第5話 美味しすぎるお仕事(説明編)
イリリア貴族の王都屋敷の造りでは、応接室は最低三つ用意されている。ひとつは自家より上位の貴族を招くための最高の部屋。ここは基本的に贅沢の限りを尽くして、見せびらかすためのものだ。ふたつは商談用あるいは日常用。友人を含め、主一家を訪ねてきた客用の部屋だ。もうひとつは使用人との面談や出入り商人との打ち合わせに使われる部屋で、主に執事が使うことになる部屋だ。
マリアニージャが通されたのはもちろん、執事が使うみっつ目の応接室だ。
執事用とはいってもしっかりと整えられた部屋は申し分のない立派なものだ。ソファもテーブルも照明も、ありし日のアルマ屋敷のものより上質に思えた。
「アルマ伯爵家のご令嬢でいらっしゃいましたか」
「当家はちょーっと困窮いたしまして、わたしが働いておりますのよおほほほほ」
本当はちょっとやそっとの貧乏具合ではないが、なけなしの見栄がそう言わせた。恥ずかしいが、貴族と見栄は同義語だ。
マリアニージャは恥を噛み締めつつ、出されたティーカップを手に取った。北バンダル高原産の茶葉は高級品である。五年ぶりに味わう馥郁に、マリアニージャはこっそり目を細める。
「アルマ伯爵の妹御でいらっしゃれば教養に心配はありませんね。まさしく我が主が求めている人材といえます」
向き合って腰を落ち着けた執事はマティアスと名乗り、口利き屋の紹介状に目を通して言った。
「仕事の詳しいことを教えてください」
マリアニージャはカップを置き、マティアスを見据えた。
マティアスは悠然として、契約書を差し出してきた。素直に受け取る。
「我が主、ダキア王国子爵ヴァジム・エヴグラーレ様がイリリア王国滞在中の妻として、この屋敷を差配していただくのが主業務です。子爵夫人として品位を保つための費用は当家が負担の上、別途、報酬をお支払いいたします」
「お屋敷の差配、ですか」
マリアニージャは思わず天井を見上げた。
正門も、通用口からこの部屋までに通ったところも、屋敷の中はどこもかしこも整えられていた。つまり、執事マティアスで管理できている気がする。
「その他、子爵夫人として求められる一般的な社交も業務に含みます」
「なるほど」
「特記いたしました通り、主と寝室は別。閨事は業務外ですのでご安心ください」
「良かったです」
マリアニージャは、支度金と報酬額の示された契約書から目が離せないまま頷いた。
だって、金額が。すごい。すごいのだ。
借金完済には遠いが、化粧領は取り戻せそうなくらいの金額だ。
化粧領というのは公爵令嬢だった母が嫁入りに持ってきた現物持参金である。母が亡くなると娘のものになるのがイリリア王国のしきたりで、マリアニージャのものになった。
が、もちろん、借金の抵当に入ってしまっている。
美味しい。美味しすぎる仕事である。
子爵夫人といっても外国暮らしの貴族だ。エヴグラーレ子爵に同伴する催しもそう済々のものではあるまい。母の病気のせいで、女主人の仕事は早いうちから手伝ってきているから、屋敷の差配も問題ない。
こんな仕事で、こんな大金をもらっていいのか……?
「……ただし、ひとつだけ」
マリアニージャの胸に疑惑が湧き上がったのを見透かしたのだろうか。マティアスが声を低く、小さくした。
ほらきた。何か怖い条件がある。
マリアニージャは身構えた。
「結婚証書にご署名いただきます。つまり、本当に我が主と婚姻していただくことになります」
「他には?」
「敢えていうならば、子爵夫人として健やかにお過ごしいただくことくらいでしょうか」
マリアニージャはマティアスをじっと見つめた。
執事の赤い瞳は落ち着いていて、少しも揺らがない。むしろ、マリアニージャの頭の中まで覗こうとしているようにも思える。
「わかりました。いつから仕事を始めますか?」
「それでは本日、夕刻からではいかがでしょうか」
マティアスは穏やかなままで言った。
「今日ですか? 今日の夕方から?」
「さすがに無理でしょうか……」
残念そうに言われて、マリアニージャは考えた。
今日の夕方から仕事ということは、つまり。
「夕飯はこちらでいただけると……?」
「はい。ただいまから支度いたしますので、大したものではありませんが。もちろん、歓迎の晩餐は後日改めて」
「いやいやいえいえ」
伯爵家で育ったとはいえ、他家の食事内容についてまで知っている訳ではない。ダキア王国の習慣も詳しくない。
だが、どう控えめに見積ったって、塩スープよりはマシなものが並ぶはずだ。
「わかりました。では、本日から!」
うっかり湧いた唾を飲み込んで力一杯宣言すると、マティアスは優しげな笑顔になった。
「お支度もおありでしょうから、お屋敷まで馬車をお出しいたします」
「あ、それは結構です。同じ通りの家ですし、荷物も少ないですから自分で行って戻ってきますのでお気遣いなく」
笑顔で言い切るのが貴族力。
「それでは一旦失礼いたします!」
マリアニージャは笑顔で挨拶して、エヴグラーレ子爵邸を辞去した。
「マーリア! どうだった? 大丈夫だった?」
マリアニージャが通用口を出たところで、リンダに声をかけられた。心配して、待っていてくれたらしい。
「請けることにしたよ。雇い主の子爵と結婚して、夫人として振る舞ってほしいんだって」
「え、本当に結婚するの?」
「証書がいるんじゃないかな。まあ、大したことじゃないよ。署名するだけだし」
「いや、大したことだって!」
リンダが大きな声を出した。
貴族の屋敷が立ち並ぶ通りであるから、それぞれの屋敷の門番やら使用人やらでそこそこ人の目はある場所だ。
なんとなく、注目を集めてしまった。
「まあ、立ち話もなんだし。うちに来る? 何にもないけど」
「この近くなの? うん、行く。話を聞かせてよ」
あんた、なんか心配だよ、と、リンダが眉間に皺を寄せた。
「……リンダって、なんか、ハンサムだね」
「はぁ?」
直接罵るよりも雄弁な答えに、マリアニージャは思わず笑ってしまった。
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