第9話 屋根の上で
「奥様は魔法に興味が?」
「実は、わたしのお母様も魔法が使えたんだよ」
風呂を済ませたのち、マリアニージャは鏡台の前に案内された。豪奢ではないが造りのいい鏡台は夫人専用のものだ。手入れ道具はもちろんのこと、化粧品までしっかり完備。
自前のブラシが精一杯だった一昨日からすると夢のようだ。
「母君様はどのような魔法が得意でした?」
「爪の先っぽに、小さな火の玉を灯せたんだ。ヤルミナみたいにお風呂が作れたらよかったのに」
大した魔法も使えないのに魔瘴病になってしまうなんて、魔力があってもいいことなんか全然ないと、母は時々こぼしていた。どうせなら大魔法使いがよかったな、とも。
「この美しい金髪は母君様に似ていらっしゃるのかしら」
丁寧に髪にブラシを使ってから櫛を入れ、ヘアオイルまで使ってくれているヤルミナがしみじみと言った。
鏡越し、マリアニージャはヤルミナと目を合わせた。
「そうだよ。でも、実は、切っちゃうところだったんだ。重たいし、手入れも大変だし」
「えっ、この見事なお髪を?」
「金髪で、毛量たっぷりでしょ。高く売れるんだって」
「カツラのためですね。少し前に帝国で流行りましたので直にイリリアやダキアでも似たようなことになりますよ」
ヤルミナは自信たっぷりに言い切った。
「わたしはヤルミナみたいな赤い髪が良かったな。目の色も同じだし、よく熟れたりんごみたい」
「りんごですか? ふふっ、そんなにいいものに例えられたのは初めてです」
「え? ほんとに?」
「はい。大体はダキア湾のロブスターか……魔物の色だって」
ヤルミナがマリアニージャの肩に手を添え、耳元に頬を寄せて囁いた。
微かな吐息がくすぐったくて、あといい匂いがして、マリアニージャは「ひょゃあ」と声を出してしまった。
もちろんヤルミナには笑われた。
「仕上がりましたよ、奥様。おやすみの間に傷まないように、緩く編んでおきました」
言葉通り、ごん太の金色の縄のような三つ編みが肩から前に流れるように編まれている。尻が隠れるほど長いので、迂闊に寝ると髪の毛を巻き込んで痛いし、傷むのだ。昨晩はちょっとだけ辛かった。
「すぐにおやすみになりますか? それとも、軽くお夜食をお持ちしましょうか」
「お夜食、だと……?」
魅惑すぎる提案に、マリアニージャはおもわず唾を飲み込んだ。ついでとばかりに腹の虫もぐぶーと鳴いた。
「ただいまお持ちいたしますね」
ヤルミナはくすくす笑って、一旦部屋を出て行った。
用意されたお夜食はハーブのお茶と小さめのビスケットだった。ビスケットは薄くて丸くて平たくて甘くてサクサクしていた。あまりに美味しくていくらでも食べられて、気がついたら皿は空っぽになっていた。十枚以上あったはずなのに。
マリアニージャは慄きつつも幸せな気持ちでベッドに入った。
目が覚めてから眠るまで、ずっと何か食べていたんじゃないかと思ったが、気のせいということにした。
おいしいは幸せ。幸せは善。
ふわふわしている間にヤルミナは灯りを落とし、就寝の挨拶をして下がっていった。ほんとうに仕事のできる侍女である。見習うべきところしかない。
反省することを反省し、反省しなくてもいいことは流しているうちに、マリアニージャは眠りに落ちて。そしてまた。
……ゾワゾワする感覚で目を開けてしまった。
真夜中、遠くで大聖堂の鐘が鳴る頃合いだった。
マリアニージャはふかふかを惜しむ気持ちを置いてベッドを出て、ナイトガウンを羽織った。迷いなく窓を開ける。重たいカーテンは揺れもしなかった。外は風がない。
庭は静かだが、やっぱりゾワゾワは止まらないままだ。
昨晩のような大きな影は飛んできてはいないけれど。
マリアニージャは開けたままの窓を離れて部屋の外に出た。
廊下には灯りも人の気配もない。館の間取りの細かいところは覚えていないが、貴族屋敷の基本的な造りはそう変わるものでもない。
目指すのは上。屋根だ。
主一家のための三階から上に上がるための階段は廊下の一番奥の扉の向こうに違いない。四階は屋根裏で、季節ごとに必要になるもののための物置きにしてあることが多い。
ルームシューズは柔らかいフェルト底だから、足音の心配もない。
マリアニージャはまっすぐ目的の扉に向かい、開けた。想定通り、質素な階段があった。上にも下にも通じている、通用階段だ。
さすがに足音に気をつけて四階にあがり、庭に面した部屋のドアを開けてみた。小さな窓がある部屋は使われておらず、がらんとしている。
丸い形の窓には木製の戸がついていた。それを開け、木枠を掴んだマリアニージャは、体を窓に捩じ込んだ。上半身が外に出たら仰向けになって、掴んだ手を上に持っていく。
高いところを掃除する時、下を見たら怖くて動けなくなる。でも、上を見ているとそうでもない。
だから、屋根にあがるなら絶対に下を見てはいけないのだ。
とある商家の屋根掃除の仕事をした時に教わったコツだ。いろんな仕事を経験しておいて良かったと思った。
マリアニージャは窓の上辺にしがみついてバランスを取り、窓枠に立ち上がった。思い切り腕を伸ばしたら、屋根の庇に指先が届いく。
マリアニージャは左手ひとつで庇を掴んで体重を移し、窓枠から足を離した。すぐに右腕でも庇を掴む。
簡単に言えば、屋根の庇にぶら下がった格好だ。
足元、寝間着の裾がすーすーした。
そこから横移動して、すぐ。張り出した飾り屋根の端からよじ登った。
ようやく足の裏がしっかり固いものを踏んで、ほっとした。四つん這いに近い格好は無様だけれども、ここから立ったらいい。
ちょっと、怖いからもうちょっと真ん中まで進んでからにしようとは思うけど。赤ちゃんみたいに、這っていけばなんとか。
そう思ったときだ。
「……こんばんは、お嬢さん。屋根の上で何をしているんだい?」
男性の声に顔を上げる。バタフライマスクの紳士がいた。
黒いマントのその紳士は、マリアニージャの少し上に浮かんでいて、見下ろしていた。
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