第6話 執事は満足げに笑った
「伯爵家のお嬢さまぁ? ホントにぃ? その格好でぇ?」
「アルマ伯爵は兄。でもまあ、没落してるから気にしないで」
正門の前、屋敷を見上げたリンダに言うと、信じられないものを見る目を向けられた。
マリアニージャはむぅっと口を尖らせた。
「昔はともかく、ものすごい貧乏だよ。使用人もみんな辞めて貰ったし、ドレスの一着も持ってないし、食事にも困ってるくらいだし」
「没落してるのはわかった。なんか、すごいね」
兄と暮らす使用人棟に連れて行き、何もない台所の作り付けの椅子に座ったリンダが頷いた。納得されてしまうのは切ないが、事実だ。
「だから結婚くらいどうってことないって?」
「お母様が亡くなった後はやってたことだし、夫人業は一応経験者かも」
「はー。それはあたしじゃ無理な仕事だったね。あの執事さん、すごいね。マーリアがご令嬢だって一目で見抜いたってことだもん」
身のうちから溢れ出る気品があるからと言いたいところだが、マリアニージャには採用の理由に心当たりがなくもない。
『面接前の質問に「私はニンニク料理が大好物です」と答えること』
リンダは求人票に書かれていた言葉を言わなかった。たぶん、それがマリアニージャが採用された理由だ。
「子爵が相当なニンニク料理好きなんじゃないかなあ」
「なに、それ」
あははと笑うリンダに、マリアニージャはカップを勧めた。ガラクタ市で買った品だが、漏れないし頑丈なので重宝しているものだ。
茶葉はないので、おもてなしは朝沸かした湯の残りだ。すっかり冷めているから湯冷ましというべきか。
「塩ならあるよ。いれる?」
「おかまいなくどーぞ」
リンダは湯冷ましを一口飲んで、うーんと唸った。
「ねえ、奥様の仕事をするんならさ、あたしを雇うように言ってよ。下働きは必要だろ?」
「そっか。リンダも仕事探してるんだもんね」
「そうだけど、そうじゃなくてさ。あんた、なんか危なっかしいんだよ。何かあったら寝覚が悪いよ。ひどい事件も続いてるしさ」
住み込み仕事で、書類上とはいえ結婚もする。周りに知り合いもいない状況というのは確かに怖い。けれど、リンダと知り合ったのもついさっきだ。信用とか信頼とかが育っている訳ではない。
まあ、悪いひとじゃないのは感じているのだが。
「とりあえず荷物をまとめてくる。今日から来て欲しいんだって」
「……絶対に雇って。ホントに絶対だからね?」
リンダはなんだか、悲壮な顔でそう言った。
台所に一番近い部屋がマリアニージャの自室だ。ちなみに兄の部屋はその隣である。どちらも作り付けのベッドと、椅子にできる出っぱりがあるだけの部屋だ。暖炉もないから、冬場はとても寒かった。
ドレスもアクセサリー類も何もかも手放したマリアニージャの持ち物は、エプロンドレスと下着が二組、細いリボンが二本とブラシと手鏡と洗面用具くらいなものである。化粧水のひとつもない。
旅行用のトランクはとうの昔に売り払ってあるので、買い物に使っている麻袋に持ち物を入れたら荷造りは終わった。
それから台所に戻り、マリアニージャはリンダとおしゃべりをして午後を過ごした。マティアスとの約束は夕方だ。
リンダは他にも仕事があるとかで、基本的には単発の仕事を探しているのだそうだ。『便宜上の妻仕事』は興味本位だったとも白状した。
そういうことなら仕事を奪ってしまったと気に病むこともない。
マリアニージャは日払いのメイド仕事を回せるようにがんばってみるねと約束した。
太陽が西に傾いた頃、マリアニージャはアルマ屋敷を後にした。
エメリックは戻らなかったので、台所に置き手紙を残すことにした。
なにしろ子爵邸も同じ通りだし、職場状況と権限次第では兄も住み込みで雇ってしまえばいいと企んでいるのだ。そうしたら、兄妹の住むところと食事事情は解決する。
「いいかい、怖いことがあったらすぐに逃げるんだよ。部屋の鍵はきちんとかけるんだよ」と、乳母よりしつこく繰り返したリンダとは、子爵邸の通用口の前で別れた。
最初と同じように叩いた通用口で迎えてくれたマティアスの瞳は夕焼け空より赤く輝いてた。
マティアスに案内された屋敷の構造は、ごく一般的なイリリア王国様式だった。正面から本館、右翼側に廊下で繋がった別棟。通用口に近い方から家事棟、使用人棟がある。棟間が渡り廊下で繋がれていて気が利いている。これなら雨の日も働きやすいだろう。
それにしても、この屋敷を狭く感じるとは。
シュレーグル侯爵家はよほど子宝に恵まれたのだろう。景気がいい話は良いものである。アルマ伯爵家も景気良くなればいいのに。
がんばれ、エメリックお兄様。
「こちらのお部屋をお使いいただきます」
主一家の私室は本館の三階を占めている。
階段室のほぼ正面にある主寝室を挟んで、両側に夫婦それぞれの居間と寝室が続いている。本物の夫婦ではないから、マリアニージャは夫人用の部屋のみを使う。
夫人のための部屋は豪華すぎず、質素すぎず、ごく標準的な貴族夫人の部屋に設えられていた。内扉で居間と繋がる寝室も広すぎず、いいかんじに片付いていた。
「こちらはクロゼットに?」
マリアニージャの麻袋を持ったマティアスが言った。元は麦かすが入っていた粗末な麻袋なのに、マティアスが丁寧に運んでくれたのだ。
「いいえ、自分で片付けます」
マリアニージャはテーブルを示して答えた。細やかな刺繍の入ったテーブルランナーには不似合いな麻袋だが、自分の荷物が入っているから床置きも忍びない。
マティアスは滑らかな動きで麻袋を置き、マリアニージャに向き直った。
「夕食の際、使用人を紹介いたします。それまでどうぞゆっくりお過ごしください、奥様」
「そうさせてもらいま、いえ、そのように。みなにも宜しく伝えておいてちょうだい」
マリアニージャはおへその前あたりで指だけ組み合わせて立ち、笑んでマティアスを見上げた。エプロンドレスだから格好はつかないだろうが、所作はちゃんと貴族のものだ。
本人も忘れがちだが、マリアニージャは由緒正しい伯爵家の御令嬢である。
分厚いカーテンの向こうの空はもう星を浮かべているだろう。
つまり、もう夜。マリアニージャの仕事は今日から。執事がマリアニージャを奥様と呼んだのだから間違いない。
「承知いたしました。ご用がありましたらお呼びください」
「ありがとう、マティアス」
マティアスがほんのわずかに眉を動かした。
まるで『合格』と言わんばかりに、執事は満足げだった。
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