そしていつもの場所

 口裏を合わせるような放課後は気づけば六人になった。

 この美術室は人間を引き込むのだろうか。最初は三人だった。もっと言えばべえちゃん一人のはずだったのだ。


 美術部ではなく芸術部なら音楽も活動の一環になる。と、べえちゃんと福島が無理矢理に納得していたけれど、部の名前は改名される気配もなく、人数だけが増えた。

 べえちゃんは変わらずマイペースに絵を描き、美術室には音楽が流れる。選曲する人が二人増え、こっちがいいとかあれは好きじゃないとか、四人の意見が時々割れる。


 近藤くんと大塚くんと福島の三人は、あるいはべえちゃんも入れた四人は作戦会議をしているみたいだった。私は読んだり描いたり、たまにべえちゃんの作業を手伝ったりする。鈴子も変わらず時々来て、一緒に宿題をやったりおやつを食べる。毎回全員いるわけではなくて、誰かしらが途中で帰ったり後から来たりして最大で六人になる。


 いつの間にか近藤くんと大塚くんは楽器を持ってくるようになった。こんなところで練習はできないでしょうと呆れるわたしをよそに、二人の弦を弾く音は黙々と響く。そういうときに福島はドラムスティックで古新聞の束を叩いていて、それはそれでなんとかなるらしかった。三人の音にならない音は、鉛筆描きのスケッチみたいだと思った。

 三人で履歴書を書いていたこともあった。面接を福島と近藤くんが一回ずつ落とされ、大塚くんだけ一回目の応募ですんなり採用され、三人はそれぞれ短期ではないアルバイトを始めた。それでも「スタジオ代はバカにならない」と言って三人はここに来る。


 人が増えても、校舎の端にある美術室の静けさも時間の流れも変わらなかった。外の音は遠くから聞こえてきて、学校で起こる出来事はここでは少しだけ関係が薄くなった。

 あるとき顔を上げて窓の外を見ようとして、ずいぶん人が多いな、と急に思った。窓とわたしの間に人の頭がいくつもあって、俯き、頬杖をつき、描いたり読み耽っている。外は曇っていて薄暗かった。全員がそれぞれのことに集中していて、それをまとめて蛍光灯が照らしていた。同じ空間でみんなばらばらのことをしていた。それは誰も置いていかれることがないから、揃って同じことをするよりも一緒にいるように感じられた。

 べえちゃんが描き上げたキャンバスは美術室に鎮座している。眺めるといつも、文化祭のときのドキドキした気持ちがよみがえった。

 その文化祭のときのドキドキや、ここにいるときの居心地の良さや、それだけじゃないしっくりした気分は、メモに書き表せないものばかりだった。書き表せなくて初めて、全部を直接手にしたと思った。わたしは好きなもの全部を書いていたのではなく、書いたものだけを全部だと思っていたのかもしれなかった。

 綺麗な絵を綺麗な絵だって思って、それで好きになったつもりになって、手に入れたつもりになって完結していたけれど、結局なんにも、本当にはわかっていなかった。

 絵が好き、美術室が好き、べえちゃんや鈴子のことが好きという好きはどれも全部違う。たぶんそれはべえちゃんが絵を好きというのとも、福島が音楽を好きというのとも違っていて、同じ好きなんて本当は一つもないんじゃないかと思う。

 好きと書き表したつもりのその先が、本当は何より広かった。わたしはずっと自分にわかりやすい言葉だけで片付けていた。目に見えない抱えきれないことを無視していた。


 美術室と教室は別の空間に思える。

「平野さん、このCD福島に会ったら渡しといてくれる?」

 今日バイトあるから美術部行けなくて。教室で近藤くんに話しかけられるたび、同じ部活ってこういうことなんだと改めて思う。クラス、部活、選択科目、委員会、様々なつながりが教室や廊下で不規則に交わる。放課後が始まった教室で人は散り散りに動いていた。手渡されたCDには①⑦と数字の書かれた付箋が貼られている。丁寧に書かれた几帳面な字。眺めていると「一曲目と七曲目を練習する予定」と近藤くんが付け加えた。

 福島は来てるのかな。忙しそうに帰る近藤くんを見送り、美術部のことを考える。みんなバイトを始めてから会えないときには全然会えない日が続くし、かと思えば美術室でひたすら暇そうなときもあった。練習の必要があるならCDは早い方がいいし、欠席した日のプリントみたいに、帰りに郵便受けに入れられれば楽なのにと思う。福島は両親と相変わらず和解していないらしい。


 美術室に来ると、中にいたのは一人だった。

 午後の日差しが斜めに差し込む美術室で、大塚くんが一人ギターを練習していた。足を組んで座り、ギターを抱え、俯いた横顔は髪で隠れている。そこからイヤホンのコードが伸びていた。

 わたしが教室に入っても視線は交わらない。イヤホンの先は別の世界に通じている。

 入り口近くの席で、斜め後ろからそっと様子を眺めた。カーディガンの袖が長いままで大塚くんは器用に弦をはじく。染めた髪の毛先が光に透けて余計に明るい。そのあいだから右耳のピアスがのぞく。そういう色と影を無意識に頭の中でなぞるのは、絵を描くようになってからの癖だった。美術室はしんとしていた。弦を弾く音は何度もつかえたり途切れたりして、人間の出す音だと思った。きっとCDがわたしにとっての画集で、楽器が筆。

 曲が終わったのか大塚くんが手を止めた。ふっとイヤホンを引っ張って外し、わたしと視線が合う。こっちに戻ってきたように見えた。

「なんか恥ずかしいね。練習聞かれてると」

「気づいてたの。わたしのこと」

 勝手に聞いていたのが申し訳なくて、でも謝るのも変な気がしてそんなことを答えた。

「そりゃ来たら気づくよ」

 あたりまえじゃん、という口調で大塚くんは笑った。笑うと角が丸くなるようにふにゃっとした顔になった。わたしがいることそのものをあたりまえと思っているようにも聞こえた。

「未完成の状態を聞くのって逆におもしろいね」

「そう? どこが?」

 大塚くんはおもしろそうにまた笑った。まぁいいけど、と首を傾げて言う。喋りながら鼻歌みたいにギターを鳴らしていて、その音が会話の隙間を埋めた。


 CDのことを思い出して帰りに届けようかと福島に連絡すると、「美術室に置いといて」とバイト中のはずなのに返信が来る。カバンからそれを取り出し、手で持て余していると大塚くんがふっと笑った。

「僕のCDを近藤に貸して福島経由で戻ってくるはずが、なぜか平野さんが持ってる」

「あっ大塚くんのだったんだ。教室で預かってきたんだけど」

「うん。ありがとね」

 CDの持ち主として、なのか、他のバンドメンバーに代わって、なのか大塚くんは言った。大塚くんから見た美術室には、最初からわたしがふくまれているんだろうと思った。


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