其の参 追う者と追われる者




 それから半月が過ぎたが、赤林半兵衛は一向に見つからなかった。あるいはすでに江戸を出奔しているのかも知れない。

 平太郎の心に諦めが芽生えかけたが、しかしその探索は突如として意外な幕切れを迎えることとなる。


 それは盂蘭盆会うらぼんえも過ぎて、市中を渡る風が秋の気配を帯び始めた頃のことであった。

 その日もまた、平太郎は朝から赤林半兵衛の探索に出掛けていた。

 日本橋周辺を主に捜して半日以上歩いたが、やはりそれらしき人物は見当たらない。 


 日本橋は東海道を始めとする五街道の起点である。表通りには間口の広い立派な大店おおだなが軒を並べ、武士や町人の区別なく大勢の人が出入りしている。

 往来は人の波だ。下手に立ち止まろうものなら、背後からせっ突かれる。供を引き連れた武士や、綺麗に着飾った商家とおぼしき女たち、重い荷を運ぶ牛車とそれを使役する百姓、棒手振ぼてふりの商人、道具箱を抱えた職人、威勢の良い駕籠かき、旅人、僧侶などの他、団子や菓子売り、烏賊焼いかやきなどの屋台も並んでいる。

 どこからこれほどの人が湧くのかと思うほどの賑わいで、これとおぼしき人物を見かけても人相を確かめるだけで一苦労だ。

 日本橋の北側には大きな魚河岸うおかしがあり、ここには江戸湾だけでなく、房総半島や三浦半島、伊豆半島周辺で穫れた魚が集まってくるという。

 反対に橋の南側のたもとには罪人の晒し場があって、縄を打たれた罪人たちが罪状を記した立て札と共に、道行く人々の好奇の目を引いていた。

 日本橋の町と堀を挟んで、西側にいらかを並べるのは大名屋敷である。呉服橋を渡ってすぐのところに北町奉行所があり、その遥か向こうに見えるのは江戸城だ。

 武家と町人の住まいは厳然と隔てられている。

 その狭間にこうして立っていると、平太郎には己の寄る辺ない孤独がひどく身に沁みるように感じられた。

 

 と、往来を歩く人の波が突然左右に割れた。何事かと思う間もなく「旅犬だ、気をつけろ!」という声が聞こえる。

 通りの向こうからやって来たのは、三匹の犬であった。赤毛、黒ぶち、白、いずれも野犬であろう。「生類憐れみの令」の御触れが出されて以降、野犬は「旅をしている犬」ということで「旅犬」と称されるようになった。物は言いようとはいうが、何とも馬鹿らしい話である。

 三匹の犬は通りの真ん中を、我が物顔で堂々と闊歩かっぽして征く。人々は「触らぬ神に祟りなし」とばかり、道の端に寄って黙ってそれを見送っている。

 おたなの品を荒らされようとも、足に食いつかれようとも、それを阻止しようとしてうっかり“お犬さま”を傷付けようものなら、どんな仕置きが待っているか分からない。


 「生類を憐れむように」との綱吉公の意向とは裏腹に、江戸の町人たちの間には、犬に対する敵意が日増しに募るばかりであった。犬の保護が徹底して命じられ、その虐待や殺傷は固く禁じられていたが、憂さ晴らしに犬を殺害する事件は後を絶たない。嫌がらせのつもりか、大名屋敷に犬を投げ込む者までいる。

 数年前には千住宿せんじゅうしゅくの道端に二匹の犬がはりつけにされ「この犬どもは公方くぼうの威光を借りて様々な悪行を働き、人々を苦しめ云々うんぬん」と付け札に書いて、御政道を批判する事件が起きている。下手人は旗本の次男であった。むろん本人は死罪、その父親は切腹である。つい最近も浅草で、犬の生首が晒されるという事件があったばかりだ。

 役人たちはそうした事件の取り締まりに追われ、下手人には厳しい罰が下されたが、その風潮は一向に改まる気配がない。


 犬どもが去って行くと、往来の人々が一様にほっと安堵するのが伝わって来た。

 傍らにいた棒手振りの男が「偉そうに、クソ犬が」と小声で毒づくのが聞こえたが、平太郎は素知らぬ顔でやり過ごした。


 

 


 やがて路地裏に入り、小さな稲荷を見付けた平太郎は、その木陰で少し休むことにした。青々と枝葉を広げる銀杏の根本に腰を下ろし、竹筒に汲んだ水で喉を潤す。

 昼八つ半(午後三時)に差し掛かろうという辺りか。盂蘭盆会を過ぎると、日差しもいくらか秋めいて柔らかくなる。

 平太郎は懐から、四枚に畳んだ半紙を取り出した。仇敵、赤林半兵衛の人相書きである。探索の際の聞き込み用に持ち歩いているが、半紙はとうに黄ばんで劣化しており、そろそろ絵師に頼んで新しいものに変える必要があった。


 半紙のなかの仇敵を、平太郎は黙って睨んだ。

 近所に住んでいたので、彼の姿はよく見憶えている。背が高く、彫りの深い顔は目鼻立ちが整っており、赤林半兵衛が平太郎の屋敷の前を通ると、下女たちがきゃあきゃあとよく騒いだものだ。


 あれから八年が経つが、元同僚が彼を見てすぐに分かったというから、町人の成りをしていても容貌はそれほど変わりないのだろう。歳は平太郎の父が死んだときと同じ、四十九になっているはずだ。


 赤林半兵衛の人となりは、評判を聞く限りでは謹厳実直で真面目。書院番の勤めをつつがなく果たし、酒はあまりたしなまず、学問に秀で、剣の腕も確かだったという。

 若い頃に新婚の妻を病で亡くし、それからはいくら周囲に再婚を勧められても、独り身を通していたと聞く。亡き妻に義理立てしたのかと思いきや、しかしその陰で平太郎の母と密通していたのだから、やはり人の裏側とは分からないものだ。


 彼奴きゃつはいま、この江戸に潜んでいる。この八年、いったいどこをどう彷徨さまよっていたか。

 敵持かたきもちは常に、己の命を狙われる恐怖と背中合わせに生きねばならない。その心労たるや凄まじいものがあるだろう。絶えず周囲を窺い、警戒しているはずだ。あわよくば先に追手を見付け、返り討ちの機会を得ようとしているかも知れない。

 平太郎もまたその危険性を考慮して、探索の際は必ず笠を目深に被って顔を隠している。追う者と追われる者、互いに姿は見えぬども、突き付け合う刃の殺気は常に喉元にあった。

 

 銀杏の根本に腰掛け、しばらく休んでいると、ふいに犬の激しく吠える声がした。それに混じって子供の泣く声も聞こえて来る。

 稲荷の裏手の方である。何事かと覗いてみると、三、四歳ぐらいの女児に向かって、赤まだらの犬が今にも噛みつきそうな勢いで吠えかかっていた。

 おそらく野犬であろう。平太郎は手近な石を拾い上げると、犬に当たらぬよう気を付けて、その足元へ投げつけた。

 「こら、あっちへ行け! シッ! シッ!」

 平太郎は犬の前に立ち塞がって女児を背中に庇いつつ、地面を蹴りつけるなどして犬を追い払おうとした。しかし犬はなお体勢を低くして唸り続ける。


 ―――もし飛びかかって来るなら斬るしかあるまい。

 

 罪人になるのを覚悟で刀に手を掛けると、その気迫に怖れをなしたか、犬は徐々に唸るのを止めて走り去って行った。平太郎はほっと安堵して、刀から手を離した。

 「もう大丈夫だ」

 平太郎は女児に向き直った。幸い噛まれた様子はない。このところ野犬が市中に溢れているため、幼い子供が噛まれる事件が絶えなかった。

 「おまえ一人かい? 親はどうした?」

 平太郎が身を屈めて尋ねると、女児は鼻を啜りながら涙声で言った。

 「・・・おうちが分からないの」

 どうやら迷子のようである。

 「おまえの名は何というのだい?」

 そう尋ねたが、女児はイヤイヤするように首を振るばかりだ。

 参ったなぁと困惑していると、女児が首から紐で何か下げているのに気付いた。

 手に取って確かめると、小さな木の札に名前と住処らしきものが彫られていた。いわゆる「迷子札」というやつである。

 江戸市中ではとかく迷子が絶えない。そのため親たちは我が子が迷子になったときのために、名前と住処を彫った木の札を持たせていた。これを見付けた者が番屋などに届け、親元を捜して子供を返すという仕組みだ。

 迷子札には「佐内町◯◯長屋 おまさ」と彫られてあった。

 「おまえの名は、おまさというのか。では、おまさ、それがしが親元へ返してやろう」

 平太郎は女児の手を引くと、通りへ向かって歩き始めた。


 さんざん人に尋ねて回って、目当ての佐内町に辿り着いたときには日が暮れかけていた。表通りの自身番に詰めていた家主に声を掛けると、彼は喜び勇んで裏長屋へ案内してくれた。

 「昼頃からいなくなってしまって、近所の者が皆で捜していたのです。親切なお武家さまに拾っていただいて本当にようございました」

 刻が掛かったが、辿り着いてみると稲荷からここまで半里(約ニキロ)の距離もない。この江戸で人ひとりを捜すのがいかに困難か、平太郎はそれを改めて実感した。


 女児の手を引いて路地を入って行くと、長屋の住人らしき女たちが喜びの声を挙げた。

 「おまさちゃん見つかったよ! 誰かおたえちゃん呼んできておくれ!」

 恰幅のよい中年の女がそう叫んで、やがて年若い女が路地の奥の方から姿を現した。おまさの母親のようである。

 「おまさ、おまさ! あゝ良かった。どこへ行っていたの!」

 母親が女児を抱き締める。子供を母親の元へ無事に届けることができて、平太郎はほっと胸を撫で下ろした。

 「ちょっと目を離した隙にどこかへ行っちまって。本当になんとお礼を申し上げて良いか・・・」

 母親が幾度も頭を下げて礼を言う。

 「いや、お子が無事でようござった」

 迷子となり親元へ帰れないまま、生き別れになってしまう子供は多くいる。かどわかしに遭い、遠くへ売られてしまうこともあるのだ。それを考えると、平太郎は己の行いが少しだけ誇らしく思えた。

 

 「それでは御免」と立ち去ろうとしたとき、背後で男の声がした。

 「おう、お妙。どうかしたかい?」

 「あ、お帰り、あんた。それが、おまさが迷子になっちまって、こちらのお武家さまが親切に連れて来てくださったんだよ」

 おまさの母親が、平太郎の背後にいる男に声を掛けた。

 「へぇ、そいつは良かった」


 落ち着いた男の声に、どこか聞き覚えがある。


 平太郎はゆっくりと背後を振り向いた。背が高く、彫りの深い整った顔立ちの人足風の男が、すぐ目の前に立っていた。

 「お武家さま、うちの娘が大変お世話になりまして、本当にありがとうございました」

 男が深々と頭を下げた。平太郎は一瞬、刀に手を掛けようとして寸前で思い留まった。視界の隅に、お妙とおまさの母娘おやこがいる。ここで斬る訳にはいかなかった。

 「・・・・いや、ただの行きがかりゆえ、たいしたことはしてござらぬ。それではこれにて」

 応える己の声は微かに震えていた。なんとか平静を保ち、軽く会釈を返して、平太郎はその場を後にした。

 表通りに出て、しばらく歩き、それから路地裏に入って立ち止まった。

 「・・・・見つけた」

 万感の思いと共に呟きが漏れた。思わず両の拳を固く握りしめていた。


 ―――見つけた。ついに見つけましたぞ、父上!


 叫び出しそうになるのを必死で堪える。


 ―――あの男。


 あの男こそが、己がこの八年という歳月をかけて懸命に捜し続けていた父の仇、赤林半兵衛その者に間違いなかった。






 その夜、平太郎は内職の傘貼りも放ったまま、行灯の灯りをじっと見据えていた。

 気持ちはひどく昂っている。それを抑えるように端座し、深い呼吸を繰り返した。

 

 ―――ついに見つけた。


 あの顔に間違いはない。この八年もの間、片時とて忘れたことはなかった。元々、近所ではあるし、子供の頃から顔はよく見知っている。

 では彼奴はどうか。平太郎が見る限り、こちらの正体に気付いた様子はない。笠を深く被って顔を隠していたためもある。が、この八年の間に平太郎の容貌は大きく様変わりしていた。

 元服した頃は多少なりともふくよかな体型だったが、仇討ちの旅を続ける間にみるみる痩せてしまった。少年期から青年期にかけて背が伸びたこともある。面立ちも険しいものとなり、目の下には常に隈が浮いている。元服の頃の自分を知る者が見たら、とても同一人物とは思えぬであろう。

 八年もの厳しい歳月が、平太郎をまったくの別人に変えてしまったのだ。ほんの僅かの対面で、赤林半兵衛がそれに気付いたとは思えぬ。


 あの母娘は、おそらく彼の妻子であろう。実子だとするなら、少なくとも数年前から江戸にいたことになる。何食わぬ顔で町人に化け、人足の仕事で日銭を稼ぎながら、妻子と長屋暮らしをしてきたのだ。

 人の家を滅茶苦茶にしておきながら良いご身分ではないか、と改めて怒りが募った。


 ぬぅ・・・っと、部屋の隅に誰かの立つ気配があった。

 「―――父上」

 そこに現れた父の亡霊に、平太郎は手を付いて顔を向けた。

 「お喜びくだされ。ついに仇敵、赤林半兵衛を見付けましてござる」

 しかし父は何も言わない。無惨な刀傷も露わに全身を赤黒い血で染め上げ、怨みと憎悪に煮凝った昏いまなこで、平太郎をじっと睨みつけるばかりだ。


 「必ずや討ち果たしてご覧に入れまする。その暁には、安心して成仏召されませ」


 そうして一礼する。しかし平太郎が頭を上げたときには、父の亡霊はすでに消え失せていた。

 一匹の蛾が鱗粉を撒き散らしながら、天井の隅でバタバタともがくように飛んでいた。



 翌日の早朝、平太郎は赤林半兵衛が妻子と住む、日本橋は佐内町の裏長屋へと向かった。己の住む深川蛤町から歩いてみると、ほんの一里(約四キロ)ほどの距離しかない。これほど近くに住んでいながら、今まで見付からなかったのが信じられない思いだ。

 物陰に潜んで窺っていると、裏長屋の七つ並んだ戸の一つが開いて、赤林半兵衛が姿を現した。 

 まげを町人風に結い上げ、股引きに腹掛け、その上に半纏を羽織った人足の出で立ちである。こうして見ると、まさしく町人にしか見えない。

 「じゃあ、行って来るぜ」と屋内に声を掛け、赤林半兵衛が長屋を後にした。その背後をたっぷり距離を取って、笠を深く被った平太郎が追う。辿り着いたのは長屋からほど近い河岸で、彼はそこで荷揚げの仕事に従事していた。

 物陰から窺っていると、他の人足に指示を出すなど、まとめ役のような仕事を任されているらしい。

 彼奴がこうして普段通りに仕事をしているということは、昨日会った際にこちらの正体が判明していないということだ。それが気掛かりだった平太郎は少し安堵した。

 

 平太郎は慎重であった。町人の身なりをしようとも、身のこなしはやはり武士だ。いきなり斬り掛かったところで、逃げられる危険性はある。

 それに周囲に人がいるのが厄介だ。以前に聞いた話だが、衆人環視のなかで仇敵に斬り掛かったものの、周囲の者が仇討ちとは知らず邪魔に入ったため、おめおめと取り逃がした例もあるという。

 やるなら彼奴が一人のときを狙うしかない。逃がしたら最後、仇討ちは永遠に叶わぬかも知れぬ。

 平太郎は絶えず物陰から様子を窺ったが、赤林半兵衛が一人になる機会はなかなか訪れなかった。それでなくても日本橋界隈はとにかく人の往来が多い。どこからこんなに人が集まって来るのかと呆れるほどの混雑ぶりである。

 結局その日一日、赤林半兵衛を斬る機会は訪れなかった。

 

 翌日もそのまた翌日も、平太郎は絶えず赤林半兵衛をつけ狙った。こちらの監視を気取られた様子はない。

 彼奴の一日は、長屋と仕事場の往復で終わる。寄る処といえば、仕事上がりの湯屋ぐらいなものだ。飲みや博打に出掛けることもない。いっそ長屋に押し込もうかと思ったが、あの母娘の前でそんなむごいことをする気にはなれなかった。

 

 七日が経った夕暮れ、またもや仇敵の後ろを付け回すだけで一日が終わった。長屋に戻ると、お妙とおまさの母娘が戸口に立って、笑顔で赤林半兵衛を出迎える。その様子は幸せな家族そのものだ。

 この八年、己が手に入れられなかったものを、彼奴は手に入れている。そう思うと何とも言えない遣る瀬なさが、平太郎の胸のうちで渦を巻いた。


 



 その夜、平太郎はまんじりともせず、裏長屋の狭い座敷の真ん中に座っていた。

 天井の隅を、一匹の蛾が鱗粉を撒き散らしながら、バタバタともがくように飛んでいる。昼間は物陰にでも隠れているのか姿を見せないが、夜になるとどこからか現れて、己の神経を苛立たせる。

 まるで亡霊のようだと思った。

 平太郎の傍らには刀が置いてある。それを手に取り、片膝で一歩を踏み出すと同時に抜刀する。仄暗い闇を白刃が横一閃に斬り裂き、静かに納刀すると再び端座して刀を置く。それを幾度となく繰り返した。


 平太郎の心に迷いが生まれていた。


 平太郎は人を斬ったことがない。鍛錬だけは怠らなかったが、それとて絶対の自信には程遠い。

 だが町人となった赤林半兵衛は丸腰である。間合いを外しさえしなければ、よもや遅れを取ることはあるまい。


 ―――それでも己の心に迷いがあればどうか。


 理由は分かっている。あの母娘おやこである。

 赤林半兵衛が長屋に帰るたび、二人は必ず揃って彼を出迎えた。おまさという幼子の鈴を転がすような賑やかな笑い声が、平太郎の身を潜める物陰にも聞こえて来る。

 赤林半兵衛を斬るということは、あの一家の幸せを奪うことに他ならない。そして今度は己が、あの母娘にとっての仇となるのだ。

 それ自体はやむを得まい。怨まれること、憎まれることを怖れて、どうして武士足りえようか。

 だが、この江戸で大黒柱を失った母娘がどうやって生きて行けよう。その後の母娘の運命を思うと胸が塞いだ。

 己が甘いのは分かっている。だがそう簡単にも割り切れぬ。


 ―――己は武士に向いていない。

 

 平太郎はときどき、己をそう自嘲する。

 幼いころは、虫も殺せぬほど臆病であった。草花が好きで、人と争うことが苦手で、およそ我を通すということがない。お陰で近所の悪童どもからは、よくいじめられたものだ。

 「お前は心根が優しいのです」と母は言ってくれたが、しかし父からは反対に「お前は心根が脆弱なのだ」と叱られた。おそらくは、そのどちらも間違いではない。心根の優しさは弱さに通じる。優しさ故に人に付け込まれる。

 武士は非情でなければならぬ。非情でなければ人は斬れぬし、斬れねば敵に遅れを取る。優しさなど邪魔なだけだ。武士道とは人に非ざる道、即ち非道である。

 必ずや父の仇を討つ。そう誓って八年に及ぶ歳月を費やし、いまだ非情にも非道にも成りきれずにいる。改めて己をかえりみるに、そう自嘲するより他になかった。

 「・・・・士道不覚悟なり、か」

 溜息と共に、そう呟いた。


 行灯の灯りが、ついと揺れた。

 部屋の片隅にわだかまる闇のなかから、人の姿をしたこの世ならざるモノが溶け出すように現れる。

 「・・・・七日ぶりですな、父上」

 父の亡霊に、平太郎は身じろぎもせず目を向けた。

 「この期に及んで迷う私を、叱責にでも来られましたか?」

 父は何も言わない。怨みと憎悪に煮凝った昏いまなこで、平太郎をじっと睨みつけている。

 何という浅ましい姿だろう。刀傷も露わに、内臓と骨を見せびらかして、この世の不幸を一身に背負ったとでもいうような顔で、いつまでも怨みがましく化けて出るとは・・・・。


 かつては哀れなだけだった父の姿が、いまはこんなにもうとましい。


 ふと、苛立ちが募った。

 「なぜ成仏なさらぬのです」

 父の亡霊を、平太郎は睨んだ。

 「妻を寝取られたことがそんなに悔しいですか? 間男に返り討ちにあったことがそんなに恥辱ですか? しかしそれもすべて己の不徳の致すところとは思いませぬか?」

 我ながら思いがけず、父を難詰なんきつする言葉が口を衝いて出た。

 「どのような事情があれど、仮にも一騎討ちの末に破れたのです。天っ晴れ、これぞ武士の死に様というものでしょう。己の未熟を恥と思うならまだしも、怨みに化けて出るとはまさに恥の上塗り。もはや潔く成仏なさいませ!」

 平太郎は語気を強めたが、父の表情に動じた様子はない。


 「―――士道不覚悟ですぞ、父上」


 片膝を立てると同時に一歩を踏み出す。平太郎は抜刀して父の亡霊を斬った。

 途端、父の姿はすうっと暗闇に溶けていなくなった。そして両断された蛾が一匹、その身代わりのように畳の上に落ちて動かなくなった。


        

                (続く)


 

 

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