始めてしまったからにはね

 それからとにかく、ただ描く、ということをやりたかった。お気に入りの絵の模写じゃ足りなくて思いついたものをなんでも描いた。なんのためでもなかったけど、それにこだわりたかった。

 どうやって描けばいいのかわからなくなったら、べえちゃんの絵を覗きに行った。疲れて嫌になったら、鈴子と喋った。でもひたすら手を動かしたいときは、福島たち三人が何かやっているのを見ていた。そうするとなぜだか手が動いた。

 描く理由は描きたいから、としか言えず、別にわたしが描かなくてもいい理由はいくらでもあった。でもやりたいからやればいいのだと、ただそれだけだと考えているとまるで自分が世界で一番好きに自由に振る舞っているような気がした。可能性が無限大、なんてバカみたいに思っているわけじゃなかったけど、その端から端までを今考えなくていいのなら、ないのと同じように振る舞って良かった。


 福島の方は、彼の決意のおかげかどうかはさておき、学業そっちのけになったりチャラチャラしたバンドマンになることはなさそうだった。

 近藤くんは物静かな人で、制服でみんながよく着るだぼっとしたカーディガンではなく、いつもベージュか紺色のすっきりしたVネックのセーターを着ていた。そしてそれが地味にならないセンスを持ち合わせていた。ペラペラとは喋らないのに、先生や何かの係の生徒相手にオフィシャルな話をするときはとても上手く立ち振る舞った。

 大塚くんは、ピアスをしていたり髪を染めていたりカーディガンの袖がゆるゆる長かったりと派手なところはあったけど、おっとりした口調や柔らかい笑顔に気づけばわたしは打ち解けてしまっていた。成績は近藤くんと福島で上を競い合っているのに、ヤマを当てるのは大抵の場合大塚くんだった。

 物静かで丁寧な印象の近藤くんと、要領が良く社交的な大塚くんと、裏表がないから敵を作らない福島は、三人ともそれぞれに人当たりがいいのだった。友人も、居場所も、やることも、美術部以外にみんなたくさんあったはずで、最終的に堆積する砂のように落ち着くのがこの場所だった。


 集中して同じ体勢を続けていると首と肩が痛くなってくる。筆を置いて肩をぐるぐる回していると、廊下から足音が近づいてきてドアが開いた。

「平野」

 美術室に顔だけ覗かせて、福島がわたしに声をかけた。今行く、と描き途中の画用紙と画材をまとめて持って立ち上がる。

「またそれ全部持ってくの?」

 福島が呆れ気味にそれを見るのを構わず廊下に出た。

「吹部はコンクールでいないから明日も音楽室使えるってさ」

「お、ラッキーだね」

 並んで歩きながら話す。

 バンドが結成から半年と少し経った二年生の体育祭で、三人は応援団の演目の一部として出番を得た。有名な曲をグラウンドで演奏して体育祭を盛り上げて、それでバンドは美術部でも軽音部でもないまま公認の活動のようになった。吹奏楽部のドラムセットと音楽室にある機材を、時々使わせてもらえるようになったのだ。

「べえと鈴は?」

 あとから来るって、とわたしが答えるよりも先に階段の下から響く笑い声が聞こえてきて、振り向くとすぐに、階段をのぼってくる二人の顔が見えた。

「二人の声、階段の上まで聞こえてきたんだけど」

 福島が半笑いで言う。

「だって聞いてよ、鈴がさぁ」

「違うの。べえが急に変なこと言い出して」

 二人はけらけら笑ったままわたしたちに合流する。


 音楽室は校舎の端の三階にある。ドアを開けると近藤くんと大塚くんが既に来ていた。

 三階の教室は広くて明るく、窓から空がよく見える。黒板の前が一段高くなっていて、そこにグランドピアノが布を掛けて置かれ、反対側にドラムセットがあった。二人はその傍らで楽器の準備をしていた。福島はまっすぐドラムに向かっていく。

「そのへん好きに座って」

 わたしたち三人に福島が言い、お前の部屋かよ、とその言い方をべえちゃんが笑う。


 曲作ったから聴いてほしい。そう三人に呼ばれ、ようやく全員の予定を合わせて六人は音楽室に集まったのだった。吹奏楽部の練習がない音楽室を使える日はそれほど多くなかった。三人は変わらずバイトに勤しんでいたし、鈴子は二年から塾に行き始めていた。教職が取れるとこ、と行きたい大学の方向をもう考え始めていた。

 三人がここで練習するとき、わたしはたまに聞きに来ていた。聞いていたというか、三人の練習が聞こえるところで絵を描いていた。画用紙と画材を持って来るのはちょっと手間だったけど数回も来れば慣れっこだった。

 今日も中ほどの席に同じように画用紙を広げる。この絵はあと少しで描きあがりそうだと思う。

 べえちゃんと鈴子もそれぞれ好きな席に座って喋っている。

「どこ向いて歌えばいいかわかんないんだけど」

 バラバラの場所に座ったわたしたちを見渡して大塚くんが笑う。

「客席だと思って席全部に向けてやるんだよ」

 べえちゃんが言い返す。

「曲は誰が書いたの?」

 鈴子が聞いた。

「大塚がコードとメロディ書いた」

 たまたま彼の当番、みたいな感じで近藤くんが言った。

「ベタベタなラブソングだったらどうしよ」

「ラブソングをバカにするなよ」

「そもそも歌詞未完成だろ」

「未定のとこはフフフンで歌うから」

 美術室を出ても六人の空気は穏やかにのびやかに流れていた。わたしはちょっと笑いながら会話を聞いて、でもあんまり笑うと描けなくなるからほどほどに聞き流して描く。

 三人の音が静まる。座面がくるくる回るドラムセットの椅子を福島が微調整し、首を回し、姿勢を正す。大塚くんがギターを構え、ピックを持った手をマイクに添える。近藤くんがベースを準備し終える。三人が互いの顔を見合わせたのが見えた。演奏が始まる前、呼吸を合わせる瞬間。それはノートの一ページ目を開いたときや、真っ白なキャンバスに絵の具を落とすときの神聖な瞬間に似ている。

 演奏を聞きながら描き進める。みんなの話し声や音楽や、こうして演奏を聞きながら描いているとき、たまに、もうこれしかないような、何もかもが自分の中でぴったり合わさる気がした。世界で一番好きに自由に描いている気持ちだった。 

 顔を上げて三人を見る。別の音を出す楽器が合わさると一つの曲になっているのを、いつも不思議だと思う。三曲目までが体育祭でもやった曲。四曲目のこれが話していた自作の曲。

 描く過程まで含めて絵だとするなら、音楽は過程そのものなのかもしれない。曲が最後までいったら演奏は終わってしまう、と当たり前のことをいつも思う。こうしてずっと試行錯誤していていいのにと思う。絵でも音楽でも、未完成ということにわくわくした。

 弾きながら近藤くんがちらっと福島を見て、それで福島が一瞬頷いたように見えて、見ていないはずの大塚くんのギターにそれが伝わったように三人の音がぴたっと合った。そうして曲はちゃんと終わった。

「イントロあれでいいの? あっさりしすぎてない?」

 べえちゃんがすぐさま曲の感想を言った。

「え、違和感ある?」

「違和感なのか下手なのかわかんない」

「うるせえよ」

 近藤くんと大塚くんが答えて、感想は相談になり、作戦会議が始まる。

「やっぱ全員楽しそうなのがいいねぇ」

 見ていた鈴子が誰より楽しそうに言った。

 福島は三人の会議には口を挟まず、ドラムセットに座ったまま暑そうにワイシャツの袖を捲っている。

「どーだった」

 目が合った福島がわたしに聞いた。

「三人でやれば最強、って感じだった」

 わたしの答えに近藤くんが

「平野は上手い下手とかかっこいいとか、そういう物差し以外で言ってくれるから助かるよ」と言ってくれたけど

「たまに褒めてんのかけなしてんのかわかんないけどね」

 そう福島が付け足したからそれは無視した。

 サビの後のベースのソロってさあ、とべえちゃんと近藤くんがまた話し合いを始めた。鈴子は大塚くんの足元の機材を物珍しそうに覗きこむ。


 不意に、なんだか遠いところまで来てしまった気がした。べえちゃんに誘われて気まぐれに美術室を覗いたところから、今いるここまで。

 ドラムセットから福島がのそりと立ち上がり、わたしの斜め前の席へ来る。

「貸して」

 わたしの手元にあった下敷きを勝手に取りパタパタあおぎ始めた。俯き、髪を手でくしゃくしゃしておでこに風をあてている。福島も遠くまで来た。隠れて音楽を聞いていたところから曲を作るところまで。

「先は長いな」

 唐突に福島が言った。今考えていたことを聞かれていたみたいで驚いて顔を見る。

「何が」

「オリジナルだよ。最初は一曲くらいノリでできる気がしてたけど、そんな簡単にできたら苦労しないよなぁ。やればやるほど何が正解かわかんなくなってくる」

 絵もそうかも、と返す。でも

「やり始めたからには、今さらやめられないよね」

「そりゃそうっしょ」

 わたしの方を見ずに福島は答えた。本当に遠いのはここから先なのだった。好きなものを見つけるとか、絵や曲を作り上げるとか、ゴールに見えていたものはどれもスタートだった。でも、本当にゴールに着いてしまったらきっとつまらないだろうね。

 目の前の画用紙を改めて見る。もうすぐ描き終わりそうな絵。早く完成させたかったけど、ゴールかと言われるとまだスタートでもない気がした。

 自分が見たい景色を自分の手で描き表せるようになりたかった。どこかにある素敵なもの、帰り道や日常生活にある景色に出会って満足するのではなく、本当にこれだというものを自分で描きたい気持ちが今は一番大きかった。この絵ももう一度下絵から考え直してみようかなと思う。いくら描いても終わらなかったけど、いくら描いてもいいと思えた。

「平野」

 べえちゃんがわたしを呼んだ。顔を上げたわたしに大塚くんが言った。

「なんか曲名の案ない?」

「自分で決めなよ」

「なんかアイデアちょうだい」

 ちょっと考えてから、さっきまで三人が演奏していた空間に向かって口をひらいた。

「エスキース」

「どういう意味?」

「絵画用語。計画を練ったり、インスピレーションをまとめるためにまず作る下絵や、すじ書きや、その作業のこと。そういうの好きなんだよね。本人も全貌が把握できないまま、やりたいことが詰まってたりして」

「いいじゃん」

 べえちゃんが言った。福島が頷いた。意見を求めて鈴子を見ると乗り気の顔だった。おもしろいことを見つけたときの目が輝いている顔。おもしろくなりそうだと思って、笑い返した。

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エスキース 芳岡 海 @miyamakanan

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