第7話

 むくりとベッドではない場所で物の軋む音がした。アサギリはマージャリナに揺り起こされた。ストレッチャーに寝ていた人物が身体を起こしている。アサギリは寝呆け眼で目元を擦った。また寝かける。

「ここは?」

 長い黒髪を靡かせてその者はアサギリたちのいるベッドに首を曲げた。包帯の上に機械のチョーカーが嵌められている。

「ミナカミ先生……」

 金色の双眸が懐かしく感じられる。彼はアサギリを見つめ、ふと目を見開く。そして俯いてしまった。

「俺は……」

 意識を取り戻した自殺未遂の少年は自身の首に手を伸ばす。それからまたアサギリを見遣った。彼女は冷たく目を逸らす。マージャリナが間を取り保とうとする。それが哀れでアサギリか気持ちを切り替えたつもりになる。

「おはよう。目覚めはどう?」

「……ミナカミ先生。俺は……………生き延びたんだな?」

「ここが苦獄でないなら、そうかも知れないね」

 ベッドとストレッチャーには距離がある。埋まることはない。

「すまなかった。苦労かけた」

「それはないけど」

 この若い軍人は国と共に殉じるつもりであったところを、金属製の首輪が邪魔をし、目撃者も多数で、即座に治療へ移れる場所であった。彼の本懐を遂げられなかったのは彼の力不足ではなかった。アサギリは疑念を抱きながら、この殉国したがっていた若い軍人の生きる方へ協力とまではいかずとも、妨害さえもしなかった。

「ただ、輸血してくれた人はいっぱいいるからね。わたしは違うけれど」

「……そうか」

「たとえばこの人とか」

 マージャリナは首を傾げた。金色の目が全裸の男を捉えた。そしてぎこちないこの国の言葉で礼を述べる。アサギリは訳の分かっていないマージャリナに補足した。

「とりあえず医局に連絡するから」

 業務用端末を操作する。夜勤の職員に繋がった。これから検査をすることになった。

「夜か……すまないな」

 アサギリは適当に着替えてジャンパーを羽織った。ストレッチャーを押そうとしたときに降りようとする男を留める。

「なんで降りるの」

「女に押してもらうわけには……」

「女、女って起きてもそれ。いいから乗っていて」

 散らかったチューブやコードをベッド部分下の荷台にしまう。

「重いだろ」

「買い物カートよりはね」

 気を遣う割りには上体を起こしているため余計に重く感じられる。

「横になっていてくれる。そのほうが軽いから」

 マージャリナに一言残して自室を出る。レーゲンは温順しく横になっていた。

「ミナカミ先生」

 機嫌を窺うような金色の瞳を向けられる。アサギリは見なかった。目も合わせはしない。

「あとは医局の人が前みたいにやってくれると思うよ」

 荒波に呑まれ人間の浜辺に打ち上げられた人魚みたいに彼は上体だけ捻って起きた。

「俺は、どうなる?」

「わたしにそれを告げる権限はないよ」

 また無責任なことを言って、彼は次はどのような手段を用いて国に殉じるのか。舌でも食い千切るのだろうか。はたまた見縊っている女一人など容易に蹴り伏せて再度脱走を試みるのか。霹靂神はたたがみ統治ノ地の歴史的猛将を真似て床に頭を叩き付けるのだろうか。

「俺は……」

「わたしがすることは検査に連れて行くことだから。それ以外のことは言えない。訊いてもムダ」

 幼い軍人は昼間の猫のような目を泳がせる。どうしていいのか分からないといった様子である。アサギリはその表情を見て、また彼の内心をそれなりに読み解いたつもりだが、何も言いはしなかった。

 基地医局に殉国希望者が送った。夜勤の職員にストレッチャーを渡し、自動ドアに消えるまで自刎紛いのことをしたあどけない軍人は上体を起こしてアサギリを見ていた。




 医局からメッセージが入っているためにアサギリは早くに起きていたが現場には向かっていなかった。多目的棟の屋上でストローを齧っている。コーヒー牛乳を啜った。時間指定はなく、また必ず行かねばならぬ、来てもらわなければ困るというような約束事でもなかった。気分次第だということだ。

「おはよう、ミナカミ。珍しく早いな」

 顧みるとイセノサキである。まだ正式な始業時刻まで間がある。早出残業だろうか。すでに整髪料で毛並みをがっちりと整えている。制服も隙のない着こなしだ。

「おはようございます、イセノサキさん。もしかしてここ、イセノサキさんの縄張りですか?それなら来ないようにしよ」

 こわい上司はフェンスの傍でコーヒーの缶を開けた。

「ミナカミ塾の生徒が目覚めたそうだな」

「冗談、言い慣れないならやめたほうがいいですよ」

「俺のほうにも報告が来た。どうする、ミナカミ。行くのか」

 アサギリはすぐに答えない。

「いつまで臍を曲げているつもりだ。頼られているのなら、その手を差し伸べてやるのも悪くないだろう?」

「そこのところを、思いっ切り振り払われたわけです。あの人、女が女がってそればっかりなので、イセノサキさんがその手を差し伸べたらいいと思いますよ。引っ張り上げられるでしょう?あの人、女の手は握りたくないくらいのことは言いそうですし」

 屋上のゴミ箱に空になったコーヒー牛乳のパックを捨てた。

「ミナカミ」

「イセノサキさんは求められたら応え過ぎなんですよ。持った者が力を分け与える正義ってのは素敵なお話ですけれど、わたしは自分が疲弊するのは勘弁です。ただでさえ選べないままなのに……」

 アサギリは鬱陶しい上司の縄張りを去っていった。朝、基地医局から来たメッセージには検査結果と、レーゲン・ランドロックトがアサギリとの面会を望んでいるという主旨のことが書かれていた。おそらくほぼ同じものが指揮官とイセノサキにも送られている。指揮官は基本的にエンブリオの出動時以外でアサギリと接触することはほぼない。こういう時に自ら出向くのはイセノサキである。自説を論じるのが好きなようだ。寂しい人物なのかも分からない。

 アサギリは無愛想なりに構いたがりな上司にくだを巻いておきながら、すでにやることは決めていた。足は医局に向かっていた。職員に案内され、レーゲン・ランドロックトと面会する。拘束されたりはしていなかった。つまり彼が殉死を完遂する気なら、それはそれで構わないのである。

 レーゲン・ランドロックトはぱちぱちと瞬いて、入ってくるアサギリを見上げていた。長い髪は結ばれて肩に垂らし、包帯と鉄首輪が痛々しい。淡いブルーの病衣がそういう風采に異様な感じを与える。

「ミナカミ先生。さっき、ミスター……イセノサキさんと話した」

 先程イセノサキには会ったが、そのようなことは言っていなかった。会ったような口振りでもなかった。かといってこの怪我人の言を疑ったわけでもない。ただイセノサキの澄ました貌が浮かぶ。

「そう」

「来てくれないかと思った」

「直前まで迷ってた」

 アサギリはやはりレーゲン・ランドロックトのほうを見なかった。それでいて相手は、自分に見向きもしない彼女を健気に見つめている。

「……すまなかった」

「何に対して謝っているの?」

「助けてくれたのに、命を粗末にしたことだ」

「でもそれはあなたの命でしょう。事後処理が発生するけれど、誰かが口を挟むものでもないでしょうに。命を譲渡できるわけでもないんだから」

 そして勝手に拾い、勝手に治療したのはサザンアマテラス基地の都合である。

「好くしてくれたミナカミ先生に、悪いことをした」

 アサギリは黙った。嫌味が口をいて出そうになる。余計なことを言って再び、否、今度こそ自害を完遂されたら厄介である。彼の中の問題で自害されるのと、その場に居合わせて原因になるのでは心持ちも変わってくるであろう。

「悪いことはされてないよ」

「それならどうして、目を合わせてくれないんだ」

「照れ屋なの」

 レーゲン・ランドロックトは口を引き結ぶ。

「ミナカミ先生には、きちんと話しておきたい。俺のこと、今後のこと」

 アサギリは躊躇しながらおそるおそるレーゲン・ランドロックトを窺う。

「軍人としての俺は死んだ。国と共に死ねと教えて唆してきた立場だ。俺も覚悟していた。けれども俺はこの地で生き延びた。生き延びたからには、俺は死ぬつもりはない」

「できるの、そんなこと。」

 アサギリはやっと青金色の瞳を捉えた。

「俺の国は、もう無いんだろ」

 ウァルホールは壊滅的な打撃を受け、国民の生存も絶望的である。いずれ国名すらも地図上から消えることになるだろう。

「イセノサキさんから聞いたの?」

 彼は頷いた。

「俺は爆発から逃げてきた。海に落ちて、あの街に流れ着いた……内心、俺の国はもう壊滅的ダメだろうと、思っていたが…………認めたくなかった。国には母と妹がいる…………認めたくなかった」

 金色の双眸が揺らいだ。赤みを帯びて濡れている。アサギリにも母と、下に異性の同胞きょうだいがいる。似た構成だけに同情の念が強まってしまう。

「そんな素振そぶりも見せなかったの、すごいね。何も知らないものだと思ってた」

 何も教えなかったことに憤るだろうか。

「俺はウァルホールの男子だから……」

 口を開けばそれである。母と妹に対してもそうであったのだろうか。否、男子という圧を己に課し、律していたのかも知れない。

「そう」

「俺は生きていていいのか、正直分からない。もう、迷う。そのときになったら。多分俺は、次はきっと自分で自分を刺すことは、できない」

「それはそうでしょう。正気のままやるのは根性が要るよ。正直じゃいられないくらいの」

 俯いているレーゲン・ランドロックトをアサギリは凝らしていた。

「俺は生きていていいのだろうか……」

「ダメだったらそれが明確に分かったとき、考えよ。もし生きてなきゃダメだったとき、どうしようもないから」

「いいのか、そんな大雑把で」

「几帳面に生きられなくの」

 レーゲンは情けない顔を徐ろに上げた。

「ミナカミ先生……頼っていいか。これからも」

「お好きに」

 他に無駄口を交わせる者がいないのだろう。医局の職員もレーゲンに付きっきりというわけではない。

「よろしく………頼む」

 アサギリは返事をしなかった。彼には厳しい選択の数々が文化の違いによって訪れるであろう。それを軍人をやってきた者に対して口にするのはどこか野暮な感じがした。しかしこの男がいくら国の思想に染まった元軍人といえど、アサギリにとってはまだ子供である。

「ミナカミ先生?」

「今はまだ身体を治して。傷を。話はそれから」

 彼女の声は冷ややかである。レーゲンは肩を落とし、機嫌を窺うような上目遣いで哀れな感じがあった。

「少し寝る。ありがとう。我儘を言ってすまなかった」

 アサギリは振り返りもせずに部屋を出た。先程別れたばかりのイセノサキが腕を組んで待ち構えている。

「言いづらいことを先に言っておいてくださってありがとうございます」

 レーゲンに接したのと同じ尖った語気で彼女から声をかけた。

「もう少し優しくしてやれないのか。まだ未成年こどもなんだろう?国も役職も家族も失って、ここで頼る相手はお前しかいないんだ」

「分かってます、それは。でも、根からの軍人ですからね。下手に気を遣うと恥をかくだけです」

 彼女の刺々しさはすぐに抜かれて今度は弱音を吐くような響きを持った。

「彼は軍人で成長期も終わった男だ。お前より強い。それは分かっているな。ただ、現時点に限ってはずっとお前より弱い存在なんだ、ミナカミ。そこを忘れるな」

「ケアはできませんよ。ただ気を紛らわせてあげるかあげられないかってところです」

 アサギリは上司の前を横切っていく。



 まず服であろう。髪も切らなければならない。身形を整えさせてから諸々の手続きに入る予定でいた。だがあの長く伸ばした髪を切ることに果たしてあの異国の男は諾とするのだろうか。パイロット同様に基地で飼うつもりなら無理に切らせる必要もないかも知れない。しかし外に出すのなら切らせておくのがいいだろう。霹靂神統治ノ地の文化でいえば、男が腰まで届くほど髪を伸ばしていても規定違反にならない仕事というのは探せば沢山あるのだろうが選択肢は狭まる。

 やることを指折り数えながら寄宿舎に戻った。フブキ・マヤバシがエントランスで靴を直しているところに出会でくわす。反射的に彼女は物陰に隠れてしまった。休みの日はいつだろうか。ふと、服を買い行く予定がフブキ・マヤバシの姿と結び付いた。レーゲンと同性のフブキ・マヤバシの意見は参考になるのではあるまいか。背格好もそう遠くない。年齢は10ほどでなくとも差があるけれど数字さえ出さなければ十分同じ年頃に見えた。

「マヤバ―」

 彼の頭が靴から持ち上がる。しかしアサギリのいるのとは違う方向へ首を曲げた。華美で可憐な感じのある女性職員がフブキ・マヤバシに声を掛けた。靴を直している彼の目線に合わせ屈んでいる。綺麗に手入れされた髪と流行をおさえた化粧に、私服の着用を許されているボトムスは柔らかい印象を与えるスカートである。フブキ・マヤバシは顔を上げ、笑みを見せた。アサギリは見たことがない表情だった。彼はいつでも宥めるような、慰めるような微苦笑であった。そして事が起きてからは気拙げでばつの悪そうな困惑顔ばかりであった。どくりと一瞬心臓の跳ねる苦しみに襲われたが、彼女はそのあと何事も無かったかのようにエントランスに入った。

「おはようございます」

 2人に挨拶をして自室に戻る。酒を注いで飲み干した。これから基地の1日が始まるという時間帯を窓から眺め、甘苦くした液体を舐める。

 ベッドが蠢いて童貞の性奴隷が身を起こした。金髪をさりさりと掻いている。その様を肴にグラスを傾けた。

「アサギ……」

「おはよう」

 彼が女主人の姿を認める。少し呆れた顔をしたように見えた。

「またお酒、飲んでるの」

「ジュースだよ、ジュース。ははは」

 マージャリナは徐ろにベッドから降りた。アサギリの前に出されている酒瓶を片付けてしまう。

「お酒、あんま飲むのダメって、トレーナーさんに言われてる」

「ジュースだから」

 彼女はきゃははと笑った。 

「ジュースの匂いじゃない」

 砂糖炭酸水で割ったが、それでも度数はまだ高い。

「髪切ろうかな、あたしも」

 毛先をさらさらと弄ぶ。そして露悪的に笑った。髪型を変えたところで、フブキ・マヤバシに話し掛けていた清純げな女性職員のようにはなれない。就職して間もないのかも知れない。若かった。雰囲気もまだ慣れていない感じだった。何より長くこの基地にいるアサギリも見覚えがない。

「髪、切るの?」

「うん。マージャリナも切る?そろそろ伸びてきたでしょ」

 耳に掛かっている髪を下ろし、癖のついた毛先を伸ばす。

「このまま伸ばす」

「そう。じゃあ毛先の傷んでるところだけわたしが切ってあげる」

 髪の流れを逆行して跳ねている白い毛先をひとつ指先で弾く。

「あの人、死んじゃったの?」

 アサギリは乾いた笑みを浮かべる。

「生きてるよ」

「じゃあどうして……」

 マージャリナはソファーに寝転がって器用にグラスを傾ける主人を見下ろす。困り顔だった。

「年頃の男の子って面倒臭くって。ナギちゃんはあんなに面倒臭くなかった」

 "ナギちゃん"は弟ユウナギの愛称である。16か17であったはずだ。

「ナギ……」

「ユウナギ。知らないっけ。わたしの弟」

 彼女はグラスを傾けすぎて酒をこぼす。ごふ、と噎せる。マージャリナは主人から目を逸らしベッドへ戻ってしまった。



 寝乱れたマージャリナの布団を直し、寄宿舎を抜け出した。基地支給品のジャンパーを羽織る。エントランスを通り抜け、たときイセノサキとばったり会った。彼は備品のソファーに腰掛け、靴べらを踵に挿していた。げ、と呻くのを呑み込む。同時に閃きが起こる。

「夜遊びか」

 すでに飽きれることにも飽いたといった様である。

「イセノサキさん、近いうちに休みあります?」

「ないが」

「それ、条例引っ掛かりません?」

 霹靂神統治ノ地では労働時間の上限が条例で決まっている。アサギリから見るとイセノサキや彼だけでなく指揮官も違反をしている。

「基地には関係ないさ。特に本部勤めは。何故だ。何か用か」

 彼は靴べらを踵から抜いた。

「あの18歳男子に服でも買ってあげようかと。でも男性の服屋さん、わたし一人で行くのもなんだかなって」

 ちらと座っているイセノサキがアサギリを見上げた。何か重要なことを言いそうな感じがある。

「俺を誘っている場合ではないだろう。整備の彼はどうした」

「嫌だな、イセノサキさん。てっきり監視されてるものかと思いましたよ」

 それは数時間前のこの場所で起きたことだ。口にしてから彼女は自分が監視されていることを思い出した。

「生憎、今日は俺の担当ではなかったよ。何かあったのか」

「いいえ、何も。休みがないんですね。お疲れ様でございます」

「本人を誘えばいいだろう。まだ動けないのか」

「そうですね、本人を誘うのが一番ですね」

 アサギリは雑に上司をあしらうとホストクラブ「キャッスル・ストーンハート」に急いだ。三途ワタラセが出迎え、酒瓶を運ばせる。ソファーに寛ぎ、店内を眺めながら酒を飲む。

「今日は元気ないね」

 三途ワタラセがフライドチキンボールに爪楊枝を刺して食いながら、来店前から酒気帯びの客を心配する。羽振りのよいこの客はソファーの背凭れに身体を預け、天井を虚ろに凝視していた。

「ワタラセくんさぁ、なんか、好さそうな美容室ある?髪切るの、男の子なんだけど……」

「ある、ある!紹介するとお互い割り引きになるからさ、おで、連絡しとくよ!」

 彼はもみあげと側頭部を刈り込んでいる。こまめに通っているのだろう。場所と店名を告げられる。酔った頭で何度か繰り返す。基地内に出張は可能だろうか。

 酒を呷る。ぐびりぐびりと酒を飲む。入ってくる客たちを見ていた。華やかなホストが案内している。アサギリは基地内ジャンパーを脱いで、寝間着のような姿をであるが、他の客たちは垢抜けた服装に隙のない化粧、よく整えられた髪をしている。彼女は突然噴き出した。

「どしたん、アサギちゃん」

 フライドチキンボールを頬張る手を止めて三途ワタラセが目を丸くした。触れ合うことも好まず、ひたすらに喋り続けることも好まないこの客は好きに酒を飲ませて放置しておけば勝手に大金を費やすのである。

「ごめんね、変な服装で着ちゃって……」

 大まかに乾かした髪とゆとりのあるワンピースに基地ジャンパーであるから悪目立ちする。

「ワタラセくんが変な目で見られちゃうよね」

 フブキ・マヤバシに話し掛けていた女性職員が脳裏に留まっている。

「いいんじゃない、最低限で。清潔感あって、隠れてるトコ隠れてれば。おで気にしないよ」

 彼はフライドチキンボールをまた口に運んだ。

「そう?」

 フブキ・マヤバシの温和な表情もこびりついている。彼は優しい。誰にでも優しい。自ら乞うていたものと忘れ、与えられていたことに勘違いをしていた。

「そろそろ帰るよ、ワタラセくん。他に何か食べたいものある?」

 三途ワタラセがひょいひょいとメニュー表から3つほど選んだ。夜食代わりだろう。アサギリはそれを頼んで会計を済ませる。ほぼ無尽蔵の彼女の懐には大した出費ではなかった。

 基地へと帰る途中で顔を覆う。夜風が冷たい。自身の酒臭を鼻に叩きつけられているようだった。滲みる目を擦り、寄宿舎へ帰った。



 昼過ぎに起きてレーゲン・ランドロックトに会いにいく。もう酒は飲まないと毎回決意させる二日酔いである。寝起きに渡された水を一気に飲み干したくらいでは響くような頭痛は治まらない。

「酒臭いぞ」

 18歳の子供にも顔を突き合わせて真っ先に言われてしまった。

「飲まなきゃやってらんないの。子供は黙ってなさい」

 今日は長く黒い髪を緩く縛っている。拗ねたような顔が一度外方を向いたが、またアサギリのほうに戻ってくる。

「大変なのか?」

「全然」

「中毒なら然るべき治療に入ったほうがいい。俺の父も、アルコールで溺れて死んだからな」

 特に大したことは言っていないというような調子で彼は相変わらず漲った瞳を寄越す。

「そう……なの?」

「湿った話がしたいわけじゃなかった。ただ、ミナカミ先生にも気を付けて欲しい」

 彼の手が力強くアサギリの腕を掴む。

「内臓に八つ当たりするのはよくない。俺の言えた義理じゃないが、これからは大切にする」

 昨夜見た月よりもはっきりとした色の目が強く彼女を射抜いた。アサギリはたじろぐ。

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