前日まで

 ライブペインティング。

 べえちゃんが文化祭でそれをやると言ったときよくわからなくて、その日も美術室では音楽が流れていたせいか、ライブという言葉に引っ張られてわたしは何か激しいものを想像した。結果的には当たっていたけれど。

「それ絶対いいじゃん」

 福島が即答した。

「べえ、得意そうだね」

 その日も喫茶の制作で来ていた鈴子も同意した。

「かっこいいやつ流そう」

 福島は置いてあるCDに顔を向けた。


「暇じゃないの?」

 七人掛けの座席の真ん中あたりに並んで座りぼんやりしていると、福島が聞く。

 通学電車は三駅しか乗らないから本やノートを開いたってすぐに着いてしまって、わたしは電車の中でただ窓の外を見ていることが多い。

 最近の福島は、帰り道にいつもイヤホンをしてる。

 同じ美術室から同じ方向へ帰るのだからわざわざ別々になる方がヘンだ。学校を出て駅に着けば、べえちゃんと鈴子、わたしと福島、それぞれの方向に分かれる。わたしと福島が一緒に帰る理由はそれだけで、なので隣で彼がイヤホンをしていようがヘッドホンをしていようがヘルメットをしていようが別に構わない。ヘルメットはちょっと困るか。

「ぜんぜん。一人で帰るのと同じだよ」

「ならいいけど。俺だけ音楽聴いててなんか悪いなと思って」

 福島はイヤホンを付け直す。美術室で音楽は十分鳴っているのによく飽きないなと思う。

「それべえちゃんに借りたCDだっけ」

 話しかけられたら喋りたくなってしまって、イヤホン越しの福島に話しかけてしまう。

「そ、この前話してたやつ」

 案外聞こえているらしい。

 カバンに入っているポータブルのCDプレイヤーもべえちゃんのものだ。というかべえちゃんがお兄さんからおさがりでもらったというものを、無期限貸与というかたちで福島が使っている。本当に福島はべえちゃんに足を向けて寝られない。

「そんなことしてて、帰り道でばったり親に会ったりしたらどうするの」

「この時間には親帰ってこないから、だいじょーぶ」

 用心深いのか不用心なのかわからない。外の景色を見ている福島の意識はほとんどイヤホンの中に向けられている。膝の上のカバンにはいつのまにかプーさんのキーホルダーをつけていない。

 眠くなるほどの時間も乗っていないから寝過ごす心配もない。電車がホームに滑り込むタイミングで座席を立ち上がる。福島はケーブルが絡まないよう、器用にカバンを肩にかけて立つ。イヤホンがすれ違う人に引っかかったりしないのかなと思う。

 街を歩いている人でイヤホンをしている人は特にめずらしくないけれど、福島のそのケーブルの先は知らない世界に通じているみたいだ。美術室で流しているのと同じCDだとしてもそんな気がしてしまう。たぶんイヤホンの片方を聞かせてもらったとしてもそう思ってしまう(でも前に片方聞かせてよと言ってみたら、ステレオだからだめ、と言われた。なにそれ)。

 同じものを聞いているのよねと確かめたくなるくらい、わたしにはわからないところで福島とべえちゃんだけが盛り上がるときがあって、それを最初、わたしは自分がおもちゃを貸してもらえない子供のような気分でいると思っていて、でも次第にそれも違うと思うようになった。わたしに見えないものを見ているようだった。二人が音楽を独り占めしてわたしに貸してくれないのとは違う。福島はわたしにも話してくるし聞かせてくる。貸してくれようとしているおもちゃを、わたしが受け取れていない。

 だから鈴子がいてくれるとホッとする。鈴子は音楽に特別興味を示さない。でもつまらなさそうにもしない。二人が盛り上がっているのを見て、それだけで楽しそうにしている。たまに「これコマーシャルで聞いたことある」なんて言っていて、そういうのを福島もべえちゃんも結構うれしそうにしている。

「お母さんに、福島くんと一緒なら帰り道遅くても安心ねって言われたよ。そのうち夜ご飯食べに来たらとか言ってたよ」

 改札を抜けた道でまた話す。

「俺が美術部って話してんの?」

「別に変なこと言ってないよ」

 今度は用心深い返事。福島はわたしの横で首を傾げる。それから口をひらいた。

「そんなさ、もう親になんでも話す歳じゃないでしょ」

 よりによって、福島にだけは言われたくないことを言われた気がした。横からじろじろ顔を向けるけど福島はすましている。

「別にわたしは何も後ろめたいことないし」

 そのイヤホンのケーブル、引っ張ってやろうか。そう一瞬思った後、どう考えてもそれだけはやってはいけない気がした。むしろそのケーブルを引っ張る奴がいたら、わたしは止める側だとすら思った。

 ボタンを押して、福島が音楽を切る。いつも決まった曲がり角でイヤホンを外して、ケーブルを几帳面なくらい丁寧にくるくると巻いてカバンにしまい込んでいて、それをわたしは無意識に確認している。


 日増しに廊下で文化祭準備をする人たちの姿が増えていた。どこにいても、段ボールやガムテープやポスカのインクのカサついた匂いがしたし、スカートの下にジャージを履いて、座り込んで作業する子があちこちにいた。お昼を食べていた廊下のつきあたりまでいつのまにか作業スペースになっていて、いかにも平常時ではないのだった。

 メニュー作りはちゃんとできたと思う。

 鈴子も入れた料理係の子たちに試作品の写真を見せてもらい、たまに試食させてもらう。それで思いついたことを言ってみる。〈不機嫌なケーキ〉に続くシリーズとして〈堅実なクッキー(説明:堅いけど固くない)〉〈身勝手パフェ(説明:奔放)〉が好評だったけど改めて見ると意味がわからない。

 これでわたしが下手なら鈴子の顔にも泥を塗ってしまう、と緊張していたけど、みんな自分のできることをできる範囲でやっていて、それ以上を追い求める人はいなかった。自分のできる最善がどれくらいか、みんなわかっているように見えて不思議だった。

 考える部分の仕事が終わればあとは手を動かすばかりで、頼まれたところに装飾を切り貼りしたり、色を塗ったり、記憶に残らないような些細な手伝いで本番直前のそわそわに身を任せた。そういうのを終えたあとで美術室に来ると、ひたすら何もせずにずっとここにいたいと思ったりした。


「平野はどの曲がいいと思う?」

 福島が急に言った。え、わかんないよ、と顔を上げるよりも前にわたしは答えた。美術室で福島は当日に流す音楽を選曲していた。

「逆に適当に選んでほしい。迷いすぎてわかんなくなってきた」

 美術室の机にCDを広げ、ラジカセの横で福島は頬杖をついていた。椅子を引き寄せてその前に座る。

「じゃぁ選ぶから聞かせて」

 適当にと言われても、本当にランダムに選ぶのも難しい。

「どれから聴く?」

「これかなぁ。ジャケットの絵が好き」

「お、いいよ」

 目についたものを選んだだけだったけれど、それでもわたしが聞きたいと言ったものを流すことはないことだったから、福島はわかりやすく得意そうな顔になった。お客さんをもてなすみたいに丁寧にCDをセットし、「じゃ、いきまーす」と、もったいぶって再生ボタンを押してくれる。これギターがかっこよくてさ、と解説までしてくれようとするので、何も知らない状態で選ぶからいいよ、と丁重にお断りする。福島の方も確かに、という顔になって頷く。単純で助かる。

 しばらく、沈黙とも違うただ音楽だけが部屋に響く時間が流れた。

 きい、と微かな音をさせてCDのケースが開かれる。ぴかぴかの表面に指紋をつけないよう、福島は指先でCDを取り外し、器用に人差し指を真ん中の穴へ引っかけて持ち上げ、ケースを閉じる。そのまま中指でラジカセのボタンを押し、ディスクを入れる。停止ボタン、再生ボタン。曲を飛ばすボタンで狙った曲を再生する。事務的で、いろいろなものを心得たような迷いのない手つき。

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