欲しいと思うもの

 新学期のうちに流れていた放課後のそわそわした空気は、気づけば無くなっている。みんな放課後になると同時にそれぞれ陸上部の顔やバスケ部の顔になって、迷うことなくそれぞれの居場所に向かっていく。

 廊下は友人を探したり喋ったりする広場のような場所から、人々が行き交う大通りのような場所になっていた。部活に入らないから暇同士だった福島とも、さすがにそろそろ情報交換をする必要もなくなっていた。


 わたしは新しく自分のテリトリーとなった高校の最寄り駅周辺を探索し、学校から駅まで毎日違う道を通って、三駅で着く電車通学を楽しんでいた。学校の最寄り駅にはそれなりの大きさのロータリーがあって駅ビルがあって、立派な駅ビルの横の細いビルの上にはちょっと不釣り合いなくらいの大きさの塾の看板が目立っていた。たまに仕事帰りのお母さんと一緒に帰ったりした。


「部活は入らないの?」

 夕ご飯の支度をしながらお母さんが聞いた。

「どこもつまんなそうだから」

 夕ご飯前に少し眠くなりながら答えた。

「あの子は? 福島くん。部活やってないの?」

「入ってないみたい。中学のときもほとんど帰宅部みたいなものだったし」

「そのうちアルバイトだなんて忙しくなるのよね」

 お母さんはのんびりと答えた。

 アルバイトをすることは校則でも禁止されていないし、してもいいのだけど、特別欲しいものもない。わたしはゲームをしないから、子供の頃のお年玉も大して使わなかった。両親もそれを預かったりせず、わたしがもらったものはそのままわたしに任せていた。

 一人っ子だったせいか、思えば昔から一人遊びが得意だった。

 小学校の頃は、学校の校庭で何かを何かに見立ててよく一人で遊んでいた。例えば花壇の下はマグマだから落ちないように移動する、というお決まりのものや、鉄棒の下をくぐり抜けて「ここを抜けると別の世界に入るのだ」と想像するとか。あるいは校庭で好きな木を一本決めて「この木はわたしが生まれたときに芽を出して、わたしと一緒に成長してきた相棒の木」と想像し、その後運命に引き裂かれるわたしと木の行く末を延々と考えたりしていた。まだメモは書いていない頃だった。


 ゲームや洋服が欲しい、そういう何か目的のためにある欲しいとは別の、ただ純粋に手に入れたい、手元に置きたいという感情がある。そしてそういうものほど、お金を貯めたとしてもどうしようもない。


 小学校四年生の冬だった。

 学校の帰り道に通る上り坂があった。行きは下りで、上るのは帰り。あるときその坂を歩きながら見上げて、目を引く家があることに気がついた。三階建ての一軒家で、弓なりを上にした半月型の窓が一番上にあった。家の庭木だったのか、窓の手前には樹木が茂っていて、半月型の窓はその木々の上にのぼってきたように顔を覗かせていた。日が暮れ始める時間帯だった。木々は濃い深緑色で、空は光を落としつつある淡い灰色だった。半月窓だけがオレンジ色の明かりを灯し、ぽっかり浮かび上がっていた。

 ランドセルを背負って歩いていたわたしは、しばらくそれを立ち止まって眺めた。その家の中よりも、もっと眺めの良い場所よりも、坂道を上りかけのここから見る景色が一番きれいなのだとすぐにわかった。それも日暮れの始めの、この時間にしか見られないものだということも。もしかしたら、わたししかこの景色に気が付いていないかもしれなかった。どうしたらいいかなんてわからない、というよりもどうするものでもないとわかった上で、この景色を大事にしたいと思った。

 それ以来わたしは毎日意識して、この月の窓のある道をゆっくり大事に歩いた。あの窓の部屋の中も、どんな人が住んでいるのかも、二階と一階はどうなっているのかも興味がなかった。日が傾いた頃の窓を見るのが、毎日の約束だった。わたしの帰り道の一部にその景色がある、ということが大事だった。

 冬を越えて日が長くなり、日暮れは遅くなっていく。春になり五年生になった頃には、わたしの帰り時間は窓が明かりを灯す時間ではなくなってしまっていた。

 小学校のクラス替えは一、三、五年生だから、五年生になるときにクラス替えがあった。愛美ちゃんとは三年生から六年生まで同じクラスになった。変わらず髪が長くてすらりとした愛美ちゃんは、五年生からは学校帰りに塾に通うのだと話した。

「いつもと違う道を曲がるんだよね」

 これまでの通学路とは別の道を通って帰るのだと、愛美ちゃんは話した。学校帰りに寄り道をしなければならないなんて。わたしや他のクラスの子たちにはなんだか訳ありの事情に思えて、愛美ちゃんの話に興味深く耳を傾けた。

「交差点の向こう、坂道があるのわかる?」

 愛美ちゃんの言葉に、あっと思った。

「知ってる。そこわたしの帰り道だよ」

 愛美ちゃんはうんうんとわたしに頷いて話を続けた。

「そこに三階建ての家があるんだけどね」

「きれいな窓がある家があるよね」

 言い終わらないうちにわたしはだんだん自信を失いかけていた。愛美ちゃんがさも当たり前だという反応をしていたからだ。景色を独り占めしたいなんて思ってはいない。でもあれは大人っぽい愛美ちゃんだから知っている景色ではないのだ。

「そこ、わたしのおばあちゃんの家なんだ。もし何かあったらそこに行きなさいって言われてるから安心なの」

 愛美ちゃんはいつものさりげない口調でただそう言った。


 昇降口から入って反対側、教室前の廊下のつき当たりには中庭に面した窓があった。人通りは少なく、窓は他よりも少し低くなっていて、三階のここからは静かな中庭が見下ろせた。

「お昼買った?」

 お昼休み、鈴子に声をかけられて振り向くと、鈴子もわたしにつれられて窓の外に目を向けた。ここ気持ちいいねぇ、と目を細める。少し開いた窓からの風で、鈴子の前髪がそよそよ揺れた。それから鈴子はパッと目を輝かせてこちらを見ると、

「椅子持ってきてお昼ここで食べようよ」

 と言った。

 中学までのお昼ご飯は席を班にして食べなければいけなかった。形式的に班になって、作業みたいで嫌だった。中学二年のとき、お昼時間中に席を立った子に担任が怒鳴ったことなんて、未だにわたしはありえないと思っている。食事中に席を立つのがだめで食事中に怒鳴るのがいいはずなんてない。

 鈴子はわたしの反応も待たず、自分の椅子を教室からよいしょと持ってきた。目が輝いているときの鈴子の行動はとても早い。

 椅子を並べると、廊下のつき当たりという少し奥まってこぢんまりとしたその場所は憩いのスペースになった。お昼を食べるのにお気に入りの場所を見つける。そんなことを日常的にできるのがすごくうれしいと思った。

 窓からは春を超えて日に日に緑が濃くなっていく木が見えた。ポプラの木らしい。とても大きい木で、さらさらと葉が揺れているのはいい時間だった。その向こうにテニス場があり、昼休みでも時折テニス部が練習している。いつもお昼を食べるクラスのメンバーでそんな景色を見るともなく見ながら、膝にお弁当箱や購買で買ったパンを乗せ、食べ終わっても喋るのが日課になるのはすぐだった。

「サロンが開かれているんだね」

 世界史の今井先生がわたしたちの様子を見て言った。社交界の優雅な集会、というような意味。言われたわたしたちは「ごきげんよう」とか「ごめんあそばせ」とか、思いつく限りの上流階級ワードを言って笑った。

 日々見える窓からの景色とそんな他愛無いやりとりをメモに書いていった。


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