福島の世界
「平野、平野、化学の教科書持ってる? ノートも」
一時間目の授業中にこっそりメールを送ってきた福島は、わたしが返信するよりも先に休み時間に来て、教室の後ろの入口から急かす。教室に入ってしまわないよう、ドアにぶら下がるようにして身を乗り出している。そんなことをしてわたしを呼ばないでほしい。小学生じゃないんだし、他クラスの人間が教室に入ったからって騒ぎたてる人なんかいない。そういうのを未だにおもしろいと思っている福島の部分はちょっとだけ疎ましいときがある。今あいつはわたしの手元にある次の授業の持ち物しか見ていない。化学の教科書とノートを、わざとすごく面倒くさいように手渡す。
他に頼れる相手いないの、と聞くと、
「男同士のプライドもないし、女子への気遣いもいらないだろ。平野だから頼れんじゃん」
そう軽く言って、ろくにわたしの返事を聞かずに廊下を駆けて行った。
「仲いいよねぇ」
横で鈴子が、ほぉと感心する顔で言う。幼馴染とか腐れ縁という相手は誰にでもいるわけではなくて、いない人にとってはただ未知だ。わたしも一人っ子だから、お姉ちゃんや妹と仲の良い子を見ると感心してしまう。
「別に仲いいってわけでもないんだけどね」
呟くように返す。
福島とは、仲良しというのとは別の感じがする。
幼馴染と友達、は厳密にはたぶん違う。相手のことをよく知っているのはただ知る期間が長いからというだけで、わたしじゃないといけなかったことなんてない。わたししか知らない一面なんてない。
というか福島には、誰かしか知らない一面なんてないと思う。裏表のないやつ。素直とも単純ともいえる性格、ニカッと笑うときの小学校から変わらない顔、気崩さないけど気を使ってもいない制服姿、うるさくも根暗でもないキャラ。中心人物という意味ではなく、中間、普通という意味で福島は教室の真ん中が似合う。男子高校生、と検索したら一番最初に福島が出てきそうだって思う。
顔を合わせた瞬間、福島があまりにバツの悪そうな顔をしたのでわたしまで居心地が悪くなった。そのせいで、なんで福島がこんなところにいるの、いう問いを飲み込んでしまった。べえちゃんは美術室のぶ厚い机に横向きに座り、ノートに絵を描いていた。福島は何もせずに座って別の机に寄りかかっていた。
わたしは、放課後の美術室に一歩入ったところで立ち止まっていた。
最初、二人の間に何かあるのかと思った。けれども福島はべえちゃんのことを気にしているふうではなく、べえちゃんもわたしたちのことをまるで気にする様子はなかった。二人の横で、安っぽいラジカセから音楽が流れていた。
わたしが音楽を聞いていることに気がついて、福島はしょうがないというように首を振った。わたしの知らない音楽が流れていた。テレビや若者向けのお店で流れていそうな音楽が学校の美術室で鳴っていて不思議だった。
「べえにCD借りてたんだよ」
言い訳をするように、全然要領を得ない説明を福島は言った。
「今かけてるのは福島が持ってきたやつだけどね」
べえちゃんは手を止めないまま見当外れな補足をした。べえちゃんのハスキーがかった声はこういう音楽に合っていると思った。
「学校で音楽なんて流していいの」
わたしの質問も核心から外れていた。
「いいのいいの」
ノートに絵を描き続けながら、べえちゃんがこともなげに言った。
「もともと美術部にあったラジカセだもん。先輩たちも音楽流しながら制作してたんだよ」
近くの椅子にそろりと座った。何の変哲もない美術室を見まわした。塗料と紙の匂いがする教室の中に音楽が鳴っていた。でも音楽と学校という組み合わせの違和感以上に、何かここを居心地悪いと思っている気まずさがあった。
わたしがもやもやした気持ちのまま再び福島を見ると、福島が重たそうに口をひらいた。
「俺んち音楽禁止だからここで聴いてる」
わたしは話をつかめなかった。
「禁止、って、どういう?」
「禁止は禁止」
それ以上も以下も手放した、事実しかない言い方。理屈も屁理屈も出てくる気配がない。
家で禁止されてるってこと? バイト禁止とか、髪染めちゃダメみたいな?
福島の両親には何回も会ったことがある。それからお姉ちゃんがいる。四人家族、と検索したら一番最初に出てきそうな、ごく普通の家族だと思っていた。
「なんで?」
「なんでも」
俺に聞くなよ、とでも言いたげだった。
わたしは音楽に意識を向けた。ラジカセの周りには何枚ものCDがあった。二枚組の厚いものや、紙の箱入りもあった。知らないものばかりだった。どれも棚の奥から掘り出してきたようなものに見えた。
全部福島が自分で集めたのだろうか。福島にそんなに好きなものがあったことも、家に厳しい決まりがあったことも知らなかった。普通にちょっとした門限があるくらいの、普通の家だと思っていた。普通は音楽を全面禁止、なんてしないよね。いや、親子で一緒にロックバンドなんて聞かないのが普通か。普通の家って、そもそもなんだっけ。
「スピークイージー」
唐突にべえちゃんが言った。
「なにそれ」
今以上にわかりっこないことを言われてわたしはムッとした。相手がわからないだろうことを、それは何? と聞き返されるのを期待して話すのは、失礼じゃないのと思う。べえちゃんはたまに見せる無神経さでそのまま話を続けた。
「スピーク・イージー。禁酒法時代のアメリカの、潜りの闇酒場のこと」
ここ、とべえちゃんは今いる教室を示す。
なるほどここは禁止された音楽を聞くための、潜りの闇娯楽場ってこと。
べえちゃんの説明にわたしが納得したからか、福島はさっきよりは落ち着いた顔に戻った。手持ち無沙汰にペン回しをしながら音楽に耳を傾けている。そして、ちらりとわたしの顔を見る。
「平野、まじで言うなよ。俺の親に」
「え、言わないよ。会うことないもん」
急に傍観者から目撃者にされたわたしは焦って答えた。
「地元でばったり会うかもしんないじゃん」
小学生の頃に女子グループと口喧嘩をしてぶつぶつ文句を言う、男子の福島の顔を思い出した。
「言わないよ」
わたしは誓った。家の決まりに反抗して隠れ場所を探してでも、譲れないものがある福島。同級生との約束というより、福島個人との約束。
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