7.準備

 別居時に持ち出すもの。

 自分の貯金通帳、カード、届出印。実印、銀行印、印鑑証明カード、健康保険証、マイナンバーカード。知人・友人の連絡先。夫の源泉徴収票。不動産権利書のコピー。生命保険証券のコピー。夫の通帳、株券のコピー。それから、興信所の調査報告書。


 一つ一つ確認してバッグに入れる。

 準備はとても大変だった。母に手伝ってもらえて、ほんとうにたすかった。

「それで、戸籍はどうすることにしたの?」

 母が言う。今日は、有休をとって、母と別居の最終的な準備をしていた。

「悠と同じ姓にしたいから、旧姓に戻ってわたしが筆頭者になって新しい戸籍を作ることにしたよ」

「そう。それがいいね」

「うん。――ねえ、しばらく実家に置かせてくれるのOKしてくれて、ありがとう」

「当たり前じゃない! ずっといていいのよ」

「ううん。わたし、ちゃんと自分の足で歩いて行きたいから、離婚が正式に決まったら、ちゃんと住むところ見つけるよ」

「……どうしてこう、しっかり者に育ったんだろうねえ」

 母が笑って言った。

「お母さんの教育の成果じゃない?」

 わたしも笑って答える。

「うん、そうかも。……困ったらいつでも頼っておいで」

「充分頼っているよ」



 わたしは数年過ごした家を見回した。

 結婚してすぐに妊娠して、ゆうが生まれて。

 悠が一歳のときに家を買って。

 ――もっと長く住むつもりだったんだけどな。仕方がないね。

 ソファが目に入る。

 どうしても、あの日の光景が蘇ってしまい、胸が苦しくなる。

 ……もっと、なんとか出来なかったのかな、わたし。もっと頑張れたかもしれないのに。悠から父親を奪ってしまうことにならないように。



「そろそろ、悠のお迎えの時間じゃない?」

「あ、ほんとだ。……行ってくるね」

「しのぶ。……しのぶのせいじゃないよ。それから、しのぶが充分頑張っていたことを、わたしは知っているからね」

「お母さん」

 ときどき、母はこういうふうにテレパシーでもあるのかという発言をした。

「それに、悠が言ったんでしょ? 『ぱぱはいつもいないじゃん!』って。それが全てだよ。浩之さんは、悠よりも浮気女を優先させたんだよ。忘れたら駄目だよ」

「うん、お母さん……!」

 わたしは母に抱きついた。


 久しぶりだ。

 母にぎゅっとしてもらうこと。

 母は優しく髪を撫で、「しのぶは充分頑張ったし、何も悪くないよ」と言った。

 ありがとう、お母さん。



 保育園にお迎えに行くと、マナに会った。

「マナ! ……ごめん、ちょっと話せる? いつもの公園で」

「いいわよ」

 マナにこれまでのことを話した。

「そっかあ。離婚かあ」

「うん」

「いいと思うよ!」

 マナはにっと笑って、続けて「実はね、ずっと前から離婚するといいのにって思っていたの」と言った。

「え?」

「だってさー、しのぶ、あまりにも一人で育児し過ぎだもん。あんな旦那さんじゃ、この先もっと大変だよ。しのぶ、安定した職業だし、離婚した方がいいのになあって、ずっと思ってたんだ」

「そんなふうに思われていたなんて、全然わからなかったよ」

「言えないじゃん」

「そうだね」


「何かあったら言って! 力になるよ!」

「うん、ありがとう。……悠が不安定になることが心配かなあ」

「そうだね。気にしておくね。……でも、大丈夫じゃないかなあ」

「そう?」

「だってまず、おばあちゃんちに行くんでしょう」

「うん。ちょっと遠くなるけど、安心だから」

「おばあちゃんもおじいちゃんも大好きなんでしょう」

「うん、すごく!」

「何より、『ぱぱはいつもいないじゃん!』って台詞がね、泣かせるよね。……すっきりするんじゃない?」

「……そうかも」


 わたしは、悟と仲良く遊ぶ悠を見た。元気な笑顔だった。ここんとこ、たぶん、わたしはいつもと違った。だけど、悠はいつも明るくわたしのそばにいて、わたしを支えてくれていた。存在そのものが癒しだった。


「あのね。弁護士さんがね、小さい頃に遊んだ子だったって話したじゃない?」

「うん」

「その弁護士さんに――斗真とうまくんに、言われたの。わたしが幸せになることが一番だって。相手を憎んだり相手の不幸を願ったりするより、わたしが毎日笑っていられるのが一番いいって」

「いいこと言うじゃない! それが最大の復讐じゃない?」

「うん、そうだね」

 ベンチにマナと並んで座り、悠と悟を見る。今は二人で、砂場で遊んでいた。


「ねえ、その弁護士さん、いくつ?」

「二十七だよ。五つ下なの」

「かっこいい?」

「うん、イケメンだと思う」

「ふふふふ」

「何笑ってんの?」

「だって、いいなあって思って。まあ、もうすぐ元がつく旦那は、ちょっと失敗しちゃったけど、いいじゃない、イケメン弁護士と会えて。しかも、幼なじみみたいなものでしょう?」

「でも、二十年くらい会っていなかったから、幼なじみじゃないんじゃない? あ、でも、向こうはわたしのこと、知っていたみたい」

「どういうこと?」

「母親同士が親友だからね、どうもわたしの写真をことあるごとに見せていたらしいのよ」

「あらあらあら」

「でもそれだけだよ。――まずは、離婚しなくちゃ! ちゃんと。まずは、そこ!」

「……そうだね。茶化して、ごめん」

「ううん、いいの。明るい気持ちになるから」

 マナと笑い合う。


 よかった。

 わたしは、旦那はちょっと失敗したけど、友だちには恵まれている。両親にも。

「ままー!」

 悠が駆けて来る。

 子どもにも、恵まれている。

 悠を抱きとめる。

 この重みとあたたかさ。


 ――守ってあげたい。

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