第11話 旦那様は吸血鬼を狩っている、らしい。
「……うーん、困ったな。いや、間に合ったというべきなのか?」
屋根に座ったまま、エヴグラーレ子爵が呟いた。マリアニージャは子爵の足の間で四つん這いのまま、顔を上げた。血は止まったようだが、別の困りごとが発生したらしい。
子爵は遠く、たぶん、屋敷の前の通りを見つめているようだ。マリアニージャも目を凝らしてみた。だがよくわからない。夜目が利いても取り立てて目がいいわけではないからだ。
「どうかしましたか?」
「どうも討ち漏らしがあったみたいだ」
物騒な単語だ。討ち漏らし。
使用人棟に兄と一緒に移り住んでから出たネズミやクロバネの虫のことが頭をよぎった。とくにクロバネのほう。あれは罠にも掛からないから、エメリックと共に何度も戦った。
いや、違う。そうじゃない。
一昨日の紳士が言うのなら、討ち漏らしたのはアレか、アレの仲間だろう。
「ミミズぐちょぐちょですか」
「察するに、ジジャラのことかな」
「ミミズ脚のナメクジみたいなやつのことです」
「ジジャラだね。うん、ミミズぐちょぐちょだ」
あははと笑う子爵は呑気だ。が、視線は遠くを見たままだ。
「ミミズぐちょぐちょは眷属なんだ。生きている獲物を見つけたり、獲物の死体を始末したりする。知性はあんまりないけど、主には忠実」
「主……眷属」
あまり口にしない言葉ばかりだ。
アルマ伯爵家がもうちょっとマシだった頃は神殿にも通っていた。天空神ディエーブにお仕えする神官の語る神々と魔王の戦いの話はちょっと面白くて好きだった。『眷属』というのはその話の中に出てきた言葉だ。手先の悪魔みたいな意味だったはずである。
「えっと、旦那様は魔王と戦っているんですか?」
「あり得ない。魔界七公と相対することができるのは聖なる七柱の神々だけだよ」
子爵は首を横に振り、マリアニージャをやっと見た。
「ミミズぐちょぐちょの主は吸血鬼なんだ。僕は吸血鬼を狩っているんだ」
「キュウケツキ」
マリアニージャは片言で繰り返した。吸血鬼はむかし話に出てくる怖いお化けだ。家畜も人間も襲って、血を吸うのだ。こわい。
四日前のマリアニージャなら「ふーんそうなんだ」くらいの感想しか持たなかっただろう。だが、実際にミミズ脚に追いかけられたのだ。
実際に体験してしまっては、むかし話は笑えない。
きっとミミズぐちょぐちょに遭遇した誰かが警告するために、簡単なお話に仕立てたのに違いない。ほらこわい。
「いいことを思いついたぞ」
エヴグラーレ子爵がぱっと表情を明るくした。
「お嬢さんが手伝ってくれるなら、なんだけど。どうかな?」
「わかりました。どうしたらいいですか?」
子爵は雇い主である。子爵夫人の仕事かどうかは知らないが、いい顔をしておいて損はないはずだ。
「潔いお嬢さんだ」
「マリアニージャです。曲がりなりにも旦那様なので、マーリアと呼んでもいいですよ」
「マーリアちゃんか。かわいいね」
子爵が笑って、首を傾げた。長めの前髪がさらさら流れた。月が出てたらきっと銀色にきらきらしたことだろう。
「真上まで行くから、それを投げつけて欲しい。できそうかい?」
「これを?」
マリアニージャは持ったままだったシュリケンを改めてよく見た。平べったいが、
「りんご投げならしたことあります」
「りんご?」
「アルマ伯爵領の収穫祭では徒党を組んでりんごを投げ合います」
「痛そうな祭だなぁ……。まあ、でも、できそうだね」
笑った子爵は浮き上がり、マリアニージャの両方の脇の下に手を突っ込んできた。痩せぎすの体が持ち上がって、寝間着の裾から夜風が入り込んでくる。足元がスカスカだ。浮いているから。
「声は出さないでね」
マリアニージャは寝間着姿だ。薄着だ。その状態で男の人に包み込まれるように密着して、耳の穴が震えるくらいの位置で男の人に囁かれるなんて初めての経験である。
緊張して体が硬くなったが、我慢。
マリアニージャは小刻みに頷いた。
それに気がついていないのか、エヴグラーレ子爵はマリアニージャを抱えたまま高く浮き上がり、夜を滑るように屋敷前まで動いた。揺れも振れもしないのは、子爵がしっかり抱いてくれているからだろう。
すごく痩せているのに力は強いみたいだ。
近づけば、見える。
ミミズぐちょぐちょは小さめの馬車くらいの大きさはあった。真上からだと本体らしい赤黒い部分から子犬くらいのミミズが蠢く様子がよくわかって、とても嫌だ。
「いいかい、マーリアちゃん。あの大きな塊のところにぶつけるつもりで投げ落として。できるね?」
マリアニージャが頷くと、子爵の腕が腹に回った。そのまま、腕に座らせられるように抱き上げられた。
上体が大きく揺れて、マリアニージャは咄嗟に手近にあった固いものに左腕でしがみついた。そこで尻を腕に押し付けるようにして踏ん張って、利き手を振りかぶる。勢いよく。
ぶぅん!
マリアニージャはシュリケンを真下の赤黒い塊にむかって投げつけた。
薄い円盤はぐるぐる回転しながら落ちて行き、塊の真ん中に突き刺さった。
その瞬間、鋭く高い音が響き渡った。
聞き覚えのある音は、ものすごく耳に痛い。
風のない夜が震えて、地面から波が沸き上がり、小石、土埃。
そしてやっぱり、魔物の赤黒い体が粉々に弾けちった。
一昨日の夜と同じだ。
マリアニージャは呆然とするしかない。
そして、マリアニージャを抱えているエヴグラーレ子爵も似たような有様だということに気がついた。
「……旦那様?」
「あ、ごめんね。シュリケンの威力にびっくりしちゃってさ」
ははは、と、軽やかに。
エヴグラーレ子爵が笑った。
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