やりたいことと、できること
本に集中しすぎて、今日は福島が描いていた絵に気づいてもいなかった。帰ろうというときにようやくそれを見た。福島は黄色と黒のアクリル絵の具でバナナの絵を描いていた。周りの描写はなく、白い背景にただバナナ。
「バナナ?」
わたしが聞くと、福島は答える代わりにCDを一枚絵の隣に並べた。その絵はCDジャケットの模写だった。黄色の上に擦れた黒色で描かれた、リアルな絵柄だ。
「結構有名な絵だけど見たことない?」
「ない。と思う」
無機質な絵だった。鮮やかな黄色にも関わらずなぜかモノトーンに見えた。福島の絵はそれと似ているとは言い難くて、形は尻すぼみで、バナナの黒い影はべたっとしていた。
それまでは気まぐれに思いつきの絵しか描いていなかった福島だけど、翌週も同じ絵を描いた。二日かけて三枚同じものを描き、模写は計四枚になった。
「精度が上がってる」
「再現の精度?」
わたしは並べられた絵を見ながら頷いた。
美術部っていつやってるの? 鈴子から聞かれたのはそんな頃だった。
「看板描くの、そこでやってもいいかなぁ?」
鈴子の言葉で、喫茶の準備が着々と進められていることに気がついた。文化祭のクラスの出し物だ。文化祭、わたしはあんまり乗り気でいなかった。形式みたいなこととしか思えなかった。
高校の文化祭! なんて青い春の匂いがたちこめる言葉。輝くばかりのこのイベントを前にすれば、どんな将来の不安も社会の圧力も、力は及ばない。嗚呼、二度と戻らない素晴らしき日々。
それは全然自分事に思えなくて、わたしは文化祭を控えた高校生、という型に入れられている気分だった。わたしが楽しまなくても、他にぴったりの人がたくさんいるからいいでしょうと思っていた。
夏休みの校舎で鈴子と待ち合わせて美術室に来ると、今日に限ってべえちゃんはいない。福島だけ来ていて、最近いつも座っている後ろの奥の席で画用紙を広げていた。ラジカセからはいつも通り音楽が流れていた。
「ちょっと文化祭の作業するね」
言いながら、わざわざ断りを入れなくてもいいのかなと思う。わたしも福島も最初は居候みたいなものだったのだ。
「あ、どうも、五組の福島です」
福島は顔だけひょいと上げて、人当たりの良い顔で挨拶した。
福島は、モテるようなタイプではないけどいい奴なのだ。お調子者ってほどではない程度に明るくて、誰とでも喋るし裏表がない。単純とも素直とも言える。
だからきっと、本当には居心地良くないのだろうと思う。潜りなんて言っているけれど。家から隠れて何かをすることも、家に何かを禁止(音楽、正確に言うとバンド音楽が禁止らしい)された人間でいることも。
鈴子は福島の存在にも流れている音楽にもそれ以上興味を持つことなく、持ってきた模造紙とポスカを床に並べる。ノートに描いた下書きを見て、どう描いていこうか考えている。書道の時間と同じく、もう集中するモードに入ったのだと思った。「字が綺麗だから」という理由で看板製作を任された鈴子だけど、とても楽しんでいるしぴったりだと思う。模造紙に下書きを始めた鈴子からは鈴の音は止まって、シャーペンの芯が紙をなぞる音だけがかすかに響く。
わたしは美術室の椅子に腰かけてその様子を見つめた。鈴子の横顔にまっすぐな髪がはらはらかかる。書くペースを崩すことなく髪を無意識に耳に掛けながら、時々何か呟きながら、鈴子は機嫌良く手を動かす。下書きとはいえ手を思い切り広げなければならない大きさの模造紙に、鈴子は迷いなく書いていく。
「見て。純喫茶風」
鈴子が振り向いて言った。わたしは改めて〈喫茶イチネンサンクミ〉とシャーペンで書き上げられた文字の全体を眺めた。角を少し丸くした漢字とシャープ過ぎないイタリック体のカタカナは、確かに渋い喫茶店の書体に見える。キラキラの可愛さではなく、おばあちゃんの家の花柄みたいな、ほっとする愛らしさ。
迷いがないときの鈴子は、本当に一切の迷いがない。自信があるんだな、とわたしは思うけど、本当は自信よりももう少しいい言葉が他にある気がする。わたしはすごい、という自信とは違う。自分のやりたいことがわかっている。それに対してなす術を持っている、という方向で迷いがない。クラスの文化祭に貢献したいと思ったときに、じゃあ看板を書こう! という術を持っている。
愛美ちゃんはその術をたくさん知っていたんだろうな、と唐突に思い浮かぶ。社会科見学に行った後に書くまとめ新聞は、愛美ちゃんのものが誰よりもきれいで読みやすかったこと。学級活動や帰りの会で話がまとまらないときに、愛美ちゃんが進めてくれたこと。お友達のお母さんに会うと礼儀正しく、お喋りが上手だったこと。たぶん、よくできるしっかりした子として、わたしは愛美ちゃんを思い浮かべている。
「平野も色塗りやってね」
文字の輪郭をポスカでなぞりながら、不意に鈴子が言った。急にわたしは我に返った。
「平野、装飾係に名前書いてたけどまだ何もやってなかったでしょ。これ作るのちょうどいいよ」
なるだけ軽い調子で言ってくれたのがわかった。だから同時に、気を使われていることがわかった。
文化祭の熱気に乗れていなかった自分をゼロ地点にいるだけだと思っていた。
でもクラスにとってそれは、ゼロではなくてマイナスだったんだろう。
特にやりたいことがないから。ちょっと無意識に、遠慮する顔で不参加を決め込んでいたことは周りにはとっくに気づかれていた。
だって。咄嗟に思う。やりたい人一緒にやりましょうって、楽しみみたいに言ってたじゃん。いつの間に強制になったの。楽しむことまで含めて義務だったの。義務なら義務って最初から言ってよ。目の前に、文化祭の型がどんと置かれた気分だった。
鈴子は型にハマるのが上手いんだよ。
ちゃんと楽しんで頑張ってそして役立っている鈴子に、わたしが言えることなんてなかった。
調子っ外れな鼻歌のべえちゃんが美術室のドアを開けるのと、「あームズい」と絵に苦戦している福島の叫びがほぼ同時に起きた。
「本日の作品はボディペインティング」
べえちゃんが入るなり言った。
「え、なにそれゾンビメイク?」
鈴子が普段以上に甲高い声を出した。べえちゃんは制服のまま顔と腕に赤黒い絵の具……と思われるものを塗り付けて、腕と首からは包帯を垂らしていた。
「そう。うちのクラス、お化け屋敷やるんだ。それでメイクの練習。福島も今週中に一回はやるから来てね。あれ、なんで鈴がここにいるの?」
ゾンビメイクを気に入っているらしいべえちゃんは立て続けに喋り、わたしたちは誰が何から返事をしたらいいか、言いかけたり譲り合ったりして、それまでしんと集中していた三人の間は気の抜けた空気になった。
「福島もお化け役なの?」
「なんでもいいって言ってたら勝手に決まった。しかも入口で一番最初に脅かす役だよ」
勘弁してよ、という顔で福島は訴えた。文化祭に乗り切れていない人間がここに一人いたことにわたしは安渡し、でもちゃっかり役目があることに焦り、自分だったら絶対にやりたくないから良かったとやはり安渡する。
「うちは喫茶だよ」
「あ、看板? 見せて見せて!」
鈴子の製作途中の看板に、べえちゃんは食いついた。
「やっぱ鈴、字うまいよねぇ」
「カフェじゃなくて喫茶店って感じにしようかなって」
「うん、わかるわかる」
包帯をたらしたまま機嫌良く話すべえちゃんを見て、ご機嫌なゾンビ、という言葉が思い浮かぶ。その言葉の変な取り合わせがおもしろくて、後でメモに書こう、と思う。
「お菓子食べる?」
ご機嫌なべえちゃんは、ブレザーのポケットから個包装のクッキーを出してそばの机に広げた。
「食べる~」
「福島は?」
「うおっ」
べえちゃんは奥の机にいる福島へ、一つを勢い良く放り投げた。福島は描き途中の絵の上でぎりぎりキャッチした。クッキーを配るゾンビ、とわたしは思う。もしくは、ゾンビの配るクッキー。
「喫茶ってどんなもの出すの?」
クッキーを一口で頬張って、ゾンビのべえちゃんが訊ねた。
「大したものないよ。予算もないしね」
鈴子が答える。
「この前一個試作したんだけどね、ひどかった。全然美味しそうじゃなくて」
そう言って鈴子が見せたケーキの写真は、本当に美味しそうに見えなくて、申し訳ないけどわたしとべえちゃんは笑ってしまった。スポンジ生地にクリームとアラザンを乗せたシンプルなもので、決して汚く盛り付けられているわけではないのだけれど、そのシンプルすぎる色が悪いのかどうにも美味しそうとは言いにくいケーキだった。ケーキというものが人を喜ばせるものだとしたら、このケーキはおよそその気がない顔をしていた。
味はいいの。そりゃぁ特別美味しいってわけじゃないけどね、見た目ほど残念な味じゃないの。鈴子は力説する。
「不機嫌なケーキ、って感じ」
さっきのご機嫌なゾンビ、に引っ張られて浮かんだ言葉を、わたしはなんとなく口にした。ただの相槌のつもりだったから、それの反応は「そうだね」と笑ってもらうくらいで良かった。だから、鈴子にハッとした顔を向けられて身構えてしまった。人にハッとした顔を向けられることなんて、そうあるものじゃない。余計なことを言ったと思った。
「ねぇ平野さ、メニュー係やらない? メニュー名とそこに一言の説明を書くの。料理係で考えてたんだけど、いいの思いつかなくて保留になってたんだよね。たぶん、ぜったい、平野は得意だと思う」
最後の方をほとんど言い聞かせるように鈴子は言った。
鈴子の目が輝いている。居心地悪かった。鈴子の目が輝くのがわたしに直接向けられることなんて初めてだった。
「うん、平野そういうの上手いと思う」
べえちゃんも頷いた。悪ノリではない真面目な言葉ということくらいはわかった。ゾンビメイクで言っていても。
「私の絵に平野よく感想言ってくれるでしょ。あれ、うまいなぁって思うことが多くて、秘かに参考にしたりしてるんだよね」
「それなら秘かにじゃなくて言ってよ」
どうでもいいことなのに、わたしは照れ隠しに口を尖らせた。照れたというよりほとんど困惑していた。
そんなふうに人から期待を寄せられることを、わたしはなんとなく避けてきたところがあった。人の役に立つことはもちろん素晴らしいことだけれど、人の求めるものなんてわからない。自分が良いと思ったことが喜ばれなかったら。自分より上手く出来る人がいたら。せっかくしてあげたのになんて押しつけになるくらいなら。自分が良いと思うことは自分の中で完結させて、それをあえて人と共有したいとは思わなかった。
「わかる。平野ってたまぁに絶妙なひとこと言うんだよ」
福島までが加勢した。鈴子の話をさらに盛り上げ決定的にするには、そのひと言で十分だった。鈴子に引っ張られて教室へ向かい(盛り上がったべえちゃんも行きたがったがゾンビなので断られていた)、わたしはメニュー係の職を得た。
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