もっと描こう
こんな時間に電話がくるなんてさすがに少しびっくりした。福島からだった。電話自体は別になんてことはなく、購買にまだカレーパンが残っているかどうかとかそんな用事で今日もしていたけど。
三コール目くらいで出ると「あっ」「あれ?」「あー、平野?」と自分からかけておいてよくわからない福島の声が聞こえてきた。わたしは夜ご飯を食べ終わって、お風呂に入りなさいというお母さんの声がそろそろ聞こえてきそうな時間帯だった。
「今時間ある?」
電話の向こうで福島が言った。あるけど。ないと言えば噓になるのでそう答える。
「ちょっとさ、預かっててほしいんだよね。CDと、あとバンドスコア。大塚に借りてるやつなんだけど」
福島は外で電話をかけているらしくて、足音と車の音が小さく電話の奥で聞こえた。外はかなり寒いと思う。この冬一番の冷え込み、と天気予報でやっていたばかり。
「明日学校でじゃダメなの?」
それで済むならわざわざ電話なんてしない。わかりきっていたけど聞いた。
「そう。だめ」
「わかった」
どこを歩いているのかを聞き、そことわたしの家の中間くらいの場所に向かうことを確認して電話を切った。部屋着のまま上からばさりとコートを羽織り、マフラーを巻きつけた。ちょっとそこまで出てくる、と両親に声をかけると不思議そうな顔をされたものの特に止められはしなかった。実際そこまでとしか言いようがない。
外に出ると冷えた空気に肩がきゅっと縮こまる。はあっと吐いた息の白さを確かめて歩き始めた。夜の住宅街は人の気配が消えていた。水面を踏むように繊細な心地がした。
マフラーに顔を半分うずめ、車の来る気配のない道路のガードレールの内側をてくてく進むとすぐに福島と落ち合った。福島はマフラーどころか軽い上着だけ着て、寒そうに肩をすぼめてポケットに手を入れて歩いてきた。本屋さんか何かの四角いビニール袋にがさっと本とCDを詰めて、それだけを持っていた。
「寒そ」
見たままを口にした。寒すぎて返事をするのも億劫というように福島はこくこくと頷き、それから口をひらいた。
「バレたわ。親に」
「え」
「CDとかバンドとか見つかった」
それ以上も以下もない事実のみ、という言い方。寒かったからなだけかもしれないけど、その言い方は最初に美術室で福島と顔を合わせたときと同じだと、わたしは唐突に思い出していた。手に持ったビニール袋を、放棄するようにも託すようにも見えるやり方で福島はわたしに手渡す。どちらともなく傍らのガードレールに腰かけた。受け取ったCDたちを両手で抱えた。すごく重大なものを預かってしまった気分だ。
音楽がダメとか、バンドがダメというより、そう言われてたことをコソコソやってたっていうのがダメだったんだよな。試合結果の分析でもするように福島は言った。最初はさ、そんな厳しいことじゃなくて、そんなの聴くのやめなさいよ、みたいなこと母親に言われただけなのね。でも自分の好きなものを、そんなの呼ばわりされたら嫌じゃん。それで言い合いになって、テレビしか見ないから良さがわからないんだろとか俺が言って怒らせて。家族で他に音楽聴く人いなかったから俺が変みたいになって、それで膠着状態で、今。とりあえずこれは借り物だから間違って捨てられてもやばいし、持っといて。
暗くて寒くて張り詰めたような空気で、それだけで話は深刻に聞こえてしまった。できれば天気のいい昼下がりに聞かせてほしかった。ああ美術部に行きたいなと思う。べえちゃんと鈴子に大丈夫だよと笑い飛ばしてほしいと思った。
べえちゃんがあんなふうに絵を描けることや、福島が近藤くんや大塚くんと知り合ってすぐに通じ合えることが、心強くて、無敵に見えていた。でも今は、好きなものがあることが急に弱点に思えた。これはあのときに似ていた。喫茶のケーキを「しょぼいね」って言われたときに。そう思ったもののわたしにとっての喫茶のメニューと、福島の音楽は全然違う。ケーキはわたしのものではなくて、もちろん音楽だって福島のものではないけど、福島にとってそれはもはや他人のものじゃない。福島が好きになった福島の音楽だ。
そりゃあさ。福島が言う。守るべきものができてしまったからね。わざとらしい口調に、「何それ」とわたしはちょっと笑う。笑ったけど、わざわざそんな口調で言うのが悲しかった。本気でそう思っているのがわかってしまったからだ。守るべきもの。音楽のことだけど音楽じゃない。音楽を好きな自分のこと。
「これちゃんと預かっておくね」
ごわごわしたビニール袋を抱えて言った。
「美術室にしまっとく」
「よろしく」
寒そうに腕組みをして、福島が答える。
「親に奪われそうになってそのまま捨てる勢いだったから、人から借りてんだよって言ったら、じゃあ今すぐ返してこいって言われて。ああそうしますって、勢いで出てきた」
「そっか」
「で、大塚に返しに行こうかと思って電話しようとして、履歴からかけたら押し間違えて平野に電話してた」
「は?」
「でも間違えたのが平野で良かったわ」
「は~?」
さっきまでの真剣な気持ちを返せ、というわたしの気持ちに、こいつは気づいていない。
「間違いで夜に人を呼び出す奴があるか」
「いやでも結果的には平野で良かった」
「代わりみたいに言わないでよ。今から返しに行けばいいじゃん」
わたしがビニール袋をつっかえすと、「それがさぁ」と福島は悠長に笑う。
「財布も定期も忘れて出てきてたことに後から気づいたんだよね」
「はぁ」
なんかどうでも良くなってしまった。
大げさにため息をつくと、白い息がくっきり広がった。目に見えるため息。空気が抜けるみたいに力が抜けた。鈴子やべえちゃんや、そして福島相手だと、わたしは自分のことのように力が入る気がする。今抜けたけど。
「まあでも、そんな心配するほどじゃないよ」
わたしの白い息なんて見えていないように福島が言った。何が「でも」なの。電話を間違えた話はもう終わっていて、福島の頭はさっきの話に戻っていた。現に今心配してる証拠じゃん。
「俺さあ、期末の結果そこそこ良かったんだよ」
「そうなの?」
「あと、この前の模試も、自己採点まあまあ悪くない感じだった」
「なに、運が向いてるって話?」
「ちげえよ!」
笑いながらだったけど、強めの否定が返ってきた。ごめんごめん、どういうことなの。思わず謝って続きを促す。
「バンドはやるし、やった分だけ成績も上げる。それで文句言わせない」
福島はそう言い切った。
「あと髪は染めないし、ピアスはあけないし、卒業まで無遅刻無欠席目指す」
「へぇ」それは関係あるのか。
「酒もタバコもやらない」
「そんな先のことまで?」
「先か」
「先じゃん」
「まぁそうだなぁ」
「バンドやめたりはしないんだね」
一瞬迷ってから、訊ねた。
「やめるわけない」
吐き捨てるような言い方だった。それ以外の選択肢なんて切り捨てるように。
「うん。絶対やめたらだめだよ」
白い息。空気が乾燥している。寒さに耐えかねて二人とも立ち上がる。「じゃ、ま、そういうことで」「うん。もう寒くてむり」「俺の方がさみー」「じゃあね」「ん」
肩を縮こませたまま福島はわたしに片手を挙げる。ちょっと手を振りかえして、来た道を歩き始めた。始めはのろのろと、そのうち早足になって最後は走って帰った。喋っていた顔だけが熱をもって、冷たい空気でぱりぱりした。もっと描こう、と走りながら思っていた。
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