仇討ち無惨
月浦影ノ介
其の壱 仇討ちと亡霊
その夜、
悪い夢を見ていた気がする。目覚めて、夢だと気付いてほっとしたのも束の間、そこにあるのはただ貧しく色褪せた暮らしの現実であった。
平太郎は
吊るした蚊帳の向こう、暗い闇がわだかまる部屋の隅に、誰かが立っている。
―――父上。
声に出さず、呟いた。
そこに立っているのは、父の亡霊であった。
あの日に死んだ寝間着のままに、血の気を失った青白い顔で、左肩から右脇腹にかけて袈裟懸けに斬られた刀傷が無惨である。赤黒い血にまみれた凄惨な姿で、何を語るでもなくただ立ち尽くしている。
―――おいたわしや、父上。いまだ成仏召されぬか。
父の
いまだ仇討ちを果たせぬ息子を不甲斐なく思うたか。平太郎はその場で居住まいを正すと、手を付いて訴えかけた。
「仇敵、
そして額が蒲団に付くほど頭を下げる。しばらくして身を起こすと、父の亡霊はいずこへと消え失せていた。
高村平太郎が父の仇討ちのために故郷を旅立ったのは、元服して間もない頃のことであった。
北関東のとある小藩に武家の子として生まれ、何不自由なく育った。父の
あれは忘れもしない、元禄八年(一六九五年)六月のこと。
ひどく蒸し暑い夜であった。その日の夜五つ半(午後九時)頃、平太郎は自分の屋敷へ帰宅した。近所の悪友たちと、川原にある刑場へ肝試しに行っていたのである。
武家の子が肝試しに興じるのは珍しいことではない。刑場に晒された罪人の生首の元へ一人ずつ赴き、その額に墨でバツ印を付けて戻って来る。そうして度胸や胆力を養うのが昔からの習いだ。
「臆病者」の
すぐ傍らに下男の佐吉が、腰を抜かして座り込んでいる。
「・・・・だ、旦那さまが斬られたのです」
震える声で、佐吉がそう証言した。
―――不義密通を働いた
父は佐吉にそれだけを言い残すと、血刀を手に屋敷を飛び出したのだという。
「父上はどこへ向かわれた!?」
平太郎が問うたが、佐吉は呆けたように首を横に振るだけだった。
しかし父の行方はすぐに判明した。騒ぎを聞きつけた近所の者が報せに来てくれたのだ。
父が向かったのは近くに住む、赤林半兵衛という侍の屋敷であった。
平太郎が駆け付けたとき、父もまた無惨な姿となって、かの屋敷の庭先で仰向けに倒れ、こと切れていた。
左肩から右脇腹にかけての
父、平右衛門が佐吉に言った言葉と、その前後の状況から察するに、平太郎の母と赤林半兵衛は不義密通の関係にあったのだろう。
赤林半兵衛もまた三百石をいただく中士で、藩の書院番を勤めていた。歳は四十一。両親はすでに亡く、十五年以上も前に新婚だった妻を病で亡くして以来、
二人がいつ頃から通じていたのか分からないが、不義密通は死罪である。
二人のただならぬ関係を知った父が、母をその場で手討ちにし、さらに密通相手である赤林半兵衛を斬りに向かったが、逆に返り討ちにされてしまった、というのがおおよその見方であった。
おそらく父の誤解による冤罪ということはあるまい。
父を返り討ちにしたこと自体は、武士の振る舞いとして
しかし母との関係がもし冤罪であるなら、なぜ公儀においてそのように申し開きをしないのか。
一言の弁明もなく逃亡した事実そのものが、赤林半兵衛と母の不義が
両親の弔いを済ませた平太郎は、すぐさま藩に仇討ちの許可を願い出た。
母を犯され、父を殺された。このままでは武士の面目が立たぬ。なんとしても恥辱を雪がねばならなかった。
無事に仇討ちの免状が下され、平太郎は仇討ちの旅に出た。父の弟である叔父が助太刀として共に来てくれた。
赤林半兵衛の親類縁者は元より、彼の立ち寄りそうな所を
仇討ちの旅に出て数年後、叔父は持病の腰痛が悪化したため、やむなく故郷へ帰ることとなった。それからはずっと一人、旅空の下である。
赤林半兵衛はいずこへ消え失せたのか。
いつ頃からか、父の亡霊が平太郎の身近に現れるようになった。その怨みいまだに晴れず、仇を討てぬ息子の不甲斐なさに成仏できぬと見える。
そして仇討ちの宿願が果たせぬまま、いつしか八年の歳月が過ぎて行ったのであった。
翌朝、平太郎は
―――赤林半兵衛は江戸にいる。
江戸藩邸からそう報せが届いたのが、半年ほど前のことだ。江戸詰めの藩士が、永代橋の近くで、赤林半兵衛によく似た男を見かけたのだという。
藩士は赤林半兵衛の元同僚で、その顔をよく見憶えていた。人混みに紛れて見失ってしまったが、まず赤林半兵衛その人で間違いあるまいという話である。
その赤林半兵衛によく似た男は、股引きに腹掛け、その上に
江戸湾には全国各地から大型船によって物資が運ばれ、そこで小型船に荷を積み替え、大川から各水路を通って江戸市中にもたらされる。そのためそこで働く人足や職人、商人の数も多い。赤林半兵衛がそのなかに紛れていたとしても不思議はなかった。
平太郎がその報せを受けたのは、会津にいるときであった。赤林半兵衛の剣の師匠が会津にいると聞き、そこに身を寄せていないかと赴いたのだが、かの師匠はすでに亡くなっていた。
これから何処を捜すべきかと思案しているところへ報せが届き、平太郎はすぐさま江戸へ向かった。そして深川蛤町の裏長屋に
しかしどれだけ捜そうとも、目指す仇敵は一向に見つからない。そうこうするうちに半年が過ぎ、疲労と焦りが募るばかりであった。
その日の探索もまた徒労に終わった。夕暮れが空を茜色に染め、人々が帰路に着くなか、平太郎も重い足を引き摺って、一人侘しく家路を辿った。
富岡八幡宮のすぐ裏手である。この辺りの門前町は人通りも多く賑やかだが、しかし一歩でも裏通りに入れば、人っ子一人いない寂しい場所も多い。
左手に通る堀を、客のいない
「―――もし、そこのお武家さま」
ふと、背後から声をかけられた。振り向くと、柳の下に小さな台を置き、腰掛けに座った辻占いとおぼしき男が、こちらに顔を向けている。
左右を塀と堀に挟まれた一本道である。つい先刻、その柳の下を通った際には誰もいなかったはずだ。そう怪訝に思いながら、平太郎は男に近付いた。
「・・・・それがしに何用か?」
「よろしければ占いは
男は老人であった。歳の頃は六十にもなろうか。禿げ上がった頭に頭髪は一本もなく、後頭部が異様に大きく膨らんでいる。それとは反対に顔は皮膚がしぼんで皺だらけであった。
着物は
足が悪いのか、腰掛けに奇妙に捻じ曲がった杖が立て掛けてあった。僧衣の袖口から覗く腕は痩せ衰えて骨が浮いて見える。
乞食のような男だと思った。いや、おそらく乞食と変わらぬ暮らしをしているのであろう。見世を出すにも縄張りというものがある。八幡宮の境内や門前町の表通りに、この男の居場所はあるまい。
そして、よく見ると男は盲目であった。
「その目でどうして、それがしが武士と分かった?」
「歩き方で」
盲人は目が見えぬ分、耳など他の感覚が鋭くなるという。おそらくは足音で判断したのだろう。
「あいにく金がない。またにしてくれ」
「
平太郎は男を不審に思った。
「・・・・なにゆえ、無賃でよいと申すか?」
男が薄く笑う。
「―――お武家さま、人をお捜しでございましょう?」
平太郎は思わず息を呑んだ。
不気味な男であった。怪僧というべきか。しかしこの男の占いというものに興味も湧いて出た。無賃で良いと言うのなら、観て貰うのも悪くない。
「その目でどうやって占う?」
「左の
「こうか?」
平太郎が言われた通りに左手を出す。男は骨ばった手で、平太郎の手首を掴んだ。そしてもう片方の手で指先を使って、平太郎の掌の皺をなぞり始める。
気持ちが悪かったが、平太郎は我慢した。
「おお、これは何とも奇妙な宿縁でございますな」
男が口角の片方を吊り上げた。
「ご案じなさいますな。お武家さまが捜しているお相手は、間違いなく江戸市中におりますぞ。必ずや刻を経ずして巡り会えましょう」
「それは
適当に嘘を言っているのではあるまいなと思ったが、盲目の男は
「真でございますとも。奇妙な因縁の糸を辿って、必ずやお会いできましょう。しかしお気をつけ召され。かの者との
仇討ちに返り討ちの危険は付き物だ。いまさら臆する気はない。
「目的が果たせるなら別に構わぬ」
「いいえ」
傲然と言い放つ平太郎に、男が静かに答えた。
「死ぬるはお武家さま、ただお一人にございます」
「・・・・なに?」
男が顔を上げ、ニタリと
「―――死相が浮いてございますぞ、お武家さま」
「このめくら、
男の手を振りほどき、刀の柄に手を掛たが、さすがに抜刀するのを
「・・・・お武家さまを相手に無礼が過ぎましたな。賤しいめくらの
男が腰掛けに座ったまま、静かに頭を下げた。
平太郎は何も言わず、舌打ちして背を向けた。そして少し歩いて、待てよ己は仇討ちのことなど一言も喋っていないぞと気が付いた。
「―――南無阿弥陀仏」
念仏を唱える男の声に、平太郎は思わず振り返った。地の底を這うような不気味な声色であった。
しかし柳の下にいたはずの男の姿も、その前にあった小さな台や腰掛けも、まるで最初からそこになかったかのように消え失せていた。
背筋がゾワリと粟立った。先刻まで己が相手にしていたのは、ひょっとすると
いつの間にか日が沈み、暗い夜の
その声に追い立てられるようにして、平太郎は足早にそこを立ち去ったのであった。
(続く)
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