ちゃっかりマリアニージャのドキドキ『契約』新婚生活〜まだ旦那様には会えていません

築地シナココ

第1話 月のない夜はおそろしい




 だからね、月のない夜は気を付けるんだ。出歩いてはいけないよ。

 夜を這い回るものたちが暗がりから、じっと狙ってる。

 やつらは愚かな女を孕ませて、間抜けな男の血を啜るのさ。


           (イリリア民話の『ロバに喰われた男のはなし』より)










 そいつは迫ってきている。間違いない

 王都の石畳を這う、湿っぽい音が来る。どんどん音が近くなっているのは間違いないが、確認できない。

 振り返る余裕なんかない。


 マリアニージャ・ゾラ・アルマは必死で息を繋ぎ、ただ足を動かしている。

 自分の息遣いが荒い。脇腹も痛い。走ると、編んだ太い三つ編みが背中を叩くのも結構痛い。


 貧乏暮らしでもアルマ伯爵家の令嬢だ。全力疾走なんて初めてだ。


 でも、逃げなくては。走らなくては。

 たぶん死ぬ。殺される。


 月のない夜に出歩いてはいけないというむかし話が頭を過ぎった。小さな子を寝かしつけるための脅し話だと思っていたのに、本当のことだったのかもしれない。信じたくない。


 本来は夕方には終わる仕事だったのだ。

 口利き屋で請けたのは、東マキト通りの商家で行われた結婚式の手伝いだった。昼過ぎになって、余興で使われる予定のアヒルたちが逃げ出す騒ぎがあって、仕事を中断して皆で探す羽目になった。それで後の予定がぐぐっと詰まってしまったのだ。


 その分、手間賃とは別にご祝儀を弾んで貰えたので、懐具合は大満足である。閉店間際の食料品屋で干し肉と卵、それにワインが買えた。

 これで兄とふたり、三日は食いつなげることだろう。


 だがそれも命あってのこと。


 ビチャビチャにちゃにちゃという音がどんどん迫ってくる。一生懸命走っているのに、確実に間を詰められている。間違いない。


 マリアニージャが兄と暮らす家はカサル通りにある。東マキト通りとは王宮前広場を挟んで、真反対だ。結構遠い。辻馬車を使うべきだったのだろうが、そんな余分な金があったら、もうちょっと食べ物を買いたいと思ってしまった。それがいけなかった。

 いや、反省は後だ。


 あと三つ先の角を曲がれば広場である。王宮を守る騎士隊もいる。衛兵もいる。王都で一番治安が悪いと言われている地区を掠め通る道だけど、息を止めて走ればたぶん大丈夫だ。追いつかれるほうが絶対に怖い。


 マリアニージャは気合いを入れ直し、足を速めた。

 そしていよいよ曲がり角、抉り込むように突っ込んだ。が。


「うそ! 通行止めっ……?」


 鉄の棒と縄を組み合わせた柵が道を封じていた。マリアニージャよりも高い柵の向こうは広場なのに、通り抜けることができない。柵の造りは荒いが頑丈そうだ。

 マリアニージャでは乗り越えることも、壊すこともできそうにない。


 王都なので、王族がお出ましになるような催しがあるときは道が使えなくなることがあるのは市民なら知っている。警備のためだから仕方がない。

 けれど、できれば今じゃないほうがよかった。

 明日の夜とかにして欲しかった。何でどうして今夜なのか。呪い文句が喉に詰まる。


 ビチャビチャという音がもう近い。

 マリアニージャは柵を背にして振り返った。


 月もない暗い夜だ。両側が壁で、漏れてくる灯りのひとつもない狭い通りだ。

 だが、マリアニージャにはソレがはっきり見えた。カンテラなしでも夜歩きできるほど夜目が利くのを呪わしく思ったのは初めてだった。


 建物の角から最初に見えたのは太く、長い筒状のものだった。ニョロニョロとしていて、ミミズに似ている。節というか、横縞がある。赤黒い。気持ちが悪い。


 ひとつひとつが子犬ほどの大きさもあるミミズがひとつふたつみっつ、数えきれないほど蠢いている。


 にちゃにちゃビチャビチャというのは、そいつらが動くたびに立つようだ。滑り液を出しているのだろう。ナメクジみたいに、這ってきた跡が残るのかもしれない。

 とにかくその無数の巨大ミミズがごちゃごちゃもつれあいながら、はっきりとマリアニージャの方に向かって進んできている。


 背後は柵、目の前にミミズの塊。

 追い詰められた。

 逃げ場がない。


 マリアニージャは柵に背中をくっつけるほどに後ずさり、荷物を胸に抱えて締めた。

 来る。どんどん近づいてくる。正面に向き合うと、子犬サイズのミミズは脚で、もっとずっとねっとり黒い塊から生えているのがわかった。ミミズ脚の生えたカタツムリとでも言えばいいのか。

 獣ではない。魔物だ。

 初めて見たのに、魔物だとわかった。


 いよいよ迫ってきた赤黒いソレが、マリアニージャのつま先に触れた。

「ひっ……!」

 唯一まともに履けるショートブーツの先にヌラヌラした何かが着いた。そこにミミズがついに触れる。


 気持ちが悪い。

 耐えきれず、マリアニージャは全身を震わせて悲鳴を上げた。


「ぃ……いやぁあああぁあああぁぁぁっっっ!!!!」


 ほとんど同時、鋭く高い音が響き渡った。


 夜空が大きく震え、地面が小刻みに揺れる。

 通りの両側にある建物の壁にヒビが走る。路面の端、小石が巻き上がって空を舞う。土埃が立ち込める。

 そして。

 魔物の赤黒い体が粉々に弾けちった。


「……あ……?」


 目の前で起きたことの意味がわからず、マリアニージャはその場に座り込んだ。腰が抜けたともいう。


 赤黒いミミズの塊がいない。あの耳障りな音もしなくなった。

 遠くで犬や猫や馬や鳥たちの悲鳴のような吠え声が聞こえてくるが、それだけだ。

 弾けて散らばったはずの赤黒い何かの欠片も見当たらない。まるで元から何もなかったかのようだ。

 そのときだ。


「……ふー。危機一髪ってとこだったね」


 男の声がして、マリアニージャは顔を上げた。

 通りといっても狭い道で、大人の男性なら三人横に並べばいっぱいというくらいしかない。つまり、両側に壁が迫っている。声はその上からだ。


 マリアニージャ夜空を見上げるくらい視線をあげると、銀髪の紳士がいた。左手には棒状のものを持っている。気のせいでなければ楽器、フルートだろうか。

 目元を覆うバタフライマスクと黒いマントは舞踏会帰りみたいだ。

 が、それはあり得ないことだろう。


 だって、その紳士は浮かんでいるのだ。

 狭い通りの上に、ぷかぷかと。


 強烈な幻だ。


「惨殺事件が続いてるんだよ。夜歩きは危ない」

 のんびり言った紳士は、「早くお家に帰りなさい、お嬢さん」と笑って消えた。

 は?

 意味がわからない。



 なにがおきたのか? まほう?

 いったい、なにがどうなったのか……?



 頭の中がぐるぐるして、呆然。

 マリアニージャは座り込んだまま動けなかった。



 どれくらい経ったのか。


 カーンと高く響く鐘の音が聞こえた。大聖堂の点鐘だ。

 日付が変わる音だと気がついて、マリアニージャは肩から息を吐きだした。このままだと王都の真ん中で野宿だ。嫁入り前の娘としては最低最悪の行いである。


 随分長い間腰を抜かしていたようで、尻どころか腹まで冷えてしまったが、頭も冷えた。


 冷静になれば、あんな子犬ミミズを生やした化け物が王都にいるはずがない。浮いていた紳士もそうだ。紳士は空に浮かばないし、突然消えたりもしない。おかしい。変だ。あり得ない。


 おとぎ話はおとぎ話、子供を寝かしつけるウソ話である。

 抱きしめたままの食べ物も無事だし、マリアニージャに怪我もない。

 積もった疲労と満たされない空腹のせいで恐ろしい幻覚を見てしまったのだ。そうに違いないと納得した。

 馬鹿馬鹿しい話である。


 マリアニージャは立ち上がり、質素なエプロンドレスの裾を叩いて土を払った。寝静まった狭い通りはいつもと何も変わったところはない。


「……帰ろ! 疲れた!」


 自分を奮い立たせるために声を出してから、マリアニージャは走り出した。

 ちらりと見えたショートブーツの粘ついた汚れには気が付かなかったことにした。

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