第8話 美味しすぎるお仕事(実感編)
とろとろに煮込まれた豆のスープ。柔らかなパン。軽くソテーしたブレストハム。卵は好みを聞かれたので、柔らかめのオムレツにしてもらった。りんごのコンポートまであった。最高の朝食メニューである。
ラドム料理長は天才だと、マリアニージャは感動に震えた。
まだ二度目の食事だが、とてもおいしい。すばらしい。最高だ。思わずハムとオムレツをもう一皿ずつ頼んでしまったくらいだ。
「食べ過ぎてしまったわ」
「奥様が健やかにお過ごしになることは旦那様のお望みです。どんどんお召し上がりください」
食事の後、二階の家政室に場所を移したところでマティアスが言った。イリリア貴族の夫人の執務室を家政室と呼ぶ。当主夫人の書斎という方がわかりやすい。今後、マリアニージャが一番使う部屋だろう。
昨晩はよく寝てしまった。
謎の紳士がどこに消えたのか。
この屋敷に入ったと考えるのが順当だが、そんなことがあるだろうか。
そんなことをぐるぐる考えているうちに寝落ちしてしまったのだ。ふかふかのベッドの魔力もあっただろう。耐乏生活に疲れていたマリアニージャには休息が必要だったのは間違いない。
ともかく、今朝はもうすっかり元気だ。朝食もたっぷり食べた。マリアニージャは準備万端である。
どんな仕事でもこなしてやろうという気構えだ。
だがそのまえに。
「マティアス。旦那様にご挨拶をしたいのだけれど」
家政室のソファセットのうち、窓と執務机を背にした一人掛けの席がマリアニージャのものだ。左側の長椅子席に座り、書類挟みを開いたマティアスがマリアニージャを見た。
「旦那様は昨晩遅くにお戻りで、おやすみになっていらっしゃいます」
頭を過ぎるのはもちろん、仮面の紳士だ。黒マントとフルート付き。大きな翼の鳥みたいに、屋根に降り立っていた。
「毎晩遅いお仕事なんて、大変ね。わたくしが旦那様のお仕事について聞くのは契約違反かしら?」
「そのようにお考えになっていただければ幸いです、奥様」
マティアスにそう言われてしまえば仕方がない。
マリアニージャは軽く顎で頷いて、差し出された書類を受け取った。
職業子爵夫人である。本当に夫となったひとの仕事を知らないのはさすがに我慢できないが、仕事上のつきあいなら別だ。
ただ、ひとつだけ気掛かりはある。
「……悪いこと、たとえば犯罪に関わっているわけではないのよね? どれだけ困窮しようとも、わたくし、悪事の片棒担ぎはいたしません」
書類に目を通す前に、マティアスをじっと見つめてそう言った。
「ご安心ください」
執事は柔和な笑みのままだ。
「わかりました」
あの紳士がヴァジム・エヴグラーレ子爵なら、少なくとも惨殺事件の犯人ではない。まずはそれだけでよしとしよう。
マリアニージャは改めて受け取った書類を見た。
イリリア国章入りの正式書式は正副二枚、結婚証書だ。エヴグラーレ子爵の署名は済んでいた。
ここにマリアニージャが署名したら結婚は成立だ。
貴族家の当主と嫡子の結婚には王家または主家である公爵家の許可が必要だが、伯爵位継承権を持っていてもマリアニージャは嫡子ではない。エヴグラーレ子爵は外国貴族だから、イリリア王家の許可は不要である。
ちなみに、提出先は王都に暮らす者なら身分を問わず、大聖堂のある大ディエーブ神殿になる。
マリアニージャは執務机に座り直し、ペンを取った。机の上はいつでも仕事ができるように文具の類も揃えておいてあった。
二枚の書類の署名欄にそれぞれ書き入れ、二枚を横置きにしてややずらし、『ヴァジム・エヴグラーレ』に並べて割署名もした。完璧だ。
「ご結婚おめでとうございます、奥様」
執事と、ドア脇に控えていた侍女が頭を下げて言った。
エヴグラーレ子爵夫人マリアニージャは貴族の笑みを浮かべ、「ありがとう」と頷いた。
その後は滞りなく、夫人の仕事についての説明をマティアスから受けた。予想通り、ごく普通。マリアニージャはすぐに理解し、早速、年間家政計画書を立てることにした。
貴族といえど収入は無限ではない。予算が決まっていて、ちゃんとやりくりしている。家政計画書は今後の指針なので、できれば三日くらいで仕上げたいところだ。
マリアニージャは意気込んで執務に取り組んだ。
仕事に取り掛かって、やがて昼食。
燻製ポークとたまねぎのソテー、それに初めて見た半月型のパン。薄めの生地を二つに折って、中に炒めた挽肉を詰めて揚げ焼きにしたものらしい。バンダル地方の料理なのだそうだ。デザートは柑橘のソルベ。
そのあとしばらく仕事したらティータイム。
昨日と同じ茶葉と焼き菓子各種。マリアニージャはナッツの風味のものが特に気に入って、五つも食べてしまった。
さらにちょっと仕事をしたらもう夕食の時間だった。
今夜もひとりの食卓。子爵は夕方出かけていったらしい。
メインはローストポークをりんごのソースで。添えてあったうさぎの煮込みは王都市民の大好物だ。パンはたまねぎくらいの大きさのものをスライスしてあった。具を全部潰してとろみにした濃いめのスープ。デザートはオレンジとチーズクリームをあえたもので、はちみつをたっぷり掛けて貰った。なんて贅沢。
夕食後は仕事はしなくていいらしく、マリアニージャは自室に戻って休むことになった。
驚いたのは、風呂の支度をしてくれていたことだ。伯爵家で育ち、かつ、使用人のすべてを解雇したマリアニージャは知っている。三階の夫人用のバスルームまで湯を運ぶのはとんでもない重労働なのだ。
昨晩は貴族夫人というには薄汚れていたマリアニージャをなんとかするためのものだとしても、二日続けてというのはあり得ない。毎日湯を使うのは王族か、人を潤沢に雇える大富豪ぐらいだ。
「ヤルミナ、お風呂の支度は大変でしょ? 体は拭いてきれいにするから毎日じゃなくて平気だよ」
バスルームで半ば脱がされた状態で、マリアニージャは侍女に言った。
今朝起きてすぐに、ヤルミナとは二人きりのときには楽にしようと話をつけた。マリアニージャは雇われ夫人なのだから、言ってみればヤルミナとは同僚である。朝から晩まで気を張っているのはマリアニージャも辛いから、安全地帯も欲しかった。
ヤルミナは笑い、ズザナとラドムも事情は承知していると教えてくれた。
ただ、侍女職の主戦場は夫人のそばなので、自分はこのままでとも言われた。もっとも至極な意見なので、マリアニージャは了承した。
「大変ではありませんよ?」
ヤルミナは不思議そうに首を傾げた。
侍女らしく襟の詰まったシンプルなドレスを着ているが、ヤルミナは頭抜けた美女だ。白い肌と赤い瞳と、髪。ヘアネットでまとめられた髪を解いたら、きっとバラみたいに絢爛だろうなと思わせる。
体も腕も細いのだから、重労働はしないで欲しい。無理したら怪我をしてしまう。
「いや、お湯は重い。メイドのひとりもいないんだし、ひとりでやる仕事じゃないよ」
「バケツは使いません。こうです」
ヤルミナは微笑んだまま、左手の親指の爪を人差し指で軽く弾いた。
途端。タイル張りの部屋の真ん中に鎮座しているバスタブから湯が消えた。魔法だ。マリアニージャが目を丸くしている間にヤルミナはもう一度同じ動きをして、湯気のたつバスタブに戻った。
「すごいヤルミナ! 魔法がつかえるんだ!」
「はい」
ヤルミナは笑顔だ。
魔法の風呂に気を取られていた間に、マリアニージャはすっかり脱がされていた。朝、まとめて貰った髪も解かれて、重たい金髪が尻のあたりまで落ちている。
「さあ、お髪も洗ってしまいましょうね」
魔法も使える美侍女は、手際も素晴らしかった。
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