3.再会と、調査報告書

 母に「月曜日、予約しておいたよ」と言われ、わたしはゆうをそのまま実家に預け、弁護士事務所に行くことにした。夫には日曜に「旅行のあと、そのまま実家に行って泊まることにしたけど、いいかな?」とLINEをしたら、快く「いいよ」という返事が来た。これまでも実家にはちょくちょく泊まりに来ていたので、違和感はないはずだった。――浮気相手は月曜日までいるのかもしれない、と思ったら黒い気持ちがせり上げて来たけれど、まずは弁護士! と、気持ちをぎゅっと抑え、弁護士事務所に向かった。


 弁護士事務所に行き、相談室のようなところに通される。しばらく待つと、長身の男性が入ってきた。

「久しぶり、しのぶちゃん」

「……斗真とうまくん?」

 面影はあった。記憶の中の小さい男の子。

 でも、目の前にいるのは、記憶の中のかわいい男の子ではなく、整った顔をした大人の男の人で、スーツもよく似合っていて、なんとなくどきどきしてしまった。

 名刺を受け取り、それから相談に入る。



「――なるほど。旅行が取り止めになって自宅に帰ったら、女の人がいてご主人との現場を見てしまった、ということですね?」

 斗真はたんたんと話を進めていった。わたしも、「小さい頃に遊んだ斗真くん」ではなく、一人の弁護士として彼と対峙した。

「……はい」

「しかし、写真は撮らず証拠は残せなかったし、今のところ確認したのは、その一回だけなんですね」

「でも、初めての浮気を家でするとは思えないんです! 自宅まで呼ぶって、きっともう長いんだと思うんです。……夫は、気軽に家に人を呼ぶタイプではないんです。それにこうなってみると、これまで、『出張』や『残業』や『休日出勤』と言っていたことが、みんなあやしく思えてきて……」


「なるほど。……では、まずはきちんと調べてみませんか? 結論はそれからでも構わないと思います」

「え?」

「興信所を使いましょう。素人ですと、やはり限界もありますし。……実は、美咲みさきさん――お母さまから、お金の心配はしなくていいからきちんとやるよう、伝言を頂いているのです」

「お母さんが?」

「……随分、怒っていらっしゃったようです」

 と、斗真は言って、わたしの顔をじっと見た。そして、「お母さまも怒っていらっしゃいましたし、実は私の母も怒っていました」と、少し笑いながら言った。


 斗真の顔を見ていたら、少しずつ心の中の重いものが軽くなるような気がした。

「そう、怒っていたのね」

 ふっと笑いが込み上げた。

「大切な娘さんですからね。……どうされますか?」

「では、調べることにします。その上でどうするか、考えます」

 斗真はにこりと笑うと、「ではそうしましょう」と言い、事務的な話を始めた。



「はっきりするまでは、いつも通り生活した方がいい」とのアドバイスに従い、月曜の夕方には自宅に戻った。そして家中を掃除した。ソファは特に念入りに掃除をして、気持ちが悪いので布をかけることにした。寝室のシーツも洗った。


「ソファに布をかけたの?」

 夜遅くに帰って来た浩之は言った。帰宅はたいてい十時を回っていて、それが当たり前だと思っていたから、疑問も持たずにいた。夜ごはんはたいてい外で済ませてきていた。わたしは、自分の仕事のことも悠のこともあるから、外で食べてきてくれるとたすかる、と思っていたけど、この人はずっと外で誰と食べてきていたのだろう?


「うん、気分転換に」

「いいんじゃない?」

 浩之はそう言うと、さっさと浴室へ向かった。

 思えば、浩之と接する時間はとても短かった。帰宅後の三十分くらいと朝の三十分くらい。休日は寝ているか「休日出勤」のどちらかだった。家族で出かけたことなど、数えるほどしかなかった。悠も父親と会う時間がとても短かった。もっと小さい頃は、浩之の顔を見ると「知らない人」だと思って泣いたものだった。


 ずっと仕事だから、と思っていたけれど……女と会っていたのだろうか。わたしに全てを押し付けて。

「じゃあ、先に寝るね」

 朝が早いので、わたしはいつも浩之より先に寝た。十一時過ぎには眠らないと、翌日うまく動けないのだ。いつものようにベッドに入ったけれど、なかなか寝つけなかった。

 


 興信所の報告書を見たら、真っ黒だった。

 実家に送ってもらったそれは、母といっしょに見ることにしていた。

 読みながら、手が震えた。

 相手の女は、同じ会社の女性で、名前を木下紗菜さなと言った。写真を見ると、若くてかわいらしい子だった。なんと、悠が生まれた年くらいからつきあっていて、つまり新卒で入った彼女と五年もつきあっていることがわかった。会社でも噂になっているらしく、少し調べたらすぐにわかったらしい。


「……わたし、全然気づかなかった。……五年も?」

 でもそういえば、悠を産んだあとから、ずっとセックスレスだった。

 わたし自身、子育ての疲れや夜泣きによる寝不足から、そんな気持ちになれなくて、気づいたら五年経っていた。

「わたし……わたしが悪かったのかな」

 夫の浮気に気づかないのも、セックスレスでなんとも思っていなかったのも、ものすごく不自然であるように思った。浩之のことをもっと見ていれば、違ったかもしれない。


「しのぶ。浮気する方が悪いに決まっているよ」

「でも。浩之さんに目が向いていなかったから……」

「だけど、あなた、一人で子育てしていたじゃない。そりゃ、ときどきはわたしたちを頼ってくれたけど。でも、基本的に一人でやっていたでしょう? しかも、育休のあとはフルタイムで働きながら」

「……うん」


 無我夢中だった、この五年間。

 仕事しかしない夫。「忙しいんだ」「疲れているんだ」と言われ、さらに「俺の方が稼いでいるから」と言われ、なんとなく家事も育児も自分がやることが当たり前だと思って、そうしてきた。毎日、少しも休む暇なんてなかった。

「わたしはね、しのぶがあんまり一人で頑張っているから、倒れやしないかと心配だったんだよ、ずっと」

「お母さん」

「……これを読んで、どうするかよく考えなさい」

「うん」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る