第12話 訊きたいことが多過ぎて。
「君、このあと時間はある?」
「とくに予定はないですよ」
なにしろ真夜中ですから、と答えないくらいの分別はマリアニージャも持ち合わせている。
エヴグラーレ子爵は好意的だし、たぶん、一度は命を助けて貰っている。そもそも雇い主との関係は良好な方が良い。
空を飛んでいたことや、痛みを感じない性質なんてものすごく変だ。シュリケンの傷も気になる。あれはうっかり刺さるようなものではない。武器だ。つまり、誰かに攻撃されたということになる。
そもそも、口利き屋で『便宜上の妻』を募集するところから、エヴグラーレ子爵は普通とは言えまい。
が。
ヴァジム・エヴグラーレ子爵が好意的に考えても怪しい人であっても、迎合しておくほうがいい。
ぎりぎり、犯罪者でないなら良いことにした。マティアスの言葉を信じるしかないが、ある程度、信頼しないことには一緒に仕事なんかできない。
アルマ伯爵家の困窮は本物だ。普通だとか常識だとか、そういうものに囚われる余裕は去年捨てた。
現状打破。
そのためなら魔王の力だって借りたらいい。貸してくれるならだけど。
三年間の生活苦は、ごく平凡な貴族令嬢だったマリアニージャの価値観を根底から塗り替えてしまっていた。
「じゃあ、私の部屋で話そう」
エヴグラーレ子爵は言って屋根を越え、三階のバルコニーに降り立った。主寝室も夫婦それぞれの寝室にもバルコニーはない。庭を眺められるバルコニーがあるのは主の私的な書斎だ。
エヴグラーレ子爵は掃き出し窓を開けた。招かれるまま、マリアニージャは『夫』の書斎に入った。
書棚がひとつと一人掛けのソファとティーテーブル、それに大きめのカウチがあるだけの広々とした部屋には執事が待ち受けていた。
「おかえりなさいませ、旦那様」
「戻ったよ、マティアス。悪いけど、お茶の支度をしてくれるかな。彼女のため……」
言い終わるより先、マリアニージャを見返ったエヴグラーレ子爵が目を丸くした。
マリアニージャも自分を見た。
「君! それ! 怪我しちゃってたのかい!」
マリアニージャの足首まですっぽりいってる長い寝間着の裾から腰のあたりまで、赤黒いもので濡れている。左手に持ったままのシュリケンも血まみれなので、全体的に血だらけだ。
自分の血ではないけれど、傍目には酷いものだろう。子爵も執事も絶句している。
「違います。止血する布がなかったので、わたくしの寝間着を使いました。怪我をしているのは旦那様です。手当をしなくてはなりません」
「僕? 僕ならもう大丈夫だよ。見るかい?」
子爵は片足を持ち上げて、カウチの手すりに引っ掛けるように置いた。ぱかっと股を開いて、内腿を見せる。
トラウザーズは裂けて破れ、血染みもある。が、穴から覗いている白い肌は無傷だ。
まったくきれいに、傷跡もない。
「……うん? なんで?」
うっかり声に出た。
子爵の太腿には、ミミズぐちょぐちょに投げ落としたシュリケンが刺さっていた。結構がっつり肉を抉っていたのだ。上手く止血できたとしても、さっきの傷が消えるはずがない。
「君が手当してくれたからかな。マーリアちゃんは活きがいいね」
「たしかにわたくしはぴちぴちですが、それとこれとは話が違いますよね?」
「どうだろう。そう遠い話じゃないかもしれないよ」
エヴグラーレ子爵の声は笑いを含んでいる。揶揄われているようで感じが悪い。
マリアニージャは「左様でございますか」と、貴族夫人らしく返事をすることにした。大変理性的な対応である。
子爵はカウチに片足を引っ掛け、大股を開いた状態で顎に指先を添えて首を傾げた。背中をちょっと丸くして内腿を覗き込むマリアニージャのつむじあたりを見ているようだ。
唐突に、マリアニージャは恥ずかしさを感じた。
署名したから相手は『夫』だが、男性の内腿に頭を突っ込むのはいかがなものか。とりあえず、令嬢しぐさではないのは確かだ。
「あの! 旦那様! いくつかお伺いしたいことが!」
「何かな、『奥様』?」
恥ずかしさを振り切るために勢いよく顔を上げると、思ったより近いところで目があった。ルビーみたいな真っ赤な瞳は輝いているみたいに思えた。
エヴグラーレ子爵のさらさらの銀髪は思ったより長く、前髪が幾筋か顔にかかっている。横はすっきりしているので、後ろでひとまとめにして結んであるようだ。肩にも流れていて、とてもきれいだ。
イリリア貴族としてはふくよかさが足りてないけれども、とても美しい男性である。
だが。
「そのマスクは取れない仕様なのですか?」
「あ」
バサついた睫毛をぱちぱち瞬かせた子爵が明るく笑った。
「すっかり忘れてたよ」
エヴグラーレ子爵はバタフライマスクを摘んで外し、マティアスに手渡した。
「改めて。ヴァジム・エヴグラーレだよ。よろしくね、マーリアちゃん」
「マリアニージャ・ゾラ・エヴグラーレです。続いていくつか質問があります」
「いいとも。どうぞ?」
子爵は足を下ろし、マリアニージャの手を取ってカウチに座らせた。後、自分は一人掛けのソファに腰を下ろす。軽く開いた膝に肘を引っ掛けて、やや前傾姿勢。マリアニージャと話をするよという態度だ。
マスクをとった子爵の表情はとても柔和で、予想通りの美形だった。
平民風に砕けて言うなら、とてもおイケていらっしゃる。イケメン。ハンサム。そういうやつだ。
もうちょっと、顎のまわりがふくよかなら最高なのにな、と、貴族育ちのマリアニージャは思う。没落伯爵家の令嬢とはいえ、美的感覚はなかなか没落しないらしい。
閑話。そうじゃない。
マリアニージャは気を取り直した。気になることはいくつもあるが、答えて貰えるかどうかわからない。優先順位をつけなくてはならない。訊きたいことが多すぎる!
「旦那様は空を飛べるんですか?」
「うん。飛べるよ」
「どうして?」
「魔法と思ってくれていいよ」
「空を飛べる魔法があるなんて知りませんでした」
「良かったね。新しい知識だ」
「旦那様は悪人ですか?」
「悪人ではないかな。たぶん。心当たりがないし」
「吸血鬼は本当にいるんですか?」
「いるよ。いるから狩る仕事がある」
それはそうだ。
獣と狩人なら獣が先で狩人が後。当たり前。獲物がいないのに狩る仕事なんかありえない。口利き屋に確認するまでもない。つまり、質問の無駄撃ち。
「じゃあ、僕も訊いていいかな」
エヴグラーレ子爵はマリアニージャにカップをすすめて、にっこり笑った。
ちゃっかりマリアニージャのドキドキ『契約』新婚生活〜まだ旦那様には会えていません 築地シナココ @shinacoco
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