8.話し合い
今日は離婚の話し合いの日。
弁護士事務所の相談室に、夫の浩之とその不倫相手、木下
「しのぶ……」
浩之に名前を呼ばれる。この人は、こんな顔をしていただろうか。
「しのぶ、別れるなんて言わないで欲しい。……ただの浮気なんだ。許して欲しい」
浩之がそう言うと、紗菜がきっと浩之を睨んで言った。
「何よ! あたしと結婚してくれるって言ってくれたじゃない!」
「まあ、それは誰でも言うだろう。俺が結婚しているのを知っていてつきあって欲しいと言って来たのは君じゃないか」
「ひどい! 五年もつきあったのに! あたし、処女だったのに‼」
目の前で女は叫んで泣き、男はうんざりしているように見えた。この男が、わたしの夫なのだ、ということが遠い現実のようだった。
「すみません。しのぶさんと浩之さんの離婚の話し合いをさせていただいてよろしいでしょうか?」
斗真が言い、話し合いが始まった。
慰謝料の話でまた紗菜が泣き喚き、「お二人への請求ですよ」と斗真が言うと、「じゃあ、浩之が払ってよ! あたし、そんなお金ないもん!」と紗菜はヒステリックに言った。「だいたい、なんで払わなきゃいけないのよ! あたし、好きになっちゃっただけだもん!」
「……既婚者との性的関係は『好きになっちゃっただけ』ではすみませんよ。不倫期間も長いですし、精神的苦痛に対する損害賠償です」
紗菜は不満そうに口を閉じ、浩之は舌打ちをした。
浩之はこの女のどこがよかったのだろう?
わたしは悲しい気持ちで二人を見つめた。
財産分与や養育費の話は、紗菜を帰してから行われた。
浩之はしぶしぶながらも、婚姻費用や財産分与、養育費について、こちらの主張をほぼ認めた。あまりふっかけなかったのがよかったのだろう、とあとで斗真は言っていた。浩之も相場というものを調べて来ていたのだと思う。
「……なあ、本当に離婚するのか?」
途中で、浩之がそう言った。見たことのない、真剣な目だった。
「うん」
「本当にやり直せないのか?」
「――悠がね、『ぱぱはいつもいないじゃん!』って言ったのよ。どういう意味か、わかる? それに、わたし、あなたと紗菜さんがしているところを見ちゃったの。家のリビングで。……無理よ」
「……そうか。――こんなつもりじゃなかったんだけどな」
じゃあ、どんなつもりだったの? と聞こうとして止めた。
もちろん、わたしもこんなつもりじゃなかった。幸せな家庭を築くつもりだった。こんなに早く離婚するとも思っていなかった。
「悠とは会いたい。――息子だから」
「そうね」
「では、面会交流についても決めましょう」
「頼む」
気の遠くなりそうなほどたくさんのことを、一つ一つ細かく決めて行く。
離婚協議書や公正証書などの書類の作成が終わり、最後、離婚届に署名捺印をした。証人の署名捺印は既に済ませてあった。母とマナが書いてくれていた。
「いつか」
「え?」
「いつか、家族旅行に行こうと思っていたんだ」と浩之が言った。
「……いつか、は、もう来ないわ」
「……そうだな。じゃ」
「――さようなら」
すぐに離婚届を出してすっきりしたあと、つきそってくれた斗真が言った。
「ごはんでも食べに行かない? 僕、仕事終わりだし」
「行く」
気づけば、ものすごくお腹が空いていた。
「……ありがとう、斗真くん」
「斗真でいいよ。くんなんて、なんか恥ずかしいから」
「ふふ。じゃあ、わたしもしのぶ、で。もう、ちゃんっていう年じゃないよ。――なんか、力抜けちゃった」
「これからやることも多いよ」
「銀行行って、名前変更したり」
「そうそう」
「運転免許証の名前も変えなくちゃいけないし」
「住民票も異動させないとね」
「……めんどくさいね。でもやっぱり、すっきりかな!」
ごはんを食べながら、わたしは斗真と昔話に花を咲かせた。
小学校一年生だった斗真を思い出す。悠はその斗真に近い年齢だ。悠もいつか、斗真みたいに大人になるんだ。――全く想像出来ないけれど。
わたしの後ろをとことこついてきていた子が、いきなり大人になって、しかも頼りになる人として、わたしの前に現れた。
なんか、変な感じ。
「何笑ってんの?」
気づいたら笑っていたみたいで、そう言われる。
「変な感じがするなあって思って」
「変な感じって?」
「だって、わたし、まだ、小学校一年生だった斗真くん――斗真のこと、覚えているもん。かわいかったな。悠みたいに。ま、悠の方がかわいいけど」
斗真が「悠くんは確かにかわいいよね」と言って、笑う。――なんか安心する。離婚届出したからかな? なんだかものすごく、ほっとした気持ちになった。
こんなふうな食事も久しぶり。
のんびりと会話を楽しみながら、食べる。
最近、浩之とこんなふうに食事をしたことなかったな。夜はいっしょに食べなくなっていたし、朝も慌ただしくて。
そもそも、悠が生まれてから、ごはんもまともに食べられなかったなあ、と思う。
最近はきちんと座って食べてくれるようになったけど、ずっと悠に食べさせるのに精いっぱいで、わたしは座って食べられなかった。浩之は一緒に食べるときも、少しも手伝ってくれなかった。そして、悠のことで手一杯だったわたしには会話を楽しむ余裕もなくて。そうして、いつの間にか会話を楽しみながらの食事から、遠ざかっていた。
「……どうしたの?」
瞬間過去に戻っていたわたしに、心配そうに斗真が言う。
「なんでもない。――ごはん、おいしいね」
――忘れていこう、少しずつでも。
悠の出来ることもどんどん増えている。悠はもうちゃんと座って食べられる。
斗真とはこうして、おしゃべりを楽しみながら食べられる。もちろん、両親とも、マナや他の友だちとも。
食事って、楽しいんだね。笑顔とともにある。
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