第6話


 呼び出しがあった。謹慎処分を解かれたイセノサキからである。基地の本部の裏にあるバルコニースペースだ。霹靂神はたたがみ統治ノ地にありがちな強風が吹き付ける。整髪料できっちり固められた髪は靡くことはないがそれでも一房、二房は形良く研ぎ澄まされたような輪郭を作る額に垂れて揺蕩う。

「お久し振りです。お待たせして申し訳ありません」

 イセノサキは手摺りに両腕をつき、基地の外、長い茂みの奥に広がる街を眺めていたが、やがて振り返る。

「少し痩せたか」

 苦手な上司に爪先から脳天まで観察された。

「顔の爛れもまだ完治はしていないな」

「セクハラですよ、それ」

「そうか」

 アサギリが本気でそうは思っていないことを見越した、妙な笑みを浮かべた。

「大変だったそうだな」

「基地全体で言えばそうかも知れませんね」

「ミナカミ単体について言ったつもりなんだが」

 地元に帰ったという嫌味な上司の態度はどこかまるい。これならば定期的に故郷に帰したほうがいいのではないか。

「指揮官とか医局さんのほうが大変だったと思いますよ」

「そうか。大変でなかったならそれでいい。要らんことを言った」

 このこわい上司は気を遣っているのかも知れない。多少の手間は増えた。家具も増えた。ある程度のショックもある。だが彼が気を回すほどのことではない。日常はあまり変わらない。朝に基地医局へ運び、また夕方に引き取りに行くだけである。あと数週間様子を見て、目覚めなければ基地医局で一生を終えるか、どこか適当な病院を見つけてそこで一生を過ごすことになる。アサギリにし掛かるものはない。監督責任もない。大変なことは何もない。

「今日から復帰ですか。明日から?」

「今日からだ。復帰してまず初めの仕事はもう決まっている」

 彼は制服の懐から三つ折りの紙を差し出した。仰々しく受け取る。よくあるコピー用紙の質感でないのは渡されたときから気付いていた。

「もし、あの者が目覚めたら……その時は、この国の人間になる」

 アサギリは胡散臭そうに聞きながら紙を開いた。墨カリグラフィーで人名が記されていた。

「目覚めそうにないですし、もしそんなことになったらまたやりますよ。その時はもうわたしは関わりたくありません。生かしたのだって……あの場では、処置するしかなかったですけど……………」

 レーゲン・フジオカになる。あの自刎じふんじみたことをした軍人が目を覚まし、意識を取り戻したときに霹靂神統治ノ地の人間になる。彼はそれを許すだろうか。

「なかなか良い先生をやっていたみたいだな。医局の職員に聞いた」

「……油断させるための工作だったんですよ。まんまと騙されました。恥ずかしい」

 早々シュレッダー行きになるであろう紙をしまう。

「そう言うな。恥ずかしくはない。腐るなよ」

「失礼します」

 一揖いちゆうしてアサギリは踵を返した。管理司令室に戻る途中でフブキ・マヤバシとすれ違う。

「お疲れ様です」

 頭を下げる。顔を合わせるのは数日ぶりである。アサギリは努めて明るい表情を取り繕う。先程苦手な上司と会ったことなどなかったようである。

「お疲れ様です」

 フブキ・マヤバシは何か言いかけたが、結局挨拶以外は口にしなかった。アサギリも忙しなく目を泳がせるばかりで開きかけた唇は閉じてしまった。夕食を誘うにも延命装置にストレッチャーのある部屋である。そういう場所で話の弾む相手ではない。マージャリナから向けられている異様な疑惑も深まりかねない。

「あ、あの……」

 すれ違ってから彼は口を開いた。アサギリは足を止めたが、実のところ他の者を呼んだのではあるまいか。迷いが生じる。

「おれが言うのも変ですが、大変、でしたね…………あ、ああ、急に呼び止めたりしてすみません。無理だけはなさらないように」

 躊躇と迷いを振り切れずに声をかけてしまったらしい。途中から混乱した様子だった。そしてフブキ・マヤバシは軽く礼をして去っていく。アサギリはそこに留まったままだ。勘繰ってしまう。態々わざわざ呼び止めて言葉を添えられたのだ。避けられてはいないのかも知れない。後ろめたさ故に厭悪えんおされてはいないかと考えるときもあった。だが態々、呼び止められたのである。否、それが人間関係を円滑にするためのカモフラージュであったなら、やはり積極的にコミニュケーションを図ろうとするのは迷惑なのかも知れない。誰に対してかも分からない一礼をしてアサギリも立ち去る。



 本部を横にぼんやりと潮風に当たりながら墨カリグラフィーを眺めていた。

 気紛れ出勤をしたところ、パイロット専用訓練所へ飛ばされた。管理司令室はイセノサキが職場復帰して落ち着きを取り戻しつつある。入れ違いに指揮官が謹慎処分に入るのではないかと噂もあるが、それは忙しさゆえの上層部の配慮かも知れない。結局脱走事件の処断が有耶無耶であったが、職務継続と免職がはっきりしている指揮官とフブキ・マヤバシには通達があったのだろうか。アサギリはパイロット適性を欠かない限り、職務継続が分かりきっている。

 向こうが透けそうな薄い紙に書かれた名を見つめる。つい先程ボルダリングをやってきたばかりで腕が重い。アサギリの個人的な趣味ではなかった。パイロットの訓練に組み込まれている。

 レモンのアイスを齧りる。目覚めるのかこのまま息絶えるのかも分からない者だ。

「訓練に回したが、考えるか。例の彼のことを」

 職場復帰したばかりの有能で優秀な副基地長である。管理司令室ではアサギリの上司も兼補している。職員カードを首から下げ、制服のジャケットの代わりに基地内ジャンパーを羽織っている。中はシャツだ。その服装に覚えがある。

「これから、アレですか」

 アサギリは彼の問いに答えなかった。

「そうだ」

 この基地のパイロットにもエースがいる。アサギリと同性で年の頃も同じである。天真爛漫で人懐こい、気の好い性質の娘だが、このイセノサキに対しては違った。異様な執着を示すのである。エンブリオ全機に特徴的な鮮やかなオレンジにライトブルーの色を差したエンブリオ・アスマの搭乗者なのだが、アサギリの無断操縦、飲酒運転、若年浮浪者の誘拐があまり基地外・基地内で騒がれなかったのは、このアスマのパイロットの仕出かしたことと比べるとそう大きなことではなかったからだ。アスマの搭乗者は任務中に命令を無視し、自身の実父を探し出した挙句に握り潰している。その背格好と様相がイセノサキと類似していた。

「来るか」

 彼は褐色の瓶を呷る。栄養ドリンク剤である。その姿が急に弱々しく見える。

「……見学に?」

 まさか誘われるとは思わなかった。むしろ彼は嫌がるだろうとさえ思っていた。エンブリオ・アスマのパイロットがエースであり続けるのは、本人の資質もあるけれど、イセノサキの努力無しには語れないだろう。

「無理にとは言わない」

「行きますよ。あんなイセノサキさん、なかなか見られませんからね」

 アサギリはイセノサキに同行する。連れて行かれたのは本部の脇にあるひっそりとある基地資料センターである。説明会や講演会、健康診断などがここで行われている。地下が資料室になっているため資料センターと呼ばれているが、用途は様々だ。アサギリの知る限り白を基調としていた壁や天井のはずが今日は至るところに暗幕が張られている。部屋の中心には革張りのソファーと無数の薔薇が用意されていた。そこにカメラが並んでいる。

「最初の仕事って、わたしにこれくれることじゃなかったんですか」

「そのつもりだった」

 苦手な上司はすでに支度を済ませているらしき集団に挨拶をした。外見からいうと撮影スタッフである。その中の1人は黒を基調とした網タイツに革製の衣装を身に纏っていた。毛先のウェーブした長いブラウンの髪が美しい。

 イセノサキはシャツを脱ぐ。上半身裸になると、赤いロープが彼を縛っていく。これがエンブリオ・アスマのパイロットの要求である。テンセイ・イセノサキを辱め、弄ぶことを条件に高成績を修めている。

 ヴォンテージの麗人が縛られたイセノサキを鞭で打つ。肌が一閃、赤く染まった。タオルを噛まされ、その奥で曇った声が上がる。ビデオカメラが作動し、シャッターが切られる。エンブリオ・アスマのパイロットの嗜好を満たすためにこの撮影会が定期的に開かれている。無愛想な上司の肉が打たれる音を聞く。撮影用の度の入っていないレンズの奥、涙ぐんだ目が突然、カメラの外を意識した。アサギリと視線がち合う。監督から目線の指示が飛ぶ。噂によるとこの監督はイセノサキを俳優にしたかったらしいが、イセノサキは断ったという。

 次は首輪だ。過激さが増していく。この撮影を終えてから謹慎処分に入ったほうが良かったのではあるまいか。

 黒光りするハイヒールが頭を踏み、首を踏み、股間を踏む。メイクで血糊が加えられていく。エンブリオ・アスマの搭乗者はイセノサキに父を重ね、猟奇的なプロマイドを撮らせて悦に浸っているらしい。彼女も長いことエンブリオを乗り回しているうちに壊れてしまったのだ。

 撮影を終えて縛られたままの上司が戻ってくる。何日徹夜をしても疲れた様子のなかった彼は一気にけていた。

「これって着色なんですか?」

 鞭が赤い色味を出すものをなのかも知れない。それにしてはイセノサキの表情は生々しかった。演技であろうか。アサギリは無邪気に上司の肌に走る赤みをなぞる。

「いっ……」

「あ、本物ですかこれ」

 神経質そうな眉が大きく歪む。脱いだシャツを返す。整髪料を無視して掻き乱れた髪と堅い印象を強める眼鏡のないこの上司はいつもと違って見えた。30代と思えたが、もしかするともう少し近いのかも知れない。

「畳んでくれたのか。ありがとう」

 情けなく目を屡瞬しばたたき、垂れてくる前髪を掻き上げている。

「皺になると上司の威厳に関わりますからね」

 髪は整髪料が効いているため、風に煽られたまま静止したみたいだった。

「それ、髪洗わないとじゃないですか」

「そのようだ」

「本部に戻るんですか」

「いいや。今日の仕事は、一応これで終わりだ」

 眼鏡が戻り、いつもの睨むような眼差しが戻ってくる。

「一応?雑務が残っているわけですね」

「ミナカミはどうする。今日も酒に浸るのか」

「例のあの人を回収してからです」

「同居人はどうした」

 イセノサキのような潔癖そうな男がマージャリナを在るものとして話すとは思わなかった。

「彼はこの件には関係ありませんからね。巻き込めませんよ。手伝ってくれるんですけど、申し訳なくて」

「しっかり寝ているのか」

 背中一面に蚯蚓腫みみずばれのある疲労困憊の男に心配されてしまった。

「寝ていますよ。6時間半くらい。イセノサキさんは3時間も寝てないんじゃないですか。ご実家で休めました?」

「寝ているならいい。俺は座り仕事だが、ミナカミ、お前は身体を張る仕事になるかも知れない。無理をするな」

 鞭に打たれ、ピンヒールに踏まれ、それを写真に撮られる上司に言われているのである。

「そっくりそのままイセノサキさんにお返しします。今日はちゃんと休んでくださいね」

 イセノサキはふと肉薄な目蓋を伏せた。その瞬間がふとアサギリに新鮮な情感を残す。几帳面そうで神経質げながらも無表情で、ある種不器用そうな彼の繊細な貌だった。鞭で折檻されたせいだろうか。

「俺はきっちり予定が決まっているからミナカミほどの負担はない」

「負担の方向性が違いますね」

 彼は乱れた髪を気にした。そういう面も初めて見る。服装も頭髪も平生へいぜいからきっちりしているが、職務の邪魔にさえならなければ身形は気にしないものだとアサギリは思っていた。

「髪留め貸しますよ。前髪垂らしてるの、なんだかイセノサキさんじゃない人みたいです」

 色の塗られた針金みたいな髪留めを差し出す。制服の胸ポケットに挿してあった。

「悪いな。まだやることがある。時間まで暇ならお前も来い」

 まだ働くつもりらしい上司に内心呆れた。同時に、彼の気遣いを勘繰った。この上司はいかめしく堅苦しく甘やかすことについてはへたくそだが情の通っていない人間ではない。テンセイ・イセノサキなりに目の前で関わった人間が自害を図った部下を慮っているようだ。

「ああ、じゃあ、行きます」




 壁掛け時計が意識のない同居人の迎えの時刻を告げる。多少の責任を感じていたのかも知れない。ふと見せた年相応か、年の頃よりも幼げなところにほどされた。他の者たちと違い、このサザンアマテラス基地内の寄宿舎が実家であり、誰よりも広い自室を有しているということもある。配偶者も子も、自分が面倒を看ている家族がいるわけでもない。つまりアサギリが適任であった。おそらく周囲の人々もそう思ったことだろう。この国では身寄りのない軍人を引き取ると言ってしまったのは物の流れであり、事の勢いであり、言葉のはずみだ。

 外は橙色を帯びて少し経ち、とうとう紺色が差しつつある。アサギリは隣の上司を見た。腕を組んで眠ってしまっている。ここは会議室だった。霹靂神はたたがみ統治ノ地よりもさらに強い力でヴェネーシア水源郷の支配下にある国の工場から送られてきたエンブリオの備品の説明書を翻訳している。ここからさらに図が再配置され、説明書のフォーマットのもと整備士たちへ配られる。副基地長の仕事ではなかった。アサギリは翻訳を読み返していた。備品とはいうがエンブリオの換装用の物品である。規模が大きく、部品数も多ければ作業工程も多い。また、対応する概念や、ニュアンスの違いを補える表現が霹靂神統治ノ地にはない場合もあった。翻訳家に外部注文をすることもなければ、基地内のアルバイトで募集することもなく、イセノサキはこの作業を黙々とこなしていたらしい。真面目な彼は果たして謹慎処分中も仕事に手を出すのか、将又はたまた、謹慎処分にすらも真っ直ぐ誠意を尽くし仕事を慎むのであろうか。

 アサギリは時計を見上げていた。基地医局へストレッチャーを回収しに行く時間が過ぎていく。

「風邪ひきますよ、イセノサキさん」

 背中に触りかけた。直前で、彼の肌の惨状を思い出す。背凭れに掛けられたジャンパーを広げ、肩から覆う。繊維の擦れた甲高さのある音で鋭い目が開いた。

「………すまない」

「それは疲れますよ。わたしそろそろ気紛れ退勤します」

 赤ペンの入った原文のコピー用紙を纏めて上司へ渡す。

「時間か。悪かった」

「また手伝います。倒れられたら管理司令室がてんやわんやの大嵐になってしまいますから。基地アルバイトに回せないんですか」

「募集して回収して確認している間がなかった」

 まだほんのりと眠気を残した目が哀れだった。

「試運転をすることになると思う。心しておけ」

「はい」

 イセノサキはまた詫びた。アサギリは適当な返答をして医局に向かう。ストレッチャーに乗る男はまだ昏々こんこんとしていた。外から美容師を呼んで髪を洗ったらしい。ふわりとシャンプーとトリートメントが薫った。綺麗に櫛が通され、髪質だけ妙に良く見える。しかしそのトリートメントが落ちればまた毛艶を欠いていくのだろう。アサギリは目覚めない軍人の髪を掌に掬う。青みを帯びた美しい黒髪に照明が白くせせらいでいる。芯の毛は細さも均一だ。

 医局の職員に遅れたことを再度詫びてストレッチャーを押した。車輪が寄宿舎までのアスファルトをごりごりと擦っていく。

「……打ち解けられたと、思ったんだけどな」

 嫌味をこぼす。レーゲン・ランドロックトは依然として目を覚まさない。

「いい気になってバカみたい」

 寄宿舎のエレベーター乗り場でフブキ・マヤバシと鉢合わせる。今日はこの時間で退勤だったようだ。

「こ、こんばんは!マヤバシくん」

 虚無を映していた顔が瞬時に入れ替わった。しかし満面の笑みでもない。このストレッチャーを押しているときには最も会いたくない人間だ。どういう顔をして、どういう物言いでどういう話をしていいのか分からない相手に、さらにどうしようもない話に持っていくしかない有様を晒していく。

「こんばんは、ミナカミさん。お疲れ様でございます」

 不自然なほどアサギリはストレッチャーに寝る人物に目をやらない。フブキ・マヤバシも努めて例の脱走犯を見ようとせず、その不自然さとぎこちなさが相変わらずの気拙そうな態度を増長させている。

「お……お疲れ様、です」

 エレベーターが着いた。アサギリの部屋は本部直通の3階にあるためいつもならば階段を使っていたが、ストレッチャーがあるためそうもいかない。

「先、どうぞ」

 中に手を伸ばし、ドアを開き放しにしてフブキ・マヤバシが言った。先に居たのは彼である。

「あ、で、でも……」

 エレベーターの中は狭くはなるが重量オーバーではない。

「自分は階段でも、次のでも行けますから」

 アサギリは焦ったように頷いた。同乗したくないであろうことは察しがついている。

「何階ですか」

「3、3階ですっ、」

 洗っても落ちきらないような油汚れで黒ずみ指がボタンを押す。まだ素直に話せていた頃は、そればかり見ていた。煤けた作業着に汚れた手拭いや毛羽立った革手袋の姿が好きだった。

「すみません。どうも、ありがとう……」

「いいえ…………では、また」

 彼の指がボタンでエレベーターを閉めた。狭まったドアの奥で、フブキ・マヤバシは早々と顔を逸らすのが見えた。

「……仲良くなれたと思ったんだけどな」

 口にしてみて、その白々しさを噛み締めた。仲は決して悪くはなかっただろうけれども良くもなかったであろう。腫れ物のパイロットと、仕事上顔を突き合わさなければならない整備士である。彼等はエンブリオの整備をしながらパイロットの接待まですることになるのだ。そこに気付けず、甘えていた。フブキ・マヤバシが好い顔をしなければならなかったところに付け入ったのだ。それでは仲が良かったとは言えまい。利のために接待する側と利があるために接待される側の痛々しい勘違いをアサギリはホストクラブ キャッスル・ストーンハートでもよく目にしている。これではホストクラブの目も当てられない客である。溜息を吐く。意識のない人間にかかる。

 車輪にカバーを掛け、自室に運び入れた。マージャリナが窓辺の薄明かりで絵を描いている。

「ただいま、マージャリナ。電気を点けないと目を悪くするよ

 彼はキャンバスから顔を覗かせた。片眼鏡のようになった義眼がストレッチャーを注視する。

「おかえりなさい、アサギ」

「ごめんね、遅くなって」

 部屋が明るくなるとマージャリナはカーテンを閉めた。自然光の中でしか彼は絵を描かない。

 ストレッチャーを定位置に追いやって、アサギリはベッドにダイブした。今日は酒に浸る気分ではない。寝転がりながらストレッチャーを瞥見する。マージャリナが近寄り、制服のジャケットを脱がしにかかった。その下は私服である。

「アサギ。皺になる」

 促され、スラックスは自分で脱いだ。代わりに部屋着を投げられる。もこついた肌触りのよいルームウェアはどれもヴェネーシア水源郷にいる母からの贈物である。

「お母さん……」

 アサギリはその部屋着を着ることもしないで抱き締めた。急激な物寂しさに襲われる。他に2人、同じ空間にいるけれども彼等では満たされない異様な哀愁だ。

 柔らかな素材に顔を埋めた。そこからは肉親を感じられない。余計に恋しくなるだけである。この基地のエースパイロットでエンブリオ・アスマの搭乗者も、結局のところ兄妹ほどしか年齢に違いのないイセノサキを見れば「パパ」「パパ」と甘えた。アサギリは母に対して、アスマのパイロットがイセノサキに対して抱くような複雑な感情は持っていないけれど。

「会いたい……?」

 マージャリナが首を傾げた。会いたいが母は忙しい。母はヴェネーシア水源郷の郷領首である。娘といえども保護国の中途半端な一般市民に会う時間などない。

「ううん、別に」

 柔らかな生地が代わりに頬を撫でてくれるのだ。代わりにこの身体を温めてくれるのだ。

「会いたくないよ」

 マージャリナの入れた眼玉が忙しなく動いた。そしてストレッチャーを捉え、アサギリで留まる。

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