ずっと見ていたものは

 慣れたのがいけなかった。

 二日目の喫茶で、わたしは昨日よりもスムーズに案内をし、メニューの説明ができて、得意になっていたかもしれない。

 お待たせいたしました。〈不機嫌なケーキ〉お二つです。と言ってわたしがケーキを並べたテーブルには三年生らしき女子二人組が座っていて、彼女らはわたしの置いたそれを見た瞬間顔を見合わせ、お互いに相手が自分と同じことを思ったことを確認する目配せをした。わたしがテーブルを離れた瞬間、離れてからだったことは最低限の礼儀だったのかもしれないけれどたぶんそれは無意識なだけで、二人はわたしがまだ二人の声を聞こえる位置にいるうちに「しょぼいね」と囁き合った。

 わたしは後ろを振り向けなかった。とっさに鈴子がそれを聞いてしまわなかったか姿を探した。その後そのテーブルを視界に入れられなかった。

 いつの間にか、その席には新しい別のお客さんが座っていて、お店は滞りなく回って、それからもたくさんのお客さんにドリンクとフードを提供し続けた。これも含めてお店が回るということなんだろう。

 彼女らは目の前のケーキに対して率直な感想を口にしただけで、わたしや鈴子やこのクラスに対して言ったわけではないし、そもそもケーキを作ったのも考案したのもわたしじゃない。なんにもわたしのことじゃない。

「おーい。平野?」

 人混みの隙間で手をひらひらと振られて、我に返った。美術室に続く廊下で福島と顔を合わせていた。廊下も騒がしかった。周りの人混みはクラスTシャツと劇の衣装の生徒と外客であふれている。

「あ、もうお化け役終わってたんだ」

「おう。べえももう来て描いてるよ」

 ゾンビ衣装からいつもの制服姿に戻っている福島は、ゾンビメイクを落としたてのさっぱりした顔で美術室の方を指した。

 人混みも美術室まで来ると抜けていた。美術室の廊下の備品たちは今日が文化祭だなんて知らずにいるんじゃないかと思う。さっきまでの景色が異常だった気がする。

 扉を開けて、あ、と思った。それからすぐ自分がほっとしたのがわかった。

 美術室はあまりにもいつもの匂いと音だった。そこに自分の身体がすっかり馴染んでしまって、感情の流れと美術室に流れる時間がぴったり沿って、少しのズレもないように思われた。未知だったはずの美術室がそんな場所になっていたことに初めて気がついた。

 二日目の美術部は、一日目より少し賑やかになっていた。

 今日のべえちゃんはゾンビメイクをちゃんと落としたようだけど、手はもう絵の具まみれだった。数組のお客さんがべえちゃんの様子を見ていた。

 わたしは入り口近くに寄せた机に腰掛ける。ここなら入ってくる来場者とキャンバスの両方に気を配れる。

 絵を展示したパーテーションが壁に沿って並び、奥にべえちゃんのキャンバスが見える。大きな鮮やかなキャンバスにみんな吸い込まれそうだった。

 福島が戻ってきてパーテーションの隙間に置いたラジカセの傍らにしゃがみ込み、また何枚かCDを選別すると、自分の持ち場というように横の椅子に腰を落ち着けた。

 観衆の反応を感じながら描いていくライブペインティングもあるのかもしれないけれど、べえちゃんの場合は周りの反応なんて絵を左右するものではないようだった。かと言って周りを遮断するわけでもなく、描く勢いがそのまま、絵の具とともにまき散らされた。

 来場者は増えたり減ったりして入れ替わった。途中で飽きる人も、最後まで見たかったけどまだまだねというように去る人もいた。

 ここから目を離すなんてわたしはできなかった。

 キャンバスに絵の具を乗せるほどに、べえちゃんは自由になっていく。描いていく木は反対に、どんどん重たくなっていく、べえちゃんの絵は綺麗だけど綺麗じゃない。熱くて、中身が詰まっていて、何かいいことも悪いことも起こりそうな感じがする。この木もまぎれもなくべえちゃんの描く絵だ、と思う。

 そこでふっと我に返った。絵とだけ繋がっていた意識がほどかれて、するんと音が入り込んでいた。聞き覚えのある、つまりわたしの知っている福島の音楽だった。一度わたしが選んで福島が聞かせてくれた曲だった。覚えようとしていたわけではないけれど記憶にちゃんと残っていて、それがここで流れた瞬間に浮かび上がってきたのだった。

 頭の中の記憶と外の境界が溶け出していく。

 福島の音楽のことを、嫌いだと思ったことはなかった。ただ、福島やべえちゃんのようにはなれなくて、それは音楽がわたしの好きなものじゃないからだと思っていた。好きなもの以外は好きじゃなかった。好きなものだけがわたしのものだと思っていた。流れているだけだった音楽は、いつのまにかわたしの日常になり、わたしの一部になり、わたしの世界は広がっていた。

 知らない、と、知っている、がカードの裏表のようにぱたん、ぱたんと返っていく。好きを見つけることが自分の世界だと思っていた。でもこんな広げ方もあるのかと思った。

「ほんとだ。美術室でハードロック流れてんじゃん」

 廊下から聞こえた声で引き戻された。

 男子の声だった。大きくはなかったけれど、他の観客が我に返ってしまわないかわたしは不安になった。入ってくるな。展示中ということも忘れて思ってしまった。美術部が音楽を聞いてたらいけないですか。ここはわたしたちの潜りの娯楽場。誰にも邪魔はさせない。本当は、潜りでも娯楽場でもないけれど。

 ちらと見ると二人の男子が美術室を覗いていた。一人はわたしと同じクラスだ。わたしが気がついたのと同時に、向こうもこちらに気がついたようだった。彼は、近藤くん。話したことはなかった。何部だっけ。運動部ではなかった気がする。ガリ勉タイプではないけど、どちらかといえば真面目が性に合っているような人。暑苦しいのは好きじゃない、なんて顔でいつも一歩引いてて、ちょっと話しづらいと思っていた。

 近藤くんがすっと美術室に入ってこちらに近づき、声を掛ける。

「平野さん美術部だっけ?」

「そうですけど」

 彼の口調は丁寧で礼儀正しかった。手を後ろ手に組んでそっと立ち、少し顔を傾けて小声でわたしに話しかける様子は大人びていた。あなたには恐らく関係ないと思いますが、というのがわたしの声にはにじんでいた。美術室でハードロック流れてんじゃん、の言葉の真意を測りかねた。

「音楽流してるの、誰?」

 近藤くんの後ろにいたもう一人の男子が、待ちきれなさそうにわたしに聞いた。この人も運動部ではなさそう。髪が目にかかるほど長くて、セーターの袖も長くて、シルバーのピアスをしているのがちらと見えた。

「あそこにいる五組の福島。でも今は手が離せないと思うけど」

 隠すわけにもいかず正直に答えた。福島はキャンバスと音楽へ半々に意識を向けるように視線を斜めに落とし、こちらに横顔を向けていた。二人が揃って彼を見る。三人分の視線に気がつき、ふいと福島がこちらを向く。俺に用? 無防備だなぁと思う。そうやって振り向いて、もし両親が見に来てたらどうするんだろう。ちょっと来て、と手招きすると、?のままの顔でこちらにやって来る。

「音楽あのままでいいの?」

「ああ大丈夫」

 それはいいけど、俺なんで呼ばれたの? という顔。横の二人を気にしつつ福島はわたしを見る。ここは自分がそれぞれを紹介するべきなのだろうかと一瞬悩んだけど、わたしが口を開く前に、

「バンドやらない?」

 近藤くんが、福島に言った。唐突だった。少なくともわたしたちには唐突だったけど、近藤くんともう一人の彼にとってはこれしかないという様子だった。

 福島はちょっと真面目な顔で迷って、それから

「俺んち、バンドなんかやったら家追い出される」

 と笑って答えた。

「いいじゃん。親に見に来てもらって発表会するわけじゃないんだから」

 近藤くんの答えは冗談めかしていたけれど、真剣だった。もう一人もたたみかけた。

「やってほしいのはドラムだからさ、家にドラムセット置いたりしなきゃ何もわかんないよ。最初はリズムだけ取れればいいから」

「俺もベース始めたばっかだし。ドラムも気楽にやってよ」

 あくまで軽く、でも間違いなく二人は本気だった。福島は、そんなこと考えたこともなかったという顔だった。バレなきゃ大丈夫という発想、いや、禁止されていたってその気になればできるということをだ。

「名乗ってなかった。俺、近藤」

「二組の大塚」

「あ、五組の福島です」

 付け足しのようにそれから三人は名乗った。

 バンド以前にさ、どんなの聴くの? あのCD全部福島の? え待って、俺もそれ好きだよ。名乗ってから先はもうただ仲良くなった同士の会話で、それがそのままバンドやるよ、やろうよという返事となったのだと思う。

 あとは三人で、とわたしはそこを離れた。

 そっと来場者の横を通って前へ行く。立って見ている人の邪魔にならないようにしてキャンバスの前に座った。べえちゃんは描き続けていた。

 黙々と描き続けるべえちゃんは無敵に見えた。大きいと思ったキャンバスも今のべえちゃんにはちょうど良かった。

 軽々と描いているようで、真近で見るべえちゃんの手は力強い。キャンバスにぎゅっと筆を押し付ける勢い、絵の具の厚い質感、筆が掠れてかすかに乾いた音がする。目の前で見ると贅沢なほど直接感じた。視界が絵でいっぱいで、絵の中に入り込むことだって簡単そうに思えた。それは今までべえちゃんの絵を見ていた中で間違いなく一番気持ちが良かった。

 ずっと描いていてほしい。べえちゃんが描いているところは未完成とも不完全とも思えなくて、完成に向けてずっとわくわくしていられた。

 目の前で絵が描かれる。筆を動かして。体をいっぱいに動かして。そこに音楽が流れる。美術室の時間が流れる。それはペラペラの一枚の絵かもしれないけど、五分とか一時間だけかもしれないけど、わたしたちの人生の一部になっていくのだと思った。

 不意に、べえちゃんは停止ボタンが押されたように筆をキャンバスから離す。

 ブルーシートの右端から身体を大きく反らせて絵を眺め、次に左端からもそうして眺め、ブルーシートを出てわたしの隣に来て眺め、再びキャンバスの真ん中に立ってこちらを向いて「完成です!」と宣言した。観客がわっと拍手をしたのが後ろから聞こえた。

 拍手をされたからか、急にやることがなくなったからか、べえちゃんは少し照れた顔になってもう一度キャンバスを振り返り、それから一礼した。立ち上がってわたしも手を叩いた。元からみんなは立っていたけどスタンディングオベーションと思った。

 べえちゃんがこっちを見て、目を爛々とさせて笑った。わたしはべえちゃんに向かって手を広げる。思いっきりハイタッチしてから、わたしは自分の手が絵の具まみれになったことを理解して笑った。

 外がうっすら暗い。聞こえてくる文化祭の声に、撤収のざわめきが混じり始めたことに気がつく。張り詰めた気持ちが開放された美術室はにぎやかだった。

 喫茶を抜けた鈴子も顔を見せていた。

「全メニュー完売!」

 わたしと目が合うとにっこり笑って言う。それから、確保してた差し入れだよ、とわたしとべえちゃんに簡単にラッピングしたケーキを見せた。べえちゃんはうれしそうな声をあげ、受け取ろうとしたら手が絵の具まみれで受け取れなくてまた声をあげた。それぞれの仕事をやりきった二人の笑い声は幸せに響いた。

「写真撮ろ。写真」

 鈴子がカメラを手に呼びかけた。

 俺撮るよ、と福島がそのカメラを受け取ろうとして、「福島くんこそ入らなきゃ」「いや女子三人で写りなよ」「いやいや私は」なんてやっていたら近藤くんがカメラを引き受けてくれて、四人でキャンバスの前に並んだ。

「俺バンドやるよ。あの二人と」

 撮られながら福島がべえちゃんに言った。えっ何その話! べえちゃんはパッと目を輝かせる。

「俺がドラム」

「こいつがギターで俺がベース」

 興味津々のべえちゃんに、福島と近藤くんと大塚くんが説明する。

「いいなぁ」

 べえちゃんの言ったのは、羨望ではなく賛同だった。あっという間に、当然のようにべえちゃんは二人と仲良くなった。美術室はさっきと一転して気持ちも目線もあちこちに飛び交っていた。終了したはずが何もかもこれからのようにそわそわした。

「なんで平野まで手汚れてんだよ」

 さっきべえちゃんとハイタッチしたわたしの手を見て、福島が笑う。答えずにその手で福島のワイシャツや顔に触れようとするわたしの悪ノリを面倒くさそうによけて、福島は近藤くんたちの方へ戻っていく。

「三人で撮ってあげよっか」

 鈴子が近藤くんたちに楽しそうに言った。

「アー写じゃん」

 べえちゃんが口を挟む。「楽器ないけど」「アー写はなくてもいいんじゃん」「ライブ告知で使おうぜ」「まだ合わせてもねえよ」と三人は笑い合い、描いてもいないべえちゃんのキャンバスの前に並んで撮られていた。最後に六人でも撮った。


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