 ああそうか。すとんと納得する。描きたい、ってこういう気持ちのことか。そう思ったことは目の前の線にかき消されてすぐに忘れていった。

 ひらいていたのは画家フルネーズのデッサンだった。両手で帽子を押さえてあどけなく微笑む幼い娘のデッサン。フルネーズは明るくて幸せな絵がたくさんあって大好きだった。そのデッサンも、黒い線だけなのに娘への愛情も日の光の暖かさも感じられるのが不思議だった。それを真似して描いていくわたしの線はいびつで不格好で、愛も光も感じられなくて、そんなんじゃ描く意味なんてないと今までは思っていたけど今は違う気持ちだった。


 小さなデッサンを苦労して描き終えた。次はもう少し大きな絵にしよう。絵の具も使ってみよう。同じくフルネーズの、木漏れ日を浴びる夫人の絵。森の小道。丘で語らう男女。

 そうやって好きな絵をただ描いていった。描き終わったものが良くても悪くてもなんでも良かった。

 静かな教室に紙のこすれる音が響く。画用紙のざらざらした感触が筆を通して伝わる。画用紙と画集を何度も交互に見る。

 そうして筆を動かすうちに思う。

 絵とはイメージを留めているものだと思っていたけれど、そうじゃない。描かれるあいだの、少しずつ筆跡が足されるその時間までふくめて絵なのだ。絵という視覚情報があるのではなく、それが描かれたという動かし難い事実こそが絵だと思った。

 描いていくほど、見慣れた画集の絵はわたしのなかでするするとほどかれた。さっきのべえちゃんの手のように、そして今のわたしの手のように、フルネーズの手が動いて愛する娘や風景を描く様が思い浮かんだ。完成された美しい絵としか思っていなかったこれは、人の手が動いた証なのだ。絵に流れている時間が、まるでフラッシュバックのように浮かび上がる。みんなこうして描いてきた。この世にある絵はみんな、こうして誰かが描いてきた。誰かの人生の一部にその絵を描いた時間があった。描きながら感じていた。絵を描こうとした人、描かずにいられなかった人がいたことを。名前なんかよりもっとはっきりとその存在を感じた。

 知らない景色も知らない時代も、別世界じゃない。わたしの好きな絵たちは全部わたしのいる場所までひと続きだった。こうして手を動かす今のわたしまでひと続きだった。

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