べえちゃんの世界
「あ、べえちゃん」
昼休み中の廊下にべえちゃんを見つけて声をかけた。委員会の用事を思い出したのだ。戻ると鈴子が目をぱちくりさせている。
「べえ知ってるんだ」
「友達なの?」
やっぱりべえちゃんと呼ぶんだ、と思いながらわたしは聞いた。
「中学一緒なんだよ」
「そうなの?」
そういえば、二人の住んでいる駅は同じだったかもしれない。違うコミュニティだと気がつかないものだ。べえちゃんというあだ名の由来をわたしは一応訊ねてみたけど、鈴子もやっぱり知らないと言う。
「小学校の頃からべえちゃんらしいよ」
鈴子は言った。
「中三で同じクラスだったんだけどね、最終的に先生たちまでべえちゃんって呼んでたよ。そこまでくるともう、第二の名前だよね」
長谷川べえ、とわたしたちはそこにいない人間の話で盛り上がった。もちろんそこにいた他の友人たちも、その呼び名をすっかり覚えてしまった。あだ名というのはこうして定着していくらしい。
べえちゃんは美術部だ。高校の美術部というと、美大志望の人たちがずらりとイーゼルを並べて日々デッサンをしている想像をしていたけど、「そういうのは美大の予備校だし、美大を目指すような人たちは普通の部活動の型には捉われてない」とのことだった。わたしにはただ部員の少ない、というかほとんどいない、静かな美術室にしか見えなくて実際のところはわからない。
その放課後、特に急ぐこともないわたしが静かになった後の教室をふらりと出ると、まさに急ぐこともないからふらりと出てきましたというようなべえちゃんと顔を合わせた。
「部活?」
なんの気なしに聞いた。べえちゃんはこれから部活動に取り組もうというアクティブさは特に感じられない、のんびりした声でそうだよと答えた。
「べえちゃん何部なんだっけ?」
「美術部だよ。来る?」
なんの絵心もないわたしが放課後の美術室に足を踏み入れたのは、ただの偶然と暇つぶしだった。
石膏像をデッサンをしなくても美術室でやることには困らなかった。
一年の美術部員は今のところべえちゃんだけらしい。
「部活動っていうか、ただ絵描きたいだけ」
そう言いながらもべえちゃんは、快適そうに美術室にわたしを招き入れてくれた。小学校の図工室でも中学の美術室でも、授業で使わないものには触れてはいけない気がして目を向けたこともなかったわたしは、ほとんど初めての気分で美術室を見て回った。時間が過ぎるのはあっという間で、帰りにはべえちゃんの絵の具のパレットを洗うのまで手伝った。また来ていい? と聞くと「いつでも」と軽く言われた。わたしはしばしば美術室で放課後を過ごすようになった。
神話では、愛と美の女神をヴィーナスというらしい。どこで知ったのか、クラスの誰かが言ったのは愛実ちゃんにぴったりだった。小学生の噂話や賞賛や非難なんて主張も個性もない、誰かが言い出したらみんな揃ってそうだそうだとなるだけのものだけれど、これに限って言えば本当にその通りだと思った。
愛実ちゃんは、そんなことないよぉ、と困った顔で否定してみせたけど、それは褒められた際の振る舞い方を知っている子の慣れた謙遜だった。
美術室にギリシア神話の本があって、急に思い出してしまった。
愛美ちゃんは髪が長くて肌が白かった。ロングヘアはたまにポニーテールにしたり、三つ編みにしていた。さらさらの長い髪は真っ黒ではなくて少しだけ茶色がかっていた。
ローマ神話のヴィーナス。ギリシア神話での名はアフロディーテ。愛と美と性を司る、オリュンポス十二神の一柱。元来は春の女神でもあった。
そのままメモ帳に書き写したらテスト勉強で単語帳を作っているみたいな、でも楽しい作業だった。美術の授業はこういうことを教えてくれても良かったのにと思う。上手くもない自分の絵ばかりを見ているより、もっと美しいものを知りたかった。
気に入った作品や画家を見つけるとメモに書き加えた。いつか本物を見よう、というためとも言えるけれど実際それほどの目的はなかった。目的のためのメモではない。絵を手に入れたいのでも、家に飾りたいのでもなく、携帯の待ち受けにするわけでもない。わたしのメモに加わる。最小単位の所有欲を満たすようなものだった。
美術室でべえちゃんの描く絵をのぞき込んだり、宿題をやったりする傍らそんなことをしていた
わ、まめだね。というべえちゃんの声が頭の上から聞こえて顔を上げたわたしは、それでも自分の手元のことを言われているとわかるのに一瞬間が空いた。あまり人前でぺらぺら開かないメモ帳を、美術室では無防備に開いていたことを今さら自覚した。
メモ、といっても今使っているのはB6サイズのリングノート。淡い青色の方眼の線と、うすいクリーム色の紙がそれなりに気に入っている。メモ帳には年々こだわりが強くなってしまっていて、なかなかこれというものを見つけられないでいた。でも内容に統一感なんてないのだから外側も統一感なんてなくていい。
わたしは反射的に身を固くしたけど、べえちゃんはどれくらいどのようにまめかということを深堀りしようとはしなかった。
まめだね、に対してなんと返事をすればいいのか、わたしが迷っているうちにべえちゃんはとっくに忘れたように机を通り過ぎて席に戻る。よくそんなの書くねなんて冷ややかな意味はなく、大げさな褒め合いの言葉でもない。たまたま視界に入ったから言ったのみ。本当に言葉通りの意味なのだろう。それ以上のことに興味はないのだろう。
自分にはない彼女の軽さのようなものを、わたしは時々、受け取りあぐねてしまう。深い意味がないのだろう言動を、同じように深く考えずに受け取れるかというとそう簡単でもない。
そういう相手には、こちらの気持ちも軽くしてくれる人と、ただ軽薄だと思う人がいて、そしてたぶん彼女は前者で、それが間違いではないかわたしはちょっとだけ慎重でいる。
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