03 蝉吟(せんぎん)
鹿島へ。
伊勢へ。
更科へ。
芭蕉の旅はつづいた。
「思えば、私淑している
そう、本邦においても、
かの西行もまた、旅の中でその和歌の才を磨いたとされる。
「それにしても……」
その西行法師にしてからが、その発する歌が残ったからいいものの、もし、残らなかったとしたら、法師はいったい、どう思うのだろうか。
「…………」
そこから先は、西行を心の中で
「……ならば、参るか」
みちのくへ。
西行が旅したという、みちのくへ。
元禄二年三月二十七日(一六八九年五月十六日)。
松尾芭蕉、「おくのほそ道」の旅に出る。
その旅の中で、自らの求める俳諧の「行き先」があると信じて。
*
「……思えば遠くへ来たものだ」
「え? 何か言いましたか?」
「いや……」
羽州立石寺。
舞台はふたたび、ここに戻る。
みちのくへの旅を発起した芭蕉は、弟子の
やって来たとたん、この
「うるさいですな」
また、曾良がそう言った。
涼もうとしているところに、この大合唱である。
苦言の一つも呈したくなるというものである。
だが。
「そうでしょうか」
回想を終えた芭蕉にとっては、蝉の声はむしろそこまでうるさくはない。
どちらかというと、蝉の声以外は聞こえず、そこに……。
「静かだ……」
そこで、はっとした。
蛙の飛び込む音。
蝉の鳴く声。
人の残した言葉。
それらは、音があるからこそ、声があるからこそ、響いたからこそ。
否、あったからこそ。
「静かだ、そう、
動と静、その静。
「
蝉の声。
蝉の声は鳴いて終わる。
鳴いて終わるが、そこから訪れるものがある。
静寂がある。
蝉は何で鳴く?
それは、ここにいるという言葉なのかもしれない。
鳴いて、
閑寂が訪れる。
でもそれは、忌避すべきものではない。
かといって、持ち上げるべきものではない。
ただ、あるがままに。
鳴いて、終わって、静かになって。
そんな、瞬間を。
そこからつづく、永遠を。
静寂を。
閑寂を。
その瞬間から永遠へ、あるいはその瞬間の前へと思いをはせる。
そんな。
句を。
「岩に……しみ入る」
良忠さま。
今こそ。
あなたさまの。
号を。
「……蝉の声」
古今屈指の名句。
それが吟じられた瞬間である。
*
「
「蝉……吟?」
「そうだ」
藤堂良忠は、からからと笑った。そしてそのあと咳き込む。
上洛して首尾よく北村季吟に弟子入りした良忠は、その師の「吟」の一字を賜って、俳諧師としての号を名乗ることになった。
良忠はそこで、一も二もなく「蝉吟」という号を選んだ。
「なにゆえ蝉でございますか?」
芭蕉は――当時は
俳諧師の号の上とはいえ、主君・良忠と同列の不敬を冒すことを畏れたのである。
「蝉が好きなんだ」
暑い京の夏。
それをさらに暑くする、シャアシャアという蝉の声。
「だってお前」
良忠――蝉吟はつづける。
「おれはここにいる、そう鳴いているように思えるだろう?」
蝉吟はそれ以上何も言わなかったが、あとで思えば、そう鳴いたあとの蝉の運命をも、考えた上での名乗りだったかもしれない。
……そして、そう鳴いたあとの閑寂をも意識していたのかもしれない。
*
今となっては、わからない。
けど。
「蝉の声がたしかに
あゝ。
これだ。
これこそが。
こういう境地こそが。
芭蕉の。
蝉吟の。
「行き先」だったのかもしれない。
「良忠さま……いえ、蝉吟どの、宗房あらため芭蕉、今ここに、あなたさまに……一句、吟じましてござりまする」
いつしか着いていた山寺にて。
芭蕉は祈り、吟じ、傍らにいた曾良は必死に書き留めていた。
芭蕉はそれを見て、ふ、と微笑む。
思えば遠くへ来たものだ。
されど、その遠くへ来たからこそ、旅に出たからこそ。
あのような句が。
蝉吟の思いが。
この身にしみ入って来たのかもしれない。
「……行きましょう」
旅はつづく。
俳諧を作る道はつづく。
今、ひとつの境地を迎えたとて、また次の何かがあるかもしれない。
蝉は鳴きつづける。
その命、尽きるまで。
「蝉吟どの……」
曾良が書き物を片づけたのを見て、芭蕉は杖を握った。
立ち上がった曾良は問いかける。
「蝉吟どの、とは」
芭蕉は微笑む。
「道すがら、話しましょう」
……蝉が鳴いていた。
【了】
その言葉に意味を足したい 〜蝉吟(せんぎん)〜 四谷軒 @gyro
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