第7話 エヴグラーレ子爵家のひとびと






 執事マティアス

 料理長ラドム

 家政婦長ズザナ

 奥様付侍女ヤルミナ


 夕食に呼ばれた食堂で、マリアニージャは上級使用人四人から挨拶を受けた。彼らは揃って、ヴァジム・エヴグラーレ子爵と一緒にダキア王国から来たのだそうだ。つまり、子爵に信頼されている人々である。

 マティアスが一番年嵩で、次にズザナ、一番若いのはヤルミナだ。


 面白いなと思ったのは皆の瞳の色だ。

 マリアニージャも含めて、全員、瞳が赤かった。ダキア王国では赤い瞳のひとが多いのかもしれない。イリリア王国ではかなり珍しいのだが。


 マリアニージャは丁重に、しかし、貴族として威厳を忘れずに挨拶した。マティアスの眉が満足げに動いたので、良かったのではないかと思っている。


 晩餐会ではないから、食事はごく普通のものだった。が、自家焼きのパンは美味しかったし、この数年、影を見ることもなかった鴨肉のローストは絶品だった。りんごソースがあれば最高だけれど、ダキア風いちじくソースもとても美味しかった。


 食事の後、マリアニージャはズザナとヤルミナの手を借りて湯を使った。

 手入れや着替えも手伝って貰うのは久しぶりのことすぎて、少しだけ泣きそうになって、慌ててくしゃみで誤魔化した。

 そうしたら、湯が冷めてしまったかと二人に心配されて、さらに泣きそうになってしまった。


 ヤルミナが用意してくれた寝間着は襟ぐりがゆったりした柔らかなもので、丈が長く、立っていたら足首まですっぽり隠れる。正直、着心地が良すぎてこのままずっと着ていたいと思った。


 マリアニージャは嬉々として、ベッドに潜り込んだ。

 ふわふわの上掛けをかけてくれたヤルミナは、ランプの火を落として「おやすみなさいませ」と下がっていった。完璧な侍女だ。


 ドアが閉まり、微かな気配が遠ざかっていくのをしっかり見送ったマリアニージャはうつ伏せに転がり、枕に顔を埋めた。

 もちろん枕もふかふかだ。


 うれしい。嬉しいが過ぎる!


 だって、お腹がいっぱいなのだ。

 寝る前に片付けものも繕い物もしなくていい。明日の仕事の心配もしなくていい。庭で焚き火もしなくていい。きれいな服もある。

 塩スープともさようなら!


「ぶああああああああ……くぅぃひっひひひっひっひっ……!!」


 枕に吸収させる嬉しい笑いが止まらない。伯爵家の令嬢というか、そもそも十八の乙女の笑い方としても疑問しかない酷い笑い方だ。

 でも誰にも気づかれないなら問題ないでしょ。


 背中もお腹も震わせて、しばらく。

 マリアニージャは枕に笑いを吸わせ続けて、そのまま眠ってしまったようだった。



 ようだった、というのは、気がついたら真夜中だったからだ。

 遠くで日付が変わったことを告げる大聖堂の鐘が鳴ったから間違いない。


 昨晩はニチャニチャの幻覚に追われていた頃合いだというのに今夜はふかふかだ。そんなふうに思ったからか目が冴えてしまった。


 マリアニージャはベッドの中でごろごろと寝返りを打った。作り付けのベッドと違って軋み音ひとつしない。適度に体を支えつつ、ふかっと懐が深い感じだ。

 最高の寝心地をもっと堪能したい。しよう。

 そう決めたものの、眠れない。


 ソワソワするのだ。

 ゾワゾワに近いかもしれない。膝裏を撫でられているような、ぼんのくぼを突かれているような。背筋を冷たい指でくすぐられている感じがする。

 とてもではないが安眠できない。


 マリアニージャはふかふかのベッドから体を起こし、不承不承、床に足を下ろした。ちょうどいい位置にルームシューズが揃えて置いてあるのはヤルミナの仕事である。すばらしい。


 寝室内には誰もいない。人形の類があると視線として感じるひともいるというが、そういう装飾品もない。とすると、窓。

 マリアニージャは壁際に立ち、窓を隠すカーテンの端っこを少しだけ持ち上げた。


 月が一番見えない時期だ。夜は真っ暗闇になる。

 でも、マリアニージャは夜目が利く。亡き母もそうだったので、母譲りの特異体質のようなものだ。


 一度ぎゅっと目を閉じてから、開く。と、窓ガラスの向こう側がよく見えるようになった。


 窓は中庭に面している。芝生も植栽もよく手が入っているが、花壇に花はない。別棟の窓にはひとつも灯りがはいっていないが、カーテンがかかっていてわからないのかもしれない。

 庭の、本館よりのあたりにはパーゴラが設えてあって、蔓と葉がよく茂っている。さすがに種類を見極めるには暗い。


 迷ったが、カーテンを開け、窓も開けた。

 湿った匂いは雨が近いせいだろう。ほぼ無風。

 ひょっとして、あの蠢くグチャにちゃしたミミズお化けがいるのかと怯えつつ、耳を澄ましてもみた。


 大丈夫、妙な気配はしない。

 マリアニージャは知らないうちに詰めていた息をふうっと吐いた。


 その瞬間、頭の上を大きな鳥が通り過ぎた。

 慌てて窓から身を乗り出したマリアニージャは、背中を窓枠に預けて上を見た。解いたままの髪が窓の下に流れたせいで、一瞬、体が落ちそうになったが堪える。


 黒い影が館の屋根に降り立つのが見えた。


 人の形、男性だ。翻るマントが大きな翼のように感じられたのだろう。目を凝らすと、その男は目元を覆うマスクをつけているのが分かった。左手にはフルートもある。


 昨晩の紳士だ。

 昨日は浮いていて、急に姿を消したように思ったが、今日は違う。間違いなく飛んできた。


 人間は空を飛ばない。

 では、あれはなんだろう。人の形をした魔物?


 マリアニージャには気が付かなかったようで、紳士は今夜もふっと姿を消した。



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