其の弐 孤独な旅




 その日、平太郎は朝から体調を崩していた。


 暑気あたりでもしたか、とにかく身体が怠くて仕方がない。立ち上がると目眩がして、足元がふらつく。額に手を当てると、いささか熱を帯びて感じられた。

 これでは今日の探索は無理だろう。疲労が溜まっているのかも知れない。とりあえず今日一日は身体を休めようと思った。

 戸外から蝉の啼く声が響いて来る。季節は夏の盛りである。

 子供のはしゃぐ甲高い声と、それを叱る母親の声。井戸端で談笑しながら洗濯をする女たちの声。

 裏長屋の壁など薄紙も同然で、隣人たちの話し声や生活音など筒抜けである。じめじめとした蒸し暑さの中に身を横たえながら、平太郎はそれらを聞くともなしに聞いていた。


 幾度となく睡眠と覚醒を繰り返し、いつの間に日がかげったのか、気付くと辺りは少し薄暗くなっていた。天窓から射し込む僅かな光が、薄汚れた壁の染みを照らしている。

 腹が減った。しかし米櫃こめびつは空である。どこかへ食いに出かけようにも、そもそも金がない。水瓶の水を飲みに起きるのも億劫だった。


 煎餅蒲団せんべいぶとんに横になったまま、平太郎は部屋の中を見回した。九尺二間の兎小屋のような貧乏所帯である。土間が一畳半、畳敷きが四畳半。そこに長火鉢や行灯、茶箪笥など僅かな家具が置いてあり、さらに内職の傘が所狭しと並んでいた。

 平太郎は日中、仇討ちの探索に駆けずり回る傍ら、夜は傘貼りの内職に精を出している。

 宿願を果たすためにも、まずは食わねばならぬ。仇討ちの旅に出る際、藩より三十両の手当て金を頂戴したが、それもやがて使い果たしてしまった。親類が援助してくれるが、そればかりにも甘えられない。


 平太郎は旅先でも自ら金を工面するよう努めた。人足に混じって日雇いの力仕事をしたり、寺子屋で子供たちに読み書きを教えたり、路銀のないときは旅籠はたごの土間に寝かせて貰う代わりに下働きをしたり、やれることはなんでもやってきた。

 苦労して金を稼ぐのは生活のためか仇討ちのためか、自分でもときおり分からなくなる。

 故郷にいた頃は金を稼ぐ苦労など知らなかった。五百石の家柄とはいえそれほど裕福でもなかったが、少なくとも衣食住に困ったことはない。

 庶民がどれほど苦労して生活を立てているか、平太郎は旅に出て初めて知った。

 地方の農村によっては困窮こんきゅうするところもあり、間引きと称して子殺しが常態化している現実を目の当たりにしたこともある。


 ―――それにしても八年!


 寝返りを打ち、天井の染みを見つめながら平太郎は嘆息した。

 よもや八年の歳月を費やしてなお、目指す仇敵に辿りつけないとは。

 むろんそう簡単に仇討ちが果たせるとは思わなかった。よくて数年は掛かるだろうと、故郷を出るときに覚悟した。しかしそれにしても、これほどの艱難辛苦かんなんしんくに喘ぐ羽目になろうとは。

 この広い天地の間でただ一人の仇敵を捜し当てるなど、大海で印の付いた一匹の魚を捕まえるようなものである。

 昨年の元禄十五年十二月、かつての赤穂藩士四十数名が、高家筆頭だった吉良上野介の邸宅に討ち入り、見事その首級を挙げて亡き主君、浅野内匠頭の無念を晴らしたが、最初からはっきりと仇敵の居場所いどころが分かっていたのは彼らの幸運であった。


 居場所の分からない相手を捜すほど、無駄骨の折れるものはない。なかには二十年の歳月を費やして、ようやく仇討ちを果たした例もあるという。

 それでも本懐を遂げたならまだしも、武運に恵まれず返り討ちにされることもある。


 ―――だが、最も怖ろしいのは。


 平太郎は思った。

 最も怖ろしいのは、返り討ちにされることではない。それは仇敵をついに捜し当てることができず、藩への帰参も叶わず、流浪の身となって擦り切れるように年老いて死んでゆくことだ。

 武士として生まれながら主君に奉公もできず、何を成すこともなく朽ちてゆく。そんな人生に果たして己は耐えられるだろうか。

 もし母が不義を働かなかったら、あるいは父が赤林半兵衛を討ち果たしていたら、己は今も故郷で暮らしていたであろう。何らかのお役目を任され、妻を娶り、子に恵まれていたかも知れぬ。

 それを思うとこの八年の歳月が、まるで掌から零れ落ちる砂のように、ただ虚しく感じられてならなかった。


 身体が弱ると心まで弱ってしまう。気が滅入っていると考えがどうしても後ろ向きになる。これではいかんと思いつつ、平太郎はまた寝返りを打った。


 ―――あの男。


 平太郎は数日前に出会った、あの不気味な盲目の怪僧を思い出した。

 彼奴きゃつによれば、己は近いうちに必ず仇敵に巡り会えるという。

 あんな怪しげな者の言うことを信じようとは思わないが、それでもひょっとしたらという僅かな期待もある。だがそれは己の死と引き換えでもあると、あの男は予言めいた不吉を口にした。


 ―――死相が浮いてございますぞ、お武家さま。


 日が一段と翳った。天窓から射し込む光が失われ、辺りがしんと静まり返る。

 部屋の隅に、誰かがそっと立つ気配があった。


 ―――父上。


 それはやはり亡き父の姿であった。

 左肩から右脇腹にかけての無惨な刀傷。ぱっくりと開いたその傷口から、赤黒い肉と白い助骨が覗いている。

 顔は血の気を失って青白く、両のまなこは昏く澱んで怨みと憎しみに満ちていた。

 

 父が亡霊となって現れるようになったのは、いつの頃からだったか。

 むろん最初は怖ろしかった。いまだ父の仇を討てぬ息子を、叱りつけに来たのだろうと思った。震えながら手を合わせ、どうか成仏して欲しいとひたすら祈った。

 しかし父は何も語らなかった。怨み言の一つすら発しない。ただ昏く澱んだ眼で、平太郎を睨みつけるばかりである。

 それからたびたび、父の亡霊は現れるようになった。今までは夜中に部屋の隅に立つことが多かったが、この頃は昼夜や場所を問わずに現れる。

 往来の辻に、山中の一本道に、飯屋の戸口に、舟を待つ川岸に、雨宿りの軒先に、父の亡霊はまるで陽炎のようにふいに現れ、そしていつの間にかいなくなる。気付く者は誰もいない。それが見えるのは平太郎のみであった。


 あるいはこれは、己の心の迷いが見せる幻ではないか。

 亡霊といえども己の意思があるなら、一言ぐらい喋ってみれば良い。死人になったからといって、急におしになる道理もあるまい。

 喋れないのはこれが幻だからだ。平太郎は人並みに信心がある方だが、この頃はそんな疑いも抱くようになっていた。


 部屋の隅に現れた父の亡霊、あるいは幻は、相も変わらず平太郎をただ睨むばかりである。

 平太郎の心に、ふと苛立いらだちが募った。

 「なぜ私をそのように睨まれるのです、父上」

 溜め込んでいた言葉が、思わず口を衝いて出た。

 「あなたの仇を討つため、これほど苦労しているというのに!」

 だが父は応えない。それが余計に苛立ちを募らせる。 

 「それほどお怨みなら、いっそ赤林半兵衛の元に化けて出れば良いのです。それとも己を斬った相手を前にするのは、亡霊となっても怖ろしいか!?」

 父は無言である。平太郎の気迫に臆したわけでもあるまいが、やがて壁に溶けるように消えてしまった。

 「・・・・なぜ何も仰っしゃらないのです、父上」


 平太郎は肩を落とした。

 父は元来、無口な性格であった。いや、むしろ陰気というべきか。平素より必要以上の言葉を発せず、笑った顔を見たことがない。いつも口をへの字に結び、機嫌が悪そうに押し黙っている。それでいて、何か些細でも気に入らないと烈火の如く怒るのだ。奉公人たちは怖れをなして父の顔色を伺い、屋敷のなかは常に張り詰めたような空気が漂っていた。

 あれでも勤めはつつがなく果たしていたのだから、武士としては立派であったのだろう。しかし家庭人としては、非常に気難しく扱いにくかったと言わざるを得ない。

 あるいは母が不義に走ったのは、父のそのような性格にも起因していたのではあるまいか。


 母は父より十五歳も歳下であった。十七のときに貧しい郷士の家から嫁に来た。父はそのとき三十二で、これが二度目の婚姻である。前の妻は子が出来ないことを理由に離縁していた。

 母が後妻に来て二年後、平太郎が生まれたが、他に兄弟はない。父は子が嫌いだから、跡継ぎ以外作らなかったのだろうと思った。


 平太郎の母、みつは武家の妻としてだけでなく、母親としても申し分のない女性であった。

 家のなかに絶えず気を配り、近所付き合いや親戚筋との関係など、何一つ疎かにしたことはない。平太郎にも細やかな愛情を存分に向けてくれた。その母がなぜ、どうして赤林半兵衛との密通に及んだのか、それだけが謎であった。

 

 武家の妻女の不義密通など、別に珍しいことではない。夫が江戸藩邸に詰めて留守の間に、一人残された妻が寂しさから奉公人や出入りの商人と関係を持ってしまう、などは昔からよくある話だ。とある藩では大名の奥方が、こともあろうに茶坊主と駆け落ちした例もあると聞く。


 不義密通は死罪だが、昨今の太平の世では必ずしもその通りになるとは限らない。返り討ちにされたとはいえ、父のような「妻敵討めがたきうち」こそ珍しいのだ。

 たいていは家の恥が公になるのを怖れて、示談するなど内々で処理してしまう。離縁するにしても妻の実家が裕福で嫁入りの持参金が多額であると、その実家から持参金の返納を求められることもあるため、夫側が仕方なく泣き寝入りする場合もある。


 多かれ少なかれ、そうした話はどこにでも転がっていた。

 表向きをいくら立派に取り繕ったところで、その裏にどんな生々しい欲や因業が渦を巻いているか分からない。それは人も家も同じである。そうした現実の姿を、平太郎はこの八年の間に嫌というほど見て来た。

 

 母もやはり愚かな一人の女であったか。そう思えども、平太郎は母を憎む気にはなれなかった。母の不義密通は、父の母に対する振る舞いにも原因があると思っていたからだ。

 十五も歳上の男に嫁がされ、その肝心の夫は無口で陰気、おまけに短気で怒りっぽいとなれば、妻としての心が離れるのもやむを得まい。そこに何らかの魔が差せば、不義に至るのもまた道理というものだ。

 そんなことをつらつら考えるうちに、平太郎の目蓋が重くなった。そこから睡魔に落ちるまではあっという間であった。



 目が覚めると、身体がずいぶん楽になっていた。熱も下がっている。やはり疲労が溜まっていたのだろう。一日中寝ていたお陰で、今朝方より気分がだいぶすっきりしている。

 戸口の障子に射す光は、茜色を帯びて明るい。まだ昼七つ(午後四時)を過ぎた辺りか。

 寝るのにも飽きた。傘貼りの内職でもやろうかと身を起こしたとき、戸口に誰かの立つ影があった。


 「従兄いとこどの、おられますか?」

 三歳下の従弟、市之進いちのしんの声だった。「おう、入れ」と声を掛けると、建て付けの悪い戸がガタガタと開いて、少し幼さの残る人懐っこい顔が現れた。

 「在宅で良かった。今日も探索に出ているのかと思いました」

 「・・・・今日はあいにく体調が悪くてな」

 腰の刀を外して畳に腰を下ろす市之進に、平太郎はバツの悪そうな顔を向けた。

 「お疲れなのでしょう。たまには休まれるとよろしい」

 市之進は平太郎が仇討ちの旅に出たとき、助太刀として共に来てくれた叔父の息子である。その叔父上は腰を悪くして今では隠居の身だ。市之進は父親の跡目を継ぎ、今年から勤番として江戸藩邸に詰めている。

 歳が三つしか違わないので、子供の頃はよく一緒に遊んだものだ。一人っ子の平太郎にとっては、弟のようなものである。江戸詰めになってからは、こうしてときどき様子を見に来てくれる。


 「ところで赤林半兵衛は、まだ見付かりませぬか?」

 「うむ・・・思い当たる場所は手当たり次第に捜しているのだが」

 江戸市中に荷揚げ河岸かしだけでも百ケ所以上はある。平太郎が捜しているのは、赤林半兵衛が目撃された永代橋から大川の周辺だが、それでも膨大な数の人足が働いているのだ。およそ平太郎一人の探索では限界があった。


 「江戸市中には百万の民がいると聞きますからね。私も江戸へ出て来たときは、あまりの人の多さに呆れたぐらいですよ」

 市之進が平太郎を慰めるように言った。

 「それに野犬の数が異様に多い。往来の真ん中を大威張りで歩いていますよ。町人どころか武士までが避けて通るぐらいだ。さすがは“お犬さま”と呼ばれるだけ―――」

 そこまで言って、市之進はハッと己の口を手で塞いだ。うっかり口を滑らせたのだろうが、幕政批判どころか揶揄やゆですらご法度はっとである。それが上役の耳にでも入れば、お役御免では済まないかも知れない。

 平太郎は苦笑いした。

 「聞かなかったことにするさ」

 「面目ない」

 市之進が頭を掻いた。


 「生類憐れみの令」は、五代将軍徳川綱吉公、肝煎りの政策である。

 世に慈しみの心を涵養かんようするのが目的とのことだが、実は綱吉公は迷信に囚われているともっぱらの噂だ。

 綱吉公は戌年の生まれなので、犬を大切にすれば天下泰平や国土安全、御身の長寿が保証されると、どこぞの位の高い坊主が余計なことを吹き込んだらしい。

 さらに綱吉公は嫡子を幼くして亡くし、いまだ世継ぎに恵まれずにいた。それは前世で殺生を多くした報いであり、その償いとして今生では生類を憐れまねばならないのだという。


 確かに生類を憐れむことは大切だが、しかしこの御触れは人より犬猫などの畜生を優位に置いたため、逆に庶民を苦しめることになった。

 なにせおたなの品を荒らしたり、人に噛みついた犬を蹴っ飛ばしただけで流罪である。貧しい親子が野犬を捕まえて食したため、斬首になった例もある。


 「犬毛付帳いぬけつけちょう」といって、人別帳のように家ごとの飼い犬の数や毛の色までが記録された。さらに町や村ごとに野犬の数が報告され、責任を持って飼育するよう公儀に命ぜられたが、しかし野犬まではとても管理仕切れるものではない。

 そのため江戸市中には野犬が溢れることになった。腹を空かせた野犬が人を襲い、捨て子を食い殺す事件まで起きている。


 そうした野犬を収容するため、大久保、四谷、中野に巨大な犬小屋が作られた。特に中野の敷地は二十万坪に及ぶという広大さだ。

 収容した野犬はおよそ十万匹を越え、その世話に掛かる費用は年間で約十万両。しかもそれは「御犬上ヶ金おいぬあげきん」と称して、町人や百姓から徴収される。これがまた下々にとっては大変な負担である。


 人間より犬畜生が大切にされる、そんなおかしな世の中であった。そのため町人たちは皆、綱吉公を陰で「犬公方いぬくぼう」と呼び、悪しざまに罵っている。

 平太郎も往来を歩くときは、うっかり“お犬さま”に関わらないよう気を付けている。万が一にも御触れを破って罪人になってしまったら、仇討ちどころの騒ぎではない。


 「ああ、そうだ。今日はこの用向きで来たのでした」

 市之進が慌てて話を変え、懐から小さな包みを取り出した。そしてそれを畳の上に置き、平太郎の前に差し出す。

 「二十両あります。役立ててください」

 平太郎は深々と頭を下げた。

 「かたじけない。本当に迷惑をかける」

 「いや、なに。私の金ではありませんから」

 市之進はそう言って屈託なく笑った。彼の母は藩でも指折りの、裕福な商家から嫁に来たのだった。幼い頃から平太郎を可愛がっており、いまも心配してこうして援助を惜しまないでくれる。


 「叔父上と叔母上はお元気か?」

 もうしばらく会っていない。人の好い二人の顔が懐かしく思い出された。

 「親父殿は相変わらずですよ。腰が痛いといつも零しております。ですが母上は・・・・」

 「おや、体調でも崩されたか?」

 「いや、元気は元気なのですが、妹のふみによると最近は何かと気鬱らしいのです。ぼんやりと考えごとをしていることも多く、心が晴れぬ様子だとか」 

 「それは心配だな。何か気掛かりなことでもあるのだろうか?」

 「・・・・それが」

 と、市之進は少し言い淀んだ。心当たりがあるのだろう。重ねて問うと、躊躇ためらいながらも話してくれた。

 「それがどうも妙な話なのですが、妹が言うにはですよ。最近になって母の枕元に、従兄どのの亡くなられた母君が頻繁ひんぱんに立つというのです」

 「私の母が? いったいなぜ?」

 「さぁ・・・何か伝えたいことがあって現れるのか。妹がいくら母に問い質しても、それ以上は答えてくれぬのだとか」

 平太郎の母と市之進の母は、平素から仲が良かった。他人には話せない悩みも、お互いに相談し合っていたようだ。それだけに母が亡くなったときの、叔母の嘆きようは深かった。

 

 それにしても己のところには父の亡霊が現れ、叔母の枕元には母の亡霊が立つ。これはいったい何を示唆しているのか。

 平太郎は考えたが、もちろん何も思い当たる節はない。彼は市之進に向き直った。

 「とにかく大事にするよう伝えてくれ。私もあとで、お礼も兼ねて見舞いの文を送ろう」

 「わかりました」

 そのとき平太郎の腹の虫がグウと鳴った。朝から何も食べていなかったことを思い出した。

 「蕎麦でも食いに行きますか」

 「そうしよう」

 市之進に笑って応じ、平太郎は立ち上がった。



                (続く)

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

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