其の肆 仇討ち無惨




 戸外のざわめきに、平太郎はふと目を覚ました。

 行灯の油はすでに尽きている。天窓から射し込む朝の光が、色褪せて粗末な室内を照らしていた。

 父の亡霊に刃を向けた後もなお、平太郎は懊悩したが、やがて倒れるように寝てしまった。もはや考えることに疲れていた。

 

 朝五つ(午前八時)はとうに過ぎているであろう。平太郎は身を起こしたが、畳に直に寝ていたせいか、身体中が軋むように痛い。苦労しながら、ようやく立ち上がる。

 土間に降り、水を飲もうと水瓶の蓋を開けると、そこに映った己の顔は血の気を失って紙のように真っ白であった。


 ―――死相が浮いてございますぞ、お武家さま。


 あの盲目の怪僧の言葉が、ふいに思い出された。


 「従兄どの、おられますか」

 従弟の市之進の声が戸外から聞こえた。平太郎は、ハッと我に返った。

 つっかえ棒を外して戸を開けてやる。目の前に現れた平太郎の憔悴しょうすいした様子に、市之進は驚いて目を見張った。

 「いかがされた、従兄どの」

 「何でもない。大丈夫だ」

 そう応えて平太郎は狭い座敷に上がる。

 「今日はどうした?」

 市之進はひとまず姿勢を正すと、土間に立ったまま懐から一通のふみを取り出した。

 「母からです。昨日、藩邸に届きました」

 「叔母上から? いったい何用だろう?」

 「さぁ、中身を読んでいないので知りかねますが、とにかく従兄どのに確かに届けてくれとのことです」

 平太郎は文を受け取った。

 「分かった。ありがとう。確かに頂戴した」

 市之進がにこりと頷いた。

 「それでは私はこれで」

 「もう行くのか? 茶でも飲んでいけよ」

 「それがこれから藩の御用があるのです。茶はまた今度。では確かにお渡し致しましたよ」

 そう言って市之進は、忙しなく長屋を出て行った。

 いつも慌ただしい奴だ。赤林半兵衛をついに見付けたことを、言いそびれてしまったではないか。


 一晩中、まんじりともせず思い詰めていたせいか、頭が満足に働かない。

 とりあえず平太郎は、渡された文をその場で開いて読み始めた。叔母は裕福な商家の出だけあって、いつもながら流麗で達筆な字だ。


 そこには時候の挨拶に続いて、最近になって平太郎の母が叔母の枕元に頻繁に立つという、市之進から聞かされた通りの話が書かれていた。


 ―――平太郎、お前の母のみつ殿はとても綺麗な方でした。そのみつ殿が、それはそれは悲しげな顔で私の枕元に立つのです。何も語りはしませぬが、何かを訴えたいのだということは察しが付きます。

 それについて私には、思い当たる節があります。それをお前に教えるべきか否か、私はこれまで散々に悩みました。それはお前にとって、とても信じられず、受け入れ難いものでしょう。しかし、みつ殿のあの悲しげな顔を思い出すと、もはやこれ以上は隠し続けることができぬように思えるのです。

 

 平太郎、もし仇敵、赤林半兵衛に出逢うても、決して斬ってはなりませぬ。何故なら―――。



 その先に書かれてある内容を読んで、平太郎は愕然として言葉を失った。とても信じられず、同じ文面を幾度も読み返す。

 くらくらと目眩がした。あまりの驚きに、天地がひっくり返ったようにさえ思える。いや、平太郎にとってそれはまさに、大袈裟でなく天地がひっくり返ったような衝撃であった。

 「・・・・馬鹿な。とても信じられぬ。この期に及んでなぜ、このような文を」

 手が震えて、その場に文を取り落とす。身体がぐらりと傾き、片手を畳に付いた。突如として明かされたある事実を、どう受け止めれば良いか分からなかった。何も考えられず、しばらくはそこに座り込んだまま呆然としていた。

 「・・・・お恨みしますぞ、叔母上」

 血を吐くような思いで、平太郎は喉の奥から言葉を搾り出した。


 「・・・・これでは、とても仇討ちなど出来ぬではありませぬか」

 

 なんという奇妙な因縁だろう。いったい己は前世においてどのような罪を犯したが故に、これほどの宿業を背負う羽目になったのか。

 そう思うと、渇いた笑いが涙と共に溢れた。

 


 


 

 しばらく呆然としたあと、平太郎はふと思い出したようによろよろと立ち上がった。着替えを済ませ、腰に大小の刀を差し、叔母の文を懐に忍ばせる。そのまま朝餉あさげも取らずに長屋を後にした。

 しばらく歩いて、赤林半兵衛の働く荷揚げ河岸へと辿り着く。彼の姿は相変わらずそこにあった。


 やがて夕刻が迫り、仕事を終えた赤林半兵衛が長屋へと帰って行く。平太郎はその後ろ姿を、何も考えずにただぼんやりと追った。

 そしていつも通り、お妙とおまさの母娘おやこが彼を迎え入れるのを見届ける。鈴の転がるような幼子の笑い声を背中に受けながら、平太郎はその場を立ち去った。


 ひぐらしが啼いている。刻一刻と空が暮れゆく。棚引く雲が茜色に染まるのを眺めながら、平太郎は風に揺れる柳のようにふらふらと歩いた。


 ふと我に返ると、深川は霊厳寺れいげんじの西を通る路地に佇んでいた。

 暗い水面を湛えた堀を挟んで、漆喰の塀が夕暮れのあかに染まっている。寺の境内に黒々と枝葉を広げる木々が、風に吹かれてざわざわと不穏に揺らめいていた。

 この辺りは武家屋敷が多く、昼間でも人の通りは少ない。黄昏刻ともなればなおさらで、犬の仔一匹見当たらなかった。


 「―――いかがなされました、お武家さま。とんと表情の浮かばれぬご様子」


 声のした方に顔を向けると、路地の反対側、武家屋敷の塀を背にして、小柄な人影が佇んでいた。

 襤褸切ぼろきれのような黒い僧衣を纏い、手には奇妙に捻じ曲がった杖を付いた、後頭部の異様に膨らんだ正体不明の男。辻占いを生業とする、あの盲目の怪僧であった。


 彼は影の中からぬうっと抜け出すように現れると、平太郎の前で立ち止まり、その灰色に濁ったまなこを向けた。

 「よろしければ拙僧が占って進ぜましょう」

 「・・・・また、おぬしか」

 ほくそ笑む盲目の僧を、平太郎は静かに見据えた。

 「おぬしはいったい何者だ? およそ人ではあるまい。身なりこそ坊主だが、仏の御使いとも思えぬ」

 「はて、拙僧の正体など知ってどうなさいます。坊主は坊主、侍は侍、ただそれだけのこと」

 「つまらぬ戯言ざれごとを申すな。なぜ、それがしに付き纏う?」

 平太郎は刀に左手を掛けた。魑魅魍魎の類なら、いっそ斬り捨ててくれようと思った。

 盲目の僧が可笑しそうに首を傾げる。

 「付き纏うと言われましても・・・・。拙僧はただ、死の影に引き寄せられて赴くまで。そして拙僧の姿が見えるのは、死に近しい者だけにございます」

 「・・・・どういう意味だ?」

 「わかりませぬか、お武家さま。死者の魂を冥府へとお連れするのが、その昔より拙僧に与えられたお役目にて」

 「・・・・つまり、世に云う死神というやつか。では、それがしは死ぬと申すか?」

 死神とおぼしき僧がゆっくりと一礼する。

 「・・・・いかにも」


 なぜそれがしが死ぬのだ、と問おうとしたとき、背後で声がした。

 「―――お武家さま」

 振り返ると、二間(約三・六メートル)ほど先に、股引きに腹掛け、その上に半纏を羽織った人足姿の赤林半兵衛が立っていた。

 平太郎はゆっくりとそちらへ向き直った。盲目の怪僧はすでにその気配を消している。


 赤林半兵衛が頭を下げつつ、こちらを伺うように見据えた。

 「このところ、あっしの後を付けなすっておいでのようで。いったいどのような用向きでございましょうや」

 「・・・・貴殿は武士であろう。町人のような物言いは止められよ!」

 平太郎の一喝に、赤林半兵衛が静かに身を起こす。夕暮れの影に隠れてその表情は伺い知れなかったが、目だけが獣のように炯々けいけいと光っていた。

 平太郎は目深に被った笠を脱いだ。

 「それがしを見憶えあるか?」

 「高村平右衛門殿のご子息ですな。名前は確か平太郎殿と仰ったか」

 「いかにも」

 平太郎は深く息を吐いた。

 「やはり気付いておられたか」

 赤林半兵衛はゆっくりと頭を横に振る。

 「最初にお会いしたときは気付きませなんだ。昔とはずいぶん、お姿が変わられましたな。どこかで見憶えがある気はしたものの、思い至ったのはその明くる日のことで」

 「逃げようとは思われなんだか?」

 「妻子を残して、ですかな?」

 「あの母娘はやはり貴殿の妻子でござるか」

 平太郎の問いに、赤林半兵衛が頷いた。

 「祝言しゅうげんこそ挙げておりませぬが、夫婦めおとのようなものです。あの娘もそれがしの実の子ではありませぬ」


 三年ほど前のこと。橋の袂で行き倒れていたところを、彼はお妙に助けられた。お妙の前の夫はヤクザ者で、賭場のいざこざが元で刺されて死んでしまった。生まれたばかりの赤子を抱えて、お妙は夜鷹に身を落とす寸前であった。


 「その頃、それがしは流浪の暮らしに疲れ果て、もはやいつ死んでも良いと思っておりました。しかし今はあの母娘を助けて働くことが、生き甲斐になり申してござる」

 「それで人足に身をやつし、荷揚げ河岸で働いておられたか」

 赤林半兵衛は頷くと、改めて平太郎に顔を向けた。

 「しかし、この広い江戸でよくそれがしを見付けましたな」

 感心しているようにも、呆れているようにも見える。

 「これも因縁というやつでござろう。まさかあの幼な子が、己が捜し求める仇敵の子とは思わなんだが」

 奇妙な成り行きに、平太郎はふと笑みを溢した。

 「この八年、それがしは貴殿を討つことだけを考えて生きて来た。その艱難辛苦がどれほどのものだったか、貴殿にお分かりだろうか。それは筆舌に尽くし難い日々でしたぞ。しかし今日、それもようやく終わる」

 平太郎は左手を刀に掛け、親指で鯉口を切った。相手は丸腰である。仕留めるのに造作はあるまい。

 赤林半兵衛は身じろぎもしない。すでに覚悟を決めて来たか。丸腰でここに現れるということは、大人しく討たれるつもりだろうか。そう思った。


 しかし平太郎には、その前に確かめたいことがあった。

 「一つ尋ねたいことがござる。貴殿が我が母、みつと不義の関係に陥ったのはいつのことか。ぜひお聞かせ願いたい」 

 その問いに赤林半兵衛は最初こそ言い淀んだが、やがて意を決したのか話し始めた。


 「・・・あれは二十数年前、平太郎殿が生まれる一年近く前のことでござる。それがしは当時、新婚の妻を病で亡くしたばかりで、身も心も憔悴し切っておりました」


 自ら役目を退いて屋敷に閉じ籠もり、一切の交流を断ち、世捨て人のような暮らしを送った。そんな主を見限って、奉公人たちも次々と辞めてしまった。

 そんなある日、平太郎の母が供も連れずに赤林半兵衛の屋敷を訪れた。彼の死んだ妻と平太郎の母は同郷の出であり、かつ幼馴染みであった。葬儀から半年以上が過ぎ、改めてその仏前に手を合わせたいとのことだった。

 「あのときのそれがしは、気がどうかしておったのだ。救いを求めるように、貴殿の母に縋ってしまった。みつ殿もそれを拒もうとはなさらなかった」

 「無理強いしたのではあるまいな?」

 「―――断じてそのようなことは!」

 彼は平太郎の疑いを咄嗟に否定したが、やがて肩を落として自嘲するように笑った。

 「いや、そう思われても仕方のないことでござる。いまさら証立てのしようもない。だが誓って言うが、決して力づくで手籠めにしたわけではない」


 平太郎はその弁明を黙って聞いた。安易に信じる気はないが、しつこく問い質したところで、彼が否定する限り水掛け論にしかならぬであろう。

 「過ちはその一度切りでござる。それからみつ殿が我が家を訪れることは二度となかったし、それがしもみつ殿に迫るような真似はせなんだ」

 「それはまことでござろうな?」

 「この期に及んで嘘偽りは申さぬ」

 平太郎の念押しに、赤林半兵衛はきっぱりと断言した。


 平太郎は瞑目めいもくした。ならば叔母の文に書かれていた内容にも符号する。

 懐にそっと目をやる。そこには叔母から届いた、あの文が忍ばせてあった。


 ―――平太郎、もし仇敵、赤林半兵衛と出逢うても決して斬ってはなりませぬ。何故なら。


 叔母の文にはそのあと、こう書かれてあった。


 ―――何故なら赤林半兵衛こそ、お前のまことの父に相違ないからです。



 それは平太郎が元服を迎える少し前のこと、所用で屋敷を訪れた叔母に、母は赤林半兵衛との十数年前の不義を告白したのだという。

 過ちはただ一度きり。しかしそのただ一度の過ちで、母は平太郎を身籠ったのである。

 「わたくしには分かるのです。あの子が紛れもなく赤林殿のお子であると」

 それは身の内に命を宿す女ゆえの直感であったか。母は確信を持ってそう静かに話したそうだ。

 叔母にとっては俄かに信じ難い話だった。しかし義兄、高村平右衛門は前妻との間に子はなく、平太郎が生まれたのちも、とうとう次の子に恵まれることはなかった。

 義兄には子を作る能力がないのではないか? 

 叔母は以前からそう思っていたが、平太郎が生まれたことでその疑念は棚上げになった。しかし平太郎が赤林半兵衛の種だとするなら・・・・。

 

 そういえば平太郎は義兄に似ていない。どちらかといえば母親似である。しかし目元や口元に、どこか赤林半兵衛の面影が微かに感じられはしないか。

 「義兄上あにうえはそのことをご存知なのですか?」

 叔母の問いに、母は「いいえ」と答えた。

 「赤林殿は?」

 「もちろん存じませぬ。これは妾ただ一人の胸に秘めたことなれば」

 「決して言うてはなりませぬぞ、義姉上あねうえ。それがお家のためでございます」

 「承知しております。しかし、旦那さまは薄々勘付いておられるご様子。もし強く責められれば、抗えぬやも知れませぬ。もし妾に何かあったときは、どうかあの子をよろしくお願い致します」

 そのときすでに死を覚悟していたのだろう。母はそう言うと、叔母に深々と頭を下げたという。


 そしてあの惨劇が起きた。父が母を斬り捨て、赤林半兵衛の屋敷に押し入ったのは、ただ母の不義だけが理由ではない。父もまた平太郎が、赤林半兵衛の子であると知ってしまったのだ。


 叔母はその事実をずっと打ち明けられずにいた。甥が父の仇とつけ狙う相手が実は本当の父であったなど、前代未聞のお家の恥である。藩の殿様は厳しい方ゆえ、そのような家臣の醜聞を決して許さぬであろう。下手をすればお家はお取り潰し、仕置きは一族にも連座する怖れがある。


 赤林半兵衛が一向に見つからぬのを良いことに、叔母はその秘密をひた隠しにして来た。平太郎への一方ひとかたならぬ援助は、その罪滅ぼしの意味合いもあっただろう。

 しかしこと此処に至って、叔母の枕元に平太郎の母の亡霊がたびたび立つようになった。亡霊は何も語らぬが、ひどく胸騒ぎがした。ひょっとしたら平太郎と赤林半兵衛の邂逅かいこうが、いよいよ迫っているのではないか。

 そうなった場合、知らぬとはいえ平太郎は実の父と殺し合うことになる。果たしてそのような大罪を、甥に背負わせて良いものか。


 散々に悩んだ末、とうとう叔母は平太郎の出生にまつわる秘密を文にしたため、彼に送って寄越したのであった。


 



 ―――深い深い溜息と共に、平太郎は刀から手を離した。

 「相分かった。貴殿の言を信じよう」

 その様子に、赤林半兵衛が怪訝な顔をする。

 「仇討ちは取り止めでござる。妻子の元に帰られるが良い」

 「・・・・何故なにゆえでござる?」

 「貴殿の妻子を再び路頭に迷わせたくはない。それだけでござるよ」

 「いや、待たれよ!」

 赤林半兵衛が信じられないという表情で叫んだ。

 「それでは、貴殿はどうなる? 仇討ちが果たせぬなら藩への帰参は叶わぬはずだ。それにこの八年もの間、それがしを討つために艱難辛苦に耐えて来たのではなかったのか?」

 

 平太郎は、気色ばむ赤林半兵衛を黙って見据えた。

 母はなにゆえ、この男に身を委ねたのであろう。あるいは心のどこかに彼を慕う気持ちがあったのか。だが、その問いに答えが得られることは永遠にない。

 

 奇妙な因縁であった。父を斬ったこの男こそが、血の繋がった己のまことの父であるという。しかしその事実は決して公にしてはならぬ。さりとて斬ることも叶わぬ。父殺しは大罪である。傍目には仇敵を討ち果たしたかに見えても、その事実は死ぬまで己を苦しめるであろう。

 この男に真実を伝える気はない。これまで仇敵と追って来た男を、いまさら父と呼びたくはなかった。

 

 ―――ならば己に残された道はただ一つ。仇討ちを諦め、立ち去る以外にないではないか。



 平太郎は静かに微笑んだ。

 「確かに仇討ちが果たせぬ以上、藩への帰参は叶いませぬ。しかし、それがしはもう疲れてしまった。すべてが虚しゅうなり申した。いまさら貴殿を斬ったところで、両親が生き返るでなし。斬れば貴殿の妻子を路頭に迷わせ、それがしは仇として生涯怨まれることになる。それにいったい何の意味がござろう」

 「・・・・しかし」

 「貴殿は丸腰で参った。妻子を置いて逃げることもせず、それがしの前に現れた。なぜでござる? 潔く討たれるつもりであったか?」

 平太郎の問いに、赤林半兵衛が言い淀んで口を閉ざした。

 「・・・・それがしは貴殿を許すことに致す。武士の身分を捨て、このまま妻子と穏やかに暮らしなされ」

 

 しばしの無言のあと、赤林半兵衛が尋ねた。

 「・・・・平太郎殿、それがしのことは誰かに話されたか?」

 「いや、今朝方、従弟が長屋に来たが、慌ただしい奴でつい言いそびれてしまった。このまま生涯、誰にも話すつもりはござらぬ」

 「これから先、どうして往かれるおつもりか?」

 「さて、どうしたものか。しばらくはゆっくり考えてみるでござるよ」

 いっそ武士を捨てて町人になってしまうのも良い。ふとそう思った。


 「それでは、これにて御免」

 平太郎が一礼し、赤林半兵衛に背を向ける。そして歩き出そうとして、懐の文を手に取って見つめ、これで良かったのだと己に言い聞かせた。


 「―――平太郎殿」


 すぐ背後で、赤林半兵衛の押し殺した声がした。

 平太郎が振り向くと同時に、鋭利な痛みが胸を貫いた。赤林半兵衛の血走った眼が、すぐ眼前で己をひたと睨み付けている。

 彼は懐に忍ばせた匕首あいくちを手に、渾身の力で平太郎の胸を深々と刺したのであった。

 「―――あっ!」

 言葉にならない叫びを上げ、平太郎は震える手で赤林半兵衛の着物の肩口を掴んだ。

 「・・・・なぜ?」

 喉の奥から搾り出した問いは、悲痛であった。

 「貴殿の言を嘘とは思わぬ。しかし人の心は変わるもの。たやすく移ろうものでござる。いつかは心変わりをし、それがしを斬りに来るやも知れぬ」

 「・・・・馬鹿な」

 「すまぬが死んでくれ、平太郎殿。貴殿は追う者の心は分かっても、追われる者の心を知らぬのだ。貴殿が生きている限り、それがしの暮らしに安寧はない。・・・・敵持かたきもちとはそういうものだ」

 赤林半兵衛がひと思いに匕首を抉った。肺腑に血が溢れて、それは喉を逆流し、平太郎の口から大量に零れ落ちた。

 返り血を浴びた赤林半兵衛が匕首を引き抜く。平太郎は数歩ほど後退あとずさりし、それからゆっくりと仰向けに倒れた。その死に様は父にそっくりであった。


 ―――己は武士に向いていない。


 暮れゆく空の果てに瞬く星を見上げながら、平太郎は自嘲した。優しいのではない。甘いのだ。そして弱い。いっそ真実に目を伏せ、父殺しの大罪を背負ってでも、赤林半兵衛を仇と斬ることができなかった。それ故の末路である。

 赤林半兵衛は潔く討たれるつもりなど、最初からなかったのだ。様子を伺い、油断させ、隙を見て返り討ちにする。そのために懐に匕首を忍ばせて来た。それに気付かなかったのは、己の不覚に他ならない。


 

 平太郎は片手に文を握り締めていた。それに気付いた赤林半兵衛が不審の目を向け、血にまみれた手で文を取り上げる。一言も発することができず、平太郎はその様を見守った。


 文を読む赤林半兵衛の顔に、やがて驚愕の表情が表れた。顎が外れんばかりに大きく口を開き、打ちのめされたように平太郎へと目をやった。そして膝から崩れ落ち「あ・・・あああああっ!」と、言葉にならない絶望の呻きを発した。

 

 彼はその手で、血を分けた実の子を刺したのである。


 「嘘だ! ―――嘘だ、嘘だ、嘘だ!」


 半狂乱の叫びが、誰もいない黄昏の路地に響いた。


 鮮血に溢れた喉でヒイヒイと僅かに呼吸しながら、平太郎は地面に突伏つっぷする赤林半兵衛を見つめていた。

 もはや痛みはなかった。苦しいとも思わない。ただ流れる血と共に、全身からすべての感覚が失われてゆくのを覚えた。

 

 赤林半兵衛のすぐ背後に誰かが立っている。それは襤褸切れのような僧衣を纏った、あの盲目の怪僧であった。

 彼は何の表情も浮かべず、灰色に濁った見えないはずの眼で、死にゆく平太郎をただ静かに見守っている。


 僧はゆっくりと片手を上げると、顔の前で拝むようにかざした。

 

 ―――南無阿弥陀仏。


 彼は念仏を唱え始めた。地を這うような、低く哀しげな声色であった。 


 ―――南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。

 

 陰々滅々たる黄昏の闇に、僧の唱える念仏が虚ろに響く。

 赤林半兵衛には、その姿は見えず、念仏を唱える声も聞こえないようだった。ただ狂ったように泣き叫び、平太郎に取り縋っている。

 

 ひどく静かであった。僧の唱える念仏も、赤林半兵衛の悲痛な叫びも、透明な膜で覆われた世界の向こう側のように遠く聞こえる。

 死とはこんなにも静かなものかと思った。


 そのとき誰かが平太郎の顔を、真上からぬっと覗き込んだ。

 父であった。父の高村平右衛門が、血溜まりの中で仰向けに横たわる平太郎を、じっと見下ろしている。

 その姿は死んだときの無様な寝間着ではなく、左肩から右脇腹に掛けての刀傷もなく、もはや赤黒い血で汚れてもいない。かみしもを纏った立派な武士の身なりであった。

 

 父はわらっていた。さも愉快そうに顔を歪め、耳まで裂けるほど大きく口を開き、身体を上下に揺すって、かんらかんらと至極の境地で嗤い続けている。平太郎は、父が声を上げて嗤う姿を初めて目にした。

 そして父の昏いまなこが、怨みと憎悪に煮凝った昏い眼だけが、平太郎の死にゆく様を冷徹なまでにじっと凝視している。


 視界が徐々に霞んでゆく。

 赤林半兵衛の慟哭どうこくも、盲目の怪僧が唱える哀しげな念仏も、父の高らかな哄笑も、次第に遠ざかりつつあった。

 

 ―――あゝ父上。


 声もなく、呟いた。


 ―――あなたが本当に憎んでいたのは、この私だったのですね。


 夜のとばりが降りるように目の前が昏くなり、それきり何も見えなくなった。

 



                 (完) 

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仇討ち無惨 月浦影ノ介 @tukinokage

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