第10話 夜のカラス






「こんばんは。そちらこそ、大丈夫ですか?」


 マリアニージャは紳士を見上げた。屋根の上にほぼ四つん這いの体勢で上を見ると、まるっきり猫みたいな格好だ。裾が長いとはいえ寝間着はすーすーと夜の空気を内側に伝えてくるし、心許ないどころの騒ぎではない。


 でも、大丈夫じゃないのは相手の方だと、マリアニージャは思った。


 昨晩も、その前の夜も、紳士は悠然として見えた。マントを翻して、夜のカラスみたいだった。

 今夜もマスク付きの紳士はカラスのようだ。が、前二晩とは違っている点があった。


「僕? 僕は別に……」

 紳士は驚いたようだった。

 冷静に考えて、月もない夜の屋根の上に這いつくばっている寝間着の女に心配されるのは心外かもしれない。


「血が出てます。結構たくさん」

「え? うそ! どこ? 困るんだけど!」

 紳士は慌ててマリアニージャの前に降り立ち、自分の体をパタパタ触って確認しはじめた。


「痛くないんですか?」

「……痛みは感じない性質なんだ。ごめん、どこから血が出てるか教えてくれるかい?」

 紳士はマリアニージャに手を差し伸べてくれた。

 おぼつかない状況なので、手を借りられるのはとてもありがたい。マリアニージャは喜んで紳士の手を取って立ち上がった。

 とりあえず、掴まり立ちだが、四つん這いの不格好からは解放された。


「左の、足首まで血で汚れています。腿のあたりではないですか?」

「あ! 本当だ!」


 マリアニージャの指摘に反応して内股あたりに手を当てた紳士が声を出した。股間、まではいかないが、膝より少し上に何かが刺さっていたようだ。

 大人の男性の拳くらいの大きさはある、石、か、金属。

 似た形のものをマリアニージャは見たことがない。あえていうなら、魚の鱗とか?


「……あー、えっと、ねえ、君、お願いがあるんだけど」

「なんでしょう」

「これ、抜いて貰えないかな」

 紳士は少し照れくさそうだ。


 変なひとだと思った。

 マスクはつけてるし、空を飛ぶし。痛みを感じない性質ってなんだろう。疑問しかない。が、怪我人だ。

 手当を頼まれたら、できるだけのことはするべきだ。マリアニージャは良心的な女なのだ。


「じゃあ、座ってください」

「助かるよ、お嬢さん」


 紳士に手を引かれて、屋根の上の方まで移動した。紳士が高いところに座って、ちょっと下にマリアニージャが膝をつく。異物が刺さっているのは太腿の内側だから、足を開いて貰わないことには難しい。


「じゃあ、失礼します」

 マリアニージャはにじりよって、紳士の右膝を掴んだ。傾斜がある屋根の上だ。何かに掴まっていないと怖い。

 彼の太腿の石っぽいものに手を伸ばす。と。


「……う」

 紳士が呻いた。

「痛かったですか?」

 足の間から見上げると、紳士は顔を真っ赤にしていた。マスクで半分しか見えないが、頬も耳も赤いのは間違いない。


「……だいじょうぶ。ひとおもいにやって……おねがい」

「はい、わかりました。痛いのは一瞬で、すぐによくなるから」

「き、きみ、なんて言い方……!」

 足首がばたついたのを膝で抑えこんで、マリアニージャは異物を掴んだ。


 固い。握り込むには太い。両手を使わないと無理かもしれない。

 でも膝から手を離すのは怖いし、どうしようか。

 こうしよう。


 マリアニージャは思い切って、紳士との距離を詰めた。

「もっと股を開いて」

「えええっ……!」


 抗議の声は無視だ。

 マリアニージャはそれをぐっと掴んだ。固いところに嵌まりこんだ杭状のものなら、左右に揺さぶれば緩んで抜けやすくなる。けど、この場合はよくないだろう。傷が広がりそうだ。


「ちょっと我慢だよ。三つ数えたらいくから。さーん」

「2……?」

「いち!」

 ずばん。

 もちろん音はしないが、気合い的に。

 マリアニージャは力を入れて、その異物を引っこ抜いた。

 すかさず傷口に布をあてがって、ぐっと押し込んでやる。簡単な止血のやりかたは、小さいころに庭師に教わった。


「抜けたかい?」

「抜けました」

 血まみれの異物は金属板だった。六本の突起が丸く配置されている。突起はそれぞれ先端が尖っていて、刺さったらかなり痛そうだ。

 実際、紳士はかなりの血を出している。大怪我だ。

「これ、何ですか?」

「投剣の一種だね。東の遠国ではシュリケンとも言うらしいよ」

 初めて聞いた言葉に首を傾げると、紳士は深々とため息を吐いた。


「あー……助かったよ。屋敷の皆も、それには触れないからね」

「やっぱりこのお屋敷の方ですよね?」

「うん。僕はヴァジム・エヴグラーレ」

 紳士改めエヴグラーレ子爵はマスクをとって、笑って言った。

 すっきりした眉と鼻筋、赤い瞳。男性にしては目は大きくて、目尻がやや下がり気味だ。総合するとかなり、いや、相当整った顔立ちをしている。役者みたいだ。

 イリリア貴族としてはふくよかさがまったく足りていないところが難点だろうか。


「マリアニージャ・ゾラ・アルマじゃなくて、本日、マリアニージャ・ゾラ・エヴグラーレになった者です」

「だろうなって思ってた。よろしくね」

 呑気に笑っているが、彼の太腿からは結構血が出ているし、傷口をマリアニージャが思い切り圧迫しているのだ。痛みを感じない性質というのは本当らしい。


「まだ動かないほうがいいです。抑えて、しばらく待たないと。太腿はたくさん血が出るところなので」

「医術に詳しいの?」

「ずっと前に庭師に教えてもらったんです。応急手当ては野営の基本です」

「元は兵士だった庭師なのかな」

「詳しくは知りませんが、ジェム爺がいなかったら塩スープも作れなかったのは確かです」

 焚き火の作り方も庭師に教わったのだ。領地で過ごしていた頃、マリアニージャは野営ごっこが大好きだった。


「塩スープって、何?」

「そのうちご馳走しましょうか? おすすめしませんけど」

 のんびり話をしているうちに血が止まったようだ。

 マリアニージャはエヴグラーレ子爵の太腿からそっと手を離した。


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