フランス革命の一エピソードに「理性の祭典」というものがある。
フランス王権と深く結びついていたカトリックの宗教制度を否定し、フランス国民の精神を「解放する」という趣旨で行われた「祭典」だが。
この「祭典」と称する「お祭り騒ぎ」を演出したのは、王室や上流階級に対する暴露記事や低俗なゴシップを撒き散らすのを得意とするエベールという男だった。
エベールによる革命裁判での王妃マリー・アントワネットへのあまりに低俗な告発に激怒した革命指導者ロベスピエールは、還俗僧ジョゼフ・フーシェを起用して、そのエベールを追い詰めることを決意する。
信仰、人間の「生」というものへの確信、霊魂の存在についての確信。
人間がだれしも多かれ少なかれ持っているはずの、そういう素朴な信仰心。
それが「宗教」という制度にまとめられ、「教会」という仕組みを通じて、「国民」の精神を支配し、ひいては市民から浮き上がった「王権」というものを正統化してきた。
その「狂信」を、本来の自由な信仰に引き戻すことが革命の目的だったはずだが。
人を「狂信」から引き戻す。そのための手段がまた「狂信」を生み出してしまい、それがまた新たな政治権力に利用される。たぶん、王権とカトリックの結びつき以上の、激しい、洗練されないかたちをとって。
しかも、そういう動きを理解しているはずの指導者さえ、その「狂信」をめぐる構造にとらわれてしまう。
そういう経験を、フランス革命以後、人類は、さまざまな時代に、さまざまな場所で繰り返してきた。現在も、たぶん、繰り返しつつある。
だから「理性の祭典」で沸騰した熱は、たぶん、いまも去らずに人類をとらえ続けている。
この小説はそれを正面から論じると言うよりは、フランス革命に関与したさまざまな人びとの個性の交錯を通じて描いている。
突っ走るゴシップ屋と、あくまで冷たい目で時代を見る策謀家と。
本作は、それを通じて(フランス革命に限らず)革命の時代の本質の一面を見通す小説である。