02 芭蕉
芭蕉にとっての、青春が終わった。
藤堂良忠という人物は、松尾芭蕉という人物の人生において、それだけの重きをなしていた。
単に、主君というだけではない。士分への道筋のとっかかりというだけではない。
何よりも、共に京へ行き、学び、そして遊んだ仲だった。
主従という枠を超え、俳諧の友であり、好敵手であった。
「……良忠さま」
藤堂家から
「でも、今思えば」
芭蕉は良忠の遺髪を高野山へ運ぶ一行に加わって歩きながら、思った。
「士分に取り立てなかったのも、私に生きろ、という意味では」
そうはいっても、今となっては、良忠の意思を確かめようもない。
今、良忠はその
物言わぬ身だ、何も
「あたかも……良忠さま自身がたとえた、八日目の蝉のように。もはや、その鳴き声は聞こえない。言葉は発せられない。だとしたら」
だとしたら、どうすれば良いのだ。
生者は、死者の鳴き声を、言葉をどう聞けばいい。どう意味を読み取ればいい。
物言わぬ者の残した、その言葉を。
それは、こうして今、黙々と高野山を歩む中の、この静かさに飲み込まれ、消えてしまうという
「……あゝ」
これもまた、鳴き声か。
同行の藤堂家の者は、芭蕉が感極まったとでも思ったのか、特に指摘もせず、それを黙殺した。
それはまるで。
「良忠さまの……蝉の、吟ずる声のように、言葉のように」
無意味なのか。
そうなのか。
「…………」
その答えが見出せないまま、芭蕉は高野山を歩んだ。
*
それから。
江戸に出た芭蕉は、良忠と共に学んだ俳諧の才を開花させ、まず桃青と号し、ついで
「だが結局のところ、どのような俳諧を――声を出せば良いのか。鳴けば良いのか」
判然としない。
何となく、曖昧模糊とした「行き先」は見えているような気がしたが。
「滑稽な俳諧も良い。だがそれだけでなく……もっとこう……蝉の鳴く賑やかさだけでなく、七日七晩鳴いたあとの、蝉のような……そういう、哀しいというか、何というか、そういうのを……」
江戸で俳諧師としていくばくかの名声を得た。
だがそれが、何になろう。
それこそ、蝉の鳴き声と同じだ。
多少は耳に残る。
それだけだ。
「良忠さま……」
芭蕉は無性に、かつての主君に会いたく思った。
でもそれは、今となってはかなわない。
「いや」
一度、伊賀に帰ろう。
思えば、母の墓参もしていない。
それに、この
また、それだけではなく。
「こういう……旅に出て、旅に行くことこそが、目指す俳諧の『行き先』に近づくことかと思う」
そうだ、という声が、どこかから聞こえた気がした。
*
江戸から伊賀、伊賀から江戸と旅して、芭蕉は何か変わった。
表面上は何か変わったということはないが、内面で、何かが変わった。
あるいは、元々持っていたものが、表に出ようとしている……そんな感覚だった。
伊賀で母の墓参を終え、次いで、旧主・良忠の冥福を祈ったが、特に故人が夢枕に立つということはなく、それよりも、俳諧について考え、悩み、そうしている時に、聞こえるものがあり、そうして何かが変わっていくのだ。
「……それにしても」
今、江戸の家にいながら、芭蕉は回想する。
旅はいいものだった。
徳川家康により天下統一がなされ、七十年あまり。
家康の江戸幕府の
野盗、偸盗のたぐいはいるが、それでも、合戦に巻き込まれるということは無い。
「今こそ、この国を旅するべきではないか。この天下泰平の世だからこそ、旅をして、俳諧に何か新しき風を吹き込む時ではないか」
その時。
急に、物思いにふける芭蕉の耳に、音が響いた。
ぽちゃん。
庭の池に蛙が飛び込んだ音だろうか。
そうでないかもしれない。
そして、今となっては
庭に出れば、何故そんな音が生じたのか、あるいは池に泳ぐ蛙を見て、ああそういうことかとわかるかもしれない。
「古池や」
「いや」
何というか、率直に過ぎる。
もっとこう、音のことを、強調することにより……今のこの、
「そうだ」
古池や 蛙飛び込む 水の音
これなら。
これなら……飛び込むその瞬間を。あるいはその直後を。
「この句を見たものの頭に……」
そこまで言って、考えた。
一体、自分はこの句で、何を表現したかったんだろう。
あの、一瞬で。
何を。
それこそが。
「良忠さまの、もしくはこの芭蕉の、『行き先』を指し示すものでは」
芭蕉はまた、旅に出ることにした。
今の、境地。
それを知るためには、旅は必要不可欠。
そう思ったからである。
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