見えてくるもの
「え、バイト? 偉いね」
「夏休みだけの単発だけどね」
べえちゃんが感心すると、福島は大したことなさそうに答えた。一日や数日だけの短期バイト始めたんだよね、という話だった。
放課後だけだった美術部の時間を丸一日手にしてしまい、夏休みのわたしたちは明らかに、べえちゃんすら時間を持て余した。かといってここに来ないという発想にならないのは、習慣というか、この日常を保ちたかったのかもしれない。そうは言ってもここで新たに何を始めるわけでもなく、わたしたちの時間は引き延ばされ、ただ全ての行動がスローになっていくようだった。校舎の端にある静かな美術室で、もともとここに流れていた時間にわたしたちがいよいよ取り込まれたかのようだった。
その合間にアルバイト。抜けがけ、という気持ちが一瞬浮かぶがすぐ尊敬に変わる。それが自分に想像のつかないことのせいで、べえちゃんと話す福島の横顔をわたしはよその人の気分で眺めた。
日雇いってこと? いや派遣って言われた、よく知らんけど。二人の会話を聞いて、自分たちの会話にそんな単語が出てくる年齢なのだと気づかされる。
「わたしもやんなきゃなあ」
とべえちゃんは声に出しつつ、全然やる気になったようには見えなかった。描きかけの紙の上でボールペンを玩び始め、絵のやる気もついでに失せたようだった。
えらいなぁとわたしも思う。働くこと自体もそうだけど、求人を探して選び応募し、採用され、諸々の手続き(たぶんいろんな書類を書いたり)を踏んでそこまで漕ぎつけたことを尊敬してしまう。学校のことのように誰もお尻を叩いてくれずにわたしはそこまでの行動を起こせる気がしない。夏休みのあいだ、というのは確かにきっかけとして良かったかもしれない。夏休みはもう二週間過ぎていた。
「どんな仕事やってんの?」
それでもべえちゃんはわたしより多少興味があるらしく、福島に聞く。
「この前やったのは、イベントの案内係でずっと外に立ってるだけだった」
「え、この暑さで?」
想像して思わず眉をしかめてしまう。連日の猛暑日で、とニュースは毎日のように暑さを伝えていた。仕事内容より環境が気になっている時点でわたしはまだ働くなんて無理そう。
一応日陰だったけど、まじで暑かったよ。と福島はうんざりした顔だ。
「でもその前のときにやった接客は楽しかったよ。ショッピングモールの特設ブースみたいなところで、ラスクとか売ったの。パートのおばちゃんたちと仲良くなった」
「あー、想像つく」
「そういうの福島向いてそう」
わたしとべえちゃんは想像して笑った。
パートのおばちゃんに可愛がられる福島は簡単に想像できた。友達のお母さんに会ったときなんかも屈託なく挨拶できる福島は、おばちゃんたちのお喋りにも愛想良く返事をしたり、素直にびっくりしたりして喜ばれているんだろう。
「今度やるとき教えてよ」
茶化しているのか好奇心なのか、べえちゃんは前のめりに言う。
「冷やかしだろそれ」
「スーパーの試食コーナーとかどう?」
「絶対来んなよ」
「それかパン屋さんとかの呼び込みは?」
いらっしゃいませ~、とべえちゃんが裏声を出す。
「まじで言わなきゃ良かった」
「うそうそ、おもしろいのあったらまた教えて」
「もう絶対この話しねぇ」
面倒くさそうな福島にべえちゃんは「見に来たりしないからさぁ」とまだ粘る。
べえちゃんはたまにこうやって、延々と聞き続けることがあった。小さい子の「なんで?」の質問みたいに。きっと小さい頃のべえちゃんがそのまま大きくなったんだと思う。わたしは従業員用のエプロンか何かをした福島に営業スマイルを向けられるのを想像するけど、あんまり見たいものではない気がしてラジカセの方に目を向ける。
「バイト代貯めて、またCD買うの?」
「それもあるけど、他もいろいろ使うでしょ」
そりゃそうでしょ、という調子で福島は答えた。既に必要なものに足りないということなのか、これから使うことになるということなのかわからなかった。
「平野は夏休み、遊び行ったりしないの?」
福島が聞いた。べえちゃんは喋っているときとほぼ変わらない音量の鼻歌交じりで、絵を再開していた。
「中学の友達とお祭り行こうって話はしてるけど」
「他は?」
「おばあちゃんち行くよ」
「そういうんじゃなくてさぁ」
わたしの答えに福島は首をひねって笑う。わたしがバイトの話にピンときていないのをわかって、お金を使いたくさせようとしているのだ。
「もっとあるでしょ、海とか山とか。いや、山はないか。ほら夏イベントが」
福島だってそんなにイベントやパーティーに遊びまわる方でもないはずで、その証拠に抽象的な言葉しか出てきてない。発言が尻すぼみになったのをわかって横でべえちゃんが笑った。
「平野ちゃんはね、昔からこうなんですよ。夏休みとかクリスマスとか、イベントに全然乗ってこないの」
べえちゃんに向かって、福島はわざと親戚のおばちゃんみたいな口調で言う。パートのおばちゃんに可愛がられる素質はやっぱり充分にあるなと思った。べえちゃんはもう飽きていたみたいだった。
何もしない日々を確認するためにここに来ている気がした。
じっとしていると、運動部の声と吹奏楽部の音が聞こえて、そこに道路の車の音が混ざった。どれもこの部屋からは遠かった。彼らはパワーを放出していて、わたしは知らなかった世界をここで吸収していると思った。彼らと関わらず断絶せず、同等に過ごしているのだと思えるのが良かった。
今日の美術室はべえちゃんと二人だった。
静か。べえちゃんと福島が揃うといつも気づけばお喋りタイムになる。でも二人だけだと静かに時間が過ぎる。
窓の外に目をやる。すぐそこが学校の敷地の端で、ここからはグラウンドも渡り廊下も見えない。木の枝から日の光がせわしなく降り注いでいる。冷房の効いた窓の内側では温度は感じられず、光だけになって届く。
手元の図録に目を戻す。印象派画家アルフォンス・フルネーズのこの絵画は、当初世間には理解されなかったという解説が書かれている。肌の上に落ちた木漏れ日の描写は、当時美しい物とはみなされなかった。
誰も見つけていない美しいものを見つけたいと思っていた。自分が本当にいいと感じたものなら、他の誰もそう言わなくたって、いいと感じていられると思っていた。木漏れ日はこんなに綺麗なのになぁと思う。当時の人々にはどんなふうに見えていたんだろう。誰も描いたことのないものを描くのは、この世に生み出すとか発明するという方が近いのかもしれない。
立ち上がって、べえちゃんの前の席に座った。画用紙を青で塗りつぶしている彼女の手元を眺める。夏服の白いポロシャツに絵の具がつかないか心配するけど、すぐ忘れてしまう。紺色くらいの青色はところどころ緑が混ざり、上にいくにつれて明るく青のグラデーションになっていく。空か、海底のようだと思ったけど、わたしの側からは暗い方が上に見えるから空は空でも大気圏に見えた。全部塗った上からべえちゃんが真っ白の絵の具を落とす。こういうときにべえちゃんは一瞬の躊躇もない。
暗い青の上で白は眩しく見えた。光っているわけではない絵の具で光を描けるのは不思議に思えた。
「光って何色なんだろう」
ほとんど絵に向かって呟いた。べえちゃんはあんまり聞いていない生返事をしたあと
「光は粒でもあり波でもあるらしい」
と答えになっていない答えを返して、今度はわたしが生返事をした。
光、と思う。文字にして書ける。光る、とも書ける。ひかり、と書くとまた少し違うもののように見える。そういうほんの少しの差を、絵は無数に描き分けられる。でも本当は、それでも描き分けられないくらいに実際の光は無数だった。それをわたしはただ、光、とだけ見ているのかもしれなかった。
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