前日と本番
美術用品のカタログで注文できる中で一番大きいものを選んだから、べえちゃんのキャンバスは見たことのない大きさだった。横幅は身長くらいある。縦はそれよりは小さいけど、座って描いたら隅まで手は届かない。
文化祭前日、わたしとべえちゃんは二人で美術室の後方にブルーシートを広げ、ずれないように養生テープで留め、キャンバスを二人で抱えて立てかけた。包装されたビニールを剥がしていくと、新品のキャンバスは神聖で、穢れなき新世界のようだった。
美術室は片付けられ、普段端に寄せられているパーテーションに作品が展示されて画廊となっている。顔をあまり合わせないけど、来るたびに描き進んでいた先輩たちの絵たちもしっかり仕上がっている。福島は描いたものを全部並べていた。全部正方形だから並んでいるとレコードショップみたい。と本人に言ったらちょっと得意気になっていたので何か言いたそうだったけど無視した。その一画で、文化祭当日の二日間で、べえちゃんはこの大きなキャンバスに描ききる。
「ペンキ足りるかな」
キャンバスの大きさに我に返り、わたしは言った。
「先週確認したからオッケー」
「一週間で使っちゃってない?」
「今は溜めてるから大丈夫」
溜めてる? と聞き返すとべえちゃんは準備運動みたいに腕を伸ばしながら、描きたい気持ちを、と言った。
「クラスの準備あったら行って大丈夫だよ」
べえちゃんがブルーシートの上に座りこんで言った。シートがごわごわと大げさな音を立てた。
「今日はなにもないから」
キャンバスと、それを見上げるべえちゃんを後ろから見つめた。大仕事を控えている人にただのクラスの仕事を気づかわれるのは申し訳なかった。芸術家肌みたいな自由さがある一方ですごくしっかりしているべえちゃんのことを、わたしは尊敬と気後れが混ざった気持ちで接し、それを彼女への興味が上回っている。
「べえちゃんこそ、お化け屋敷大丈夫?」
「午前中やってお昼で交代してくる」
わたしは絵を描くゾンビをぼんやり想像した。そういうパフォーマンスもありそうだけど、明日のべえちゃんには純粋に絵を描いてほしい。
校内を回って宣伝するか、喫茶の店内の仕事をするか、最悪な二択を前にわたしは店内の仕事を選んだ。接客なんて絶対に間違いなく向いていないけど、チラシ配りなんてもっとダメ。
店内は、飲食のアルバイトをやっている子が中心となりてきぱきと回転していた。その中でわたしはただ立ち尽くしてしまった。
喫茶イチネンサンクミの店内となった教室は、普段とは完全に別の空間だった。鈴子も看板を描きながら言っていた通り、店内は喫茶店の雰囲気になっていた。茶色の色画用紙と折り紙で作ったレンガ調の壁、窓は色セロファンでステンドグラス風。照明は蛍光灯をを色セロファンで覆って明るさを落とした。今朝来たら男子が机に上がって照明をいじっていて何事かと思った。装飾の備品として折り紙と色画用紙と模造紙を見たときにはお遊戯会みたいで正直げんなりしたけど、雰囲気作りは成功だと思う。
そこに来るのは他のクラスや他の学年の生徒、他校の友人、たまに冷やかしにくる先生たち。それでどうしてこんなに緊張するんだろう。突然、提供する側とされる側にくっきり分かれた立場にわたしは困惑した。自分の案内一つで人間が並んだり、席に座ったり、言われた通りに動く。
平野緊張しすぎだよ、ロボットみたい。鈴子がそんなわたしを見て笑う。
鈴子のよく通る声は、廊下でお客さんを呼び込むのにも、店内を案内するのにも向いていた。それが高校生であろうと喫茶店のスタッフであろうと、鈴子はやっぱり型にハマるのが上手いのだと思った。
メニューもラミネート加工され綺麗に仕上げられていた。自分の頭から出てきた言葉たちがわたしの手を離れ、店内を飛び交い、立派に仕事をしていてちょっと照れくさい。
入口から離れた配膳スペースの近くでわたしはなんとか落ち着いた。調理スペースからドリンクやフードが出てくるのを待機しています、という顔をしていれば一応カタチになる。出されたら注文の紙に書いてあるテーブル番号通りに運べばいい。戻るときに空いたテーブルを片付ける。注文に呼ばれたら、その通りに紙を書いて調理係まで持って行く。
メニューを作ったのが幸いだった。お客さんに内容を聞かれてもわたしは淀みなく答えられる。お客さんがメニューを選んでくれることは、自分の言葉たちそのものが選ばれているような気分だった。
混雑がひと段落した午後になって交代することができた。ありがたいことにお店から客足がなくなることはなかったけれど、昼の追い立てられるような慌ただしさはなくなり、あとは今日が終わるまで続いていくのだろうという時間が、じわじわと流れ始めていた。元から手慣れていた子たちは既に少しの雑さや気怠さすら混じらせて、ベテランの風格でお店を回していた。
解放されたわたしが真っ直ぐ美術室に戻ると、べえちゃんは順調そうだった。
美術室の時間はゆっくりしていた。数組の来場者が出入りをして、それからわたしとべえちゃんだけになった。遠くから聞こえるのが文化祭の熱のこもった声というだけで、ここはいつもと変わらない空気に思えた。さっきまでの喫茶の慌ただしさが急に昔のことに感じられた。音楽も流れている。CDの持ち主は今頃お化け役に奮闘している。そういえばここに直行してしまったけど、五組のお化け屋敷にも行ってみれば良かった。後で鈴子と行けるといいんだけど。
壁のペンキ塗りにでも使えそうな大きな刷毛で、べえちゃんはどんどん絵の具を乗せている。おもちゃの飛行機を飛ばすようにあっちへこっちへと刷毛を動かす。
「お、平野」
「げ。べえちゃん、ちょっと」
振り向いたべえちゃんと目が合ったのと同時に、わたしはべえちゃんの顔に気づいた。
「ゾンビメイク落としなよ」
顔はキャンバスを向いて、服はジャージに着替えていたから気づかなかった。べえちゃんの顔はゾンビメイクのままだった。制作の絵の具がついているのかと思っていたら、よく見ると腕もゾンビメイクだ。
カバンからウェットティッシュを出してべえちゃんに近づき、一番目立つ赤黒い目の下を拭き取ろうとする。よく見るとメイクは赤と黒以外にも白や灰色が複雑に使われてゾンビの皮膚を表現していて、感心するけど感心している場合ではない。べえちゃんを人間に戻さなければ。今いいとこだから、とべえちゃんはわたしを鬱陶しがる。
「ほら、じっとしてなさい」
わたしより背の高いべえちゃんにわざとお母さんみたいな口調で言う。
「どうせ汚れるからいいよ」
「その絵のタイトル、〈ゾンビペインティング〉にするよ」
「そんな捻りのないタイトル嫌だ」
「うるさいな。捻りがないのは関係ない」
何してんの。笑いを含んだ声に、わたしとべえちゃんが同時に振り向く。福島が美術室に入ってきたところだった。
「お化けお疲れ!」
べえちゃんが元気なハスキー声をかけるが、福島は見るからに疲れている。
「客のテンション高いし、脅かすのに大きな音立てるし、耳と頭が疲れた」
ため息をついて福島は端の椅子にどさりと腰を下ろした。
「福島はちゃんとゾンビメイク落としてきたんだね。べえちゃんこのままなんだよ」
「まじ? そのまま校舎歩いてきたわけ?」
福島が笑うので、べえちゃんは仕方なく筆を持ったまま一時停止した。
メイクを落として良かった、と思うほど、その後美術部の展示には順調にお客さんが入り、べえちゃんの絵はそれと呼応したのかしていないのかはわからないけど順調に進んだ。大抵のお客さんは、文化祭の校舎を道なりに見ていたらたまたまこの美術室にたどり着いてしまった、といった様子で、美術鑑賞を目指してやってくる人はいないようだった。たまたま美術部にたどり着いてしまったという意味では、わたしも福島も同じだった。先輩たちには美術部の展示としてそれが当たり前のことのようで、むしろべえちゃんのキャンバスという来場者の興味を引き付けるものがある方がめずらしいことのようだった。
窓の外がだいぶ暗くなった頃、蛍光灯に白く照らされたキャンバスは朝と別物だった。
「木、見えてきたね」
改めて絵を眺めて言った。赤もオレンジも紫も使って最初は気ままにペンキを広げているように見えたキャンバスには、中央から大きく枝を広げた木が現れていた。大きなキャンバスに潔くモチーフ一つというのがべえちゃんらしいと思う。筆を片付けながらべえちゃんは、うん、と軽く答えた。
美術部に来て最初の頃、べえちゃんに何を描いているのと聞くのをわたしはためらっていた。見ても何を描いているのかわからない、と言うようで申し訳なかった。でもいつの間にか何食べてるのと言うくらい自然に聞くようになり、聞かなくてもわかることも多くなっていた。予想とか推測ではなくて、描いているものをそのまま認識できるような感覚だった。
反対に福島の描く絵や流す音楽に、何それと遠慮なく聞けていたのは最初の方だけだった。べえちゃんの絵は見ていればべえちゃんのことを知れる気がするのに、福島が何かを描くたび、何か音楽を流すたび、わたしの知らないことがこれだけあると思い知るようだった。
実際に聞けば福島はなんでも教えてくれる。できればちょっと手短にしてくれないかな、とたまにこっそり思うほど語ってくれる。
それでもやっぱり、音楽を聴く福島はわたしの幼馴染でも腐れ縁でもなかった。再生ボタンを押した直後、気に入っているらしい曲の途中、福島は知らない場所を見ている。ずっと一緒の学校。ほぼ覚えていない小学校の入学式、通学路、低学年のときには毎日行ってたクラゲ公園、三年生のときの女子対男子のすごいケンカ、移動教室、校庭に野良犬が乱入した珍事件や、死ぬほどダサかった中学のジャージ、全然おもしろくなかった芸術鑑賞会、高校同じじゃんって受かってから気づいて笑ったこと。そういう共通の記憶は、ここでは何の意味もなかった。
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