第30話 暴力嫌い

「オラッ! 林太郎りんたろう! 妹たちが観戦しに来てんだぞ! 気合い入れて兄貴としていいとこ見せろ!」

「ッシャァアアア!」


 7月上旬、林太郎が通うボクシングジムで彼に行われているスパーリングを見学するという形で凛香りんかゆきあきらが兄についてきていた。

 リングそばの長いベンチに明を中心にして右側に凛香、左側に雪が座って観戦していた。


「明ちゃんは結構来てるんだよね? 確か兄さんの相手はプロだって聞いてるけど」

「ちゃん付けはやめろって言ってるじゃねえか。まぁいいや。確かにプロって言えばプロだけど4回戦C級っていう下の方らしいよ。

 それでもプロだけあってアニキにとっては十分手ごわい相手だとは聞いてるけど」


 雪はボクシングジムで見学している回数が5人姉妹の中では1番多い明からの解説を聞いていた、その時だった。



バゴォッ!



 林太郎のボディに一際強烈なフックが入る。身体を守るプロテクターを着けているため致命的なケガにはならないが、姿勢が大きく崩れる。

 トレーナーのハゲおやじがそれを見てスパーリングを止めさせる。


「林太郎! 今のは防げたはずだぞ! 防げる攻撃は確実に防がないと体力を奪われるぞ!」

「は、はい!」

「じゃあ続きだ。始めてくれ!」


 練習が再開された。


「……」


 雪は兄の様子をずっと見ていたが、落ち着きがなくソワソワしていた。それを見ていた凛香が彼女にどうしたのか? と声をかけてくる。


「雪、どうしたの? そんなソワソワしちゃって」

「凛香姉さん、いや、その……練習とはいえ兄さんが殴られるところを見るのは嫌だなぁ。何だか私も一緒に殴られるような気分になっちゃう」

雪姉ゆきねぇは心配性だなぁ。勝てる試合でも1発や2発はもらうもんだろ? いちいち気にしてたら観戦なんて出来ないぜ?」

「明は大丈夫かもしれないけど私には刺激が強すぎるなぁ……兄さんが殴られてるところ見てるとこっちまで痛そうに感じちゃうから」

「ふーん。でもアニキと付き合ってるんだろ? その内プロになって試合に出るようになったら応援しに行くだろうから、今のうちに慣れた方が良いんじゃないのか?」

「そ、そうよね……慣れるかどうかわからないけど」


 雪は林太郎の彼女として付き合いが始まったのだが、暴力沙汰ぼうりょくさたは嫌いだった。もちろんそれを差し引いても彼の事が好きだったが。

 引き続きスパーリングの観戦をしていると……。



バシィッ!



「あ、当たった」


 林太郎のストレートがスパーリング相手の顔に当たった。

 彼のパンチは相手からしたら軌道が読めているのか、大抵はかわされるかガードされるかのどちらかで、しっかりと当たるのは比較的珍しい。

 だが直後……。



ドゴォッ!



 強烈なカウンターが林太郎の顔面を直撃した。彼の姿勢がぐらりと崩れ、リングに尻もちをついてしまった。


「!!」


 雪は思わず目を手で覆い隠してしまう。


「ストップ! ストップだ!」 


 トレーナーのハゲおやじがそれを見て再びスパーリングを止めさせる。


「林太郎! お前ここ最近のスパーリングでカウンターを結構食らってるな? フェイントも使え。フェイントで相手を誘い出せ。相手の姿勢を崩せば攻撃のチャンスはつかめるぞ。

 それと、視野を広く持て。攻撃する自分の手だけを見ていると視覚外からパンチをもらう事になるぞ。カウンターは食らうとダメージがデカいから気をつけろよ」

「は、はい!」

「じゃあ続きだ。始めてくれ!」


 練習が再開された。

 カウンターというのは「意識の外から不意打ちで食らう」物がほとんどだ。来ると分かってるパンチはどれだけ威力があろうとも案外耐えられるが、

「来ている事に気づいていないパンチによる不意打ちの1撃」はプロのボクサーであっても当たり所によっては失神してしまう事もある。


「……」


 明に愚痴をこぼす雪とは対称的に、凛香は兄のスパーリングをじっと見ていた。彼女の目には殴られてばかりだが生き生きとしている林太郎の姿が映っていた。


「……カッコいいな。お兄ちゃん」


 ぼそりと、口から漏らすように気づいたらそう言っていた。




「!? お、オイ凛姉りんねぇ! さっき何て言った!?」

「!? なっ! 明、聞いてたの!?」

「聞いてたけど詳しくは分かんないなー。確か『お兄ちゃん』がどうのこうのとか。凛姉りんねぇがアニキに向かってそう言うの初めてじゃねえの?」

「……来て」


 凛香は黙って立ち上がり、明を連れてジムの入り口まで行く。そして財布から500円硬貨を取り出し、明に渡す。


「絶対に口外しない事。他の姉さんやお父さんお母さんにも絶対に言わない事。守れるよね?」

「あ、ああ。分かった」


 明はいわゆる『口止め料』だと分かった上で受け取った。

 何であんな奴に……凛香はあんな奴に「お兄ちゃん」と言ってしまう自分の口と自分自身が信じられなかった。

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