第10話

 壁掛け時計がこちこち鳴っている。上司が対面にいるというのにアサギリは頬杖をついていた。場所は管理司令室直通の会議室である。

「平和ボケしてて素晴らしいですね」

 彼女は所在なく宙を眺めて口にした。テーブルを隔てて腕を組むこわい貌をしたイセノサキもどこかうんざりしているような気がした。

「仕方がない。これが基地の人間でも、お偉い官僚でもない人たちの暮らしだ」

 また沈黙が流れる。この仕事中毒者みたいなのから聞いた話は、彼が斡旋した人物がアルバイト先で揉め事を起こし、辞めさせるかどうかという相談である。つまり社員食堂の責任者がレーゲン・ツキヨノ・ランドロックトを紹介したイセノサキに忖度し、そちらの都合ですぐさま解雇というわけにはいかずに相談を持ちかけたということである。

「市中の人々が働いて、俺たちみたいのが快適に仕事をこなせる」

「そうですね」

 同意を示したにもかかわらず、上司は訝しみを含んだ眼差しをくれる。

「思ってますよ、本当に。ホストの子たちの風評なんかをよく聞きますけどね、わたしはあそこ無しに基地ここに戻ってこようだなんて思えませんから」

「それなら大いに感謝する」

 思ってもなさそうに彼は言った。

「で、だ。何故ミナカミ、おまえを呼び出したのか大体は察せるか」

「お、出ましたね、巷の面倒臭いカノジョ節が。察しましたよ。暇そうだからですね?」

 ミナカミは意地悪そうににやにやと笑った。

「いいや。暇そうだとは思っていないさ」

「暇そうではなく実際、暇、だからですかね」

 怕い上司は怕い上司なりに微苦笑して首を左右に振った。

「ミナカミ塾の生徒のことだから、ミナカミ先生の耳に入れておこうと思ってな」

「冗談言い慣れないならいいですって。わたしは彼のお目付き役になったつもりはありませんよ」

 言ってしまってから上司の疲れた顔が目に入った。少し荒れた肌と両目を殴られて治りかかった青痣みたいになった隈、少し甘いヘアセットは入浴時間を短縮するためなのかも知れない。

「ちゃんと寝れてます?」

「ああ。昨日は6時間もな」

 おそらく嘘であり、本当であったとしてもベッドの上でのことではないだろう。昨日の彼の終業時間と今朝の開始時間が合わない。

「……分かりましたよ。やってやりますよ。ぶっ倒れる前にちゃんと休むことですね。ノワキちゃんに言い付けますよ」

 イセノサキの片眉が跳ねる。彼に愛憎渦巻く念を寄せるこの基地のエースパイロットの名はそれだけ効果的であった。"パパの危機"と錯覚した気の狂った彼女は任務を放棄して帰ってきてしまうかも知れない。

「勘弁してくれ……」

「じゃ、ちゃんと6時間は寝ることですね。部下が気を遣って、ミスの報告もできません。か~ら~の、隠蔽です」

「善処しよう」

 彼はまた乾いた苦笑を浮かべる。

「じゃ、ツキヨノ・ランドロックト・レーゲンくんには言っておきます」

「すまないな」

「いいえ」

 話はすぐに終わり、ミナカミは食堂が一時閉まる時間帯を見つけて寮からレーゲンを呼び出した。彼は、霹靂神はたたがみ統治ノ地に於いてはそう短くはないが、彼の出身地の基準でいえば短髪としかいえないミディアムヘアにもう慣れたようだった。スタイリングが様になっている。服装も悪くなかった。なかなかの男振りである。

「これからアルバイトの面接がある。早めに切り上げてもらえるとありがたい」

「はいはい、精力的なことで。で、そうだな~……なんでわたしに呼び出されたか、分かる?」

 アサギリも、怕い上司から仕掛けられた"巷の面倒臭いカノジョ節"をレーゲンに仕掛けてみた。彼は眉を顰める。

「俺はミナカミ先生じゃない。分かるわけない。自分と他人の線引き、できてるのか?」

「あらあら、それはごめんなさいね。じゃあ単刀直入に話すけどね、あのね、食堂でケンカしたでしょ」

 アサギリは揶揄うような調子で冷ややかに切り出した。レーゲンはただ訝しげに彼女を見ている。

「喧嘩?してない」

「してない?本当に?別に隠してたとしても、辞めさせたりとかしないし。事実確認をしたいだけで……」

 というのはアサギリのでまかせで、事実確認の後に彼が解雇される可能性は十分にある。

「してないが……俺を何歳いくつだと思ってる?何が訊きたいんだ?」

「ちなみにツキヨノ・ランドロックトくんにとって、ケンカってどういう感じの?」

「殴ったり、蹴ったり……とかか?」

「言い争って、意見が合わなくて、それでも自分は正しくてお前は間違ってる、っていうのを押し付けて、相手がそれを認められないのもケンカだと思うんだけど……」

 レーゲンはまだ理解していないようである。

「食堂のアルバイトの先輩に、何か言ったでしょ。言い争う声聞こえてさ」

「ああ……あのことか」

 やっと金色の瞳がアサギリから逸らされた。どこかばつが悪そうである。

「やっぱり何かあったんだ?べつに首を突っ込むつもりはないんだけどさ、こう、国の文化の違いとかあるから……教えてくれる?何があったの?」

 彼は足元ばかりを見つめて俯いている。その爪先を小さく動かして忙しない。拗ねた子供みたいな挙措きょそ動作だ。

「先輩等が話してばかりで仕事をしなかった。だから注意をした。やり方も効率が悪い。なのにルールだ、決まりだと言うから……」

 やはり拗ねているのかぼそぼそと喋る。

「すごいね?先輩に……」

「ここは軍局ではないんだろう?軍ではないのなら、先輩うえに従わなきゃならない道理はない。言いたいことは言わせてもらう」

「なるほど。命に関わらないもんね」

 叱られるのを恐れるみたいに、彼は徐ろに顔を上げる。

「でもだから、効率とかはどうでもいいんだよ。正しいか正しくないかは分からないけれど、アルバイトってそういうものだし。真面目にやってもふざけてても、解雇されなきゃ給料なんて一緒だから」

「あの食堂が軍局じゃないのは分かってるが、本部は軍局みたいなものだろう。銃があった。それに君は兵器みたいなものに乗るんだろう?銃を持つなら撃たれる覚悟があるはずだ。命懸けのはずだ。そういう施設にいて、命懸けの人々がいて、その食堂よこであの働き方は、恥ずかしくないのか」

 大人から叱られるのを怯える童児みたいな仕草から、彼は少しずつ熱を帯びていった。

「働き方はそれぞれだからね……あと軍局みたいじゃないし、兵器っていう認識も改めて。問題になるから、その表現……」

 レーゲンは歯を食い縛っている。金色の瞳はいくらかの敵意を帯びてアサギリを見ていた。

「兵器は兵器だ」

「兵器にしないように苦心してるんだから。兵器持っちゃいけないの、ここ。それはそれとして、あの食堂は民間企業で、あなたはそこで雇われたアルバイト。本部職員のお偉いさんがケーキ食べたい本格ミルクティー飲みたいなんて言ったらすぐにスイーツ専門店に取って変わるの。もちろん問題起こされてそこに時間割くのが面倒臭いだなんて思われたら、明日には、明日は"提携法"的にムリか。短くて2週間後には荷物まとめて出ていくことになるってワケで。あまり揉め事は起こさないのが吉」

 話は聞いているようだが、レーゲンはただ睨むようにアサギリを凝らす。

先代うえの決めた効率の悪さに従うのがいいよ。経営陣からしたら効率、生産性って大事だけど、そればかりになると、次は命まで捧げろよってことになりかねないの。ここに戦争はなくて、軍はなくて、兵器もなくて……仕事に命奪われるのは、あっちゃいけないことだから。本来ならね。アルバイトは……時間内に疲れることもなく、真面目になることもなく、やれることやっておくのがいいの」

「……分かった。この土地のルールに従う」

 今にも噛み付いてきそうな雰囲気だった。ところが彼は素直に肯定した。アサギリにとってはありがたいことだった。だが意表を突かれてもいる。それでいて彼の態度はまだ納得しきれていないようだった。

「忙しい君の時間を割かせて悪かった」

「お、嫌味かな?」

「次の仕事があるから、ここで失礼させてほしい」

 顔も目も見ず俯き気味のまま、レーゲンはアサギリの脇を擦り抜けていった。遅れてあまり匂いのない洗剤が弱く薫った。彼女はひとり残り、妙な居心地の悪さを覚えるはめになる。右と左がやっと分かるくらいになった異国の少年を虐げた気になってしまう。この地の住民性、風潮、在り方を教えたはずだった。彼の境遇とは相性が悪いようだ。彼女は髪に雑な手櫛を入れて、うんざりしたように寄宿舎へと帰る。


 食堂勤めの問題児について、後日にイセノサキへ報告した。その時は短く労いの言葉と共に済んだが、また数日を於いてこの件に関する話がやってきた。

 それにしてもアサギリは、このいかにも上司の管轄外である話を切り出すのに逡巡した。ワーカーホリックな彼は見るからにやつれ、これでは部下は、否、さらなる上司を含めて、イセノサキに仕事の話を振るのすら躊躇う有様だ。

 アサギリが悠々と本部の廊下を歩いていたとき、青痣みたいに隈の浮かぶ目元で彼は話しかけてきた。内容は食堂勤めの問題児のことについてである。

「ツキヨノくんから謝罪があったらしい」

 彼は脇にタブレットを抱えている。移動の最中であるらしい。

「謝罪……ですか。大袈裟な」

 後ろめたさが生まれた。疲れを見せまいとしている怕い上司の喋り方も心なしか叱責に聞こえた。

「これで落着だ」

「表面的には、ですよ。無理矢理に納得させたんです。要はそれらしいことを偉そうに語って、郷に従ってもらったんですよ」

 まだアサギリはどのようなことを異国の少年に話したのかは言っていない。ここで内容をすべて打ち明けてしまう必要性もまた感じられなかった。ただ罪悪感がある。

「納得できないことを上面うわつらでも納得しなければならないことなんて、職場ここではよくあることだ。多少の後ろめたさはあるが……」

 見透かすような物言いに彼女は一瞬脈を跳ばした。

「本当に正しいかは分かりませんよ、わたしが彼に言ったことは」

「本当の正しさというもので言うなら、俺も分からないことが多い。それでも仕事だから仕方ない、の一言で済む―嫌がるおまえを無理矢理機体に乗せてるんだから」

 目的の部屋に辿り着き、イセノサキとはそこで別れた。アサギリはそこに突っ立ったまま、上司の言葉を反芻する。妙な気恥ずかしさに顔が熱くなる。周りからどう見えていたのか明らかにされたのが急に恥ずかしくなってしまった。




 アサギリは孤独な異国人の人間関係の拗れなどとうに忘れていた。それよりも上司が言い残していったことのほうが重要案件だった。彼女はベッドに寝転がって天井を見上げていたが、やがて気分転換を求めて寄宿舎を出た。時間帯はすでに夜である。まだ深夜とまではいかないが、日が沈んでからは大分経つ。生温い風が吹き抜けて、アサギリの髪が靡いた。基地内を散歩する趣味はない。この時刻に寄宿舎を出たとしたら行き先はひとつである。キャッスル・ストーンハート。ホストクラブだ。

「ミス・ミナカミ」

 予想外のタイミングで声をかけられ、アサギリは飛び上がりそうになった。レーゲン・ツキヨノ・ランドロックトの声だ。

「びっくりしたな……」

「悪かった」

「どうしたの、こんな夜中に」

 黒いシャツが基地内の夜間設備の明かりによってしっかりと炙り出されている。首にはタオルを巻いていた。運動をする服装である。

「ランニングをしていた。それよりも、この前の話だ」

「うん?」

「謝罪はしたぞ。世話をかけた」

 彼は首にかけたタオルを下ろす。首筋に汗が照っているのが基地内に乱立した照明塔によってよく見えた。

「ああ……そう。あれから上手くやれてるの?」

「問題ない。借りた分はすぐに返す。待っていてくれ」

「借りた分?わたしは貸したなんて思ってないんだけど。受け取らないからね」

 はいそうですか、と引き下がる相手ではなかった。レーゲンは眉根に皺を寄せる。ナイター塔に照らされた顔から汗が落ちている。

「いいや、たくさん買ってもらった。受け取ってもらわないと困る」

「はいはい。でもね、ランドロックトくん。なんというか……君がもう少し、この土地に慣れてからがいいと思うな、それは。なんていうか、慣れてない土地で味方なのは、やっぱりお金だからね。だからまだ受け取れないな、それは」

 汗がしとどに流れ落ちている彼の表情は強張っている。常時彼は剣呑な雰囲気を纏っていたが、それとはまた異質な、豊かな表情があったうえでの、妙な強張りだった。

「男が一方的に借りっぱなしなのは……」

「そういう考えは、この土地にはあんまりないよ」

 捨てきれない価値観を未だに引っ張っている様が彼の孤独さを助長する。

「……」

 基地内の夜間設備が残酷に異国生まれの少年を照らし出す。彼は唇を歪めて俯いていた。

「走って疲れたでしょう。もう寝なさいって。身体が資本なんじゃない?」

 すでに呆れられて懐かしいくらいだが、イセノサキから以前、口酸っぱく言われたことである。

「そうだな。そうする」

 長い髪を切って毛量が減ったせいか、レーゲン・ツキヨノ・ランドロックト少年は初対面時よりも萎んで見えた。彼は潔くアサギリの前から去っていく。汗と整髪料とこの土地の匂いが混ぜ返されて鼻に入り込んだ。






 甘い酒をぐび、と傾ける。ポケットしていたことに気付いたのは、野暮ったいホストの顔面が眼前に迫ったからだった。この三途さんずワタラセは醜怪というわけではなかったが、冴えず野暮ったい。化粧もしていないために荒れた肌が露わになって、染髪からも月日が経っていた。ハイスクールの素行不良児みたいな風貌で、人懐こい犬みたいな雰囲気が可愛いらしい。

「気にしてるん?」

 アサギリの頼んだ揚げ物をぱくつきながら彼は首を傾げた。

「え?」

 先程、職場に入ってきた非正規雇用の異国人の愚痴をこぼしたばかりであるが、彼女は忘れてしまった。異国の文化のせいか、はたまた男女というもののプライドの在り方の違いかと、異性同性問わずに見てしまっているあどけないホストにくだを巻いたのだ。

「さっき話してたコト。アサギちゃんは悪くないと思うな」

 ぱくりと馬鈴薯揚げを口に放る少年みたいなホストとぱちくり目を合わせていた。それから2秒3秒ほど経ってアサギリは微苦笑を浮かべる。金銭のやり取りがある関係だ。同調する仕事でもある。 

「ありがと」

 三途ワタラセは可愛らしく目を開き、彼女のほうへ身体を向けると両腕を開いた。

「ぎゅ~ってする?」

「しないよ」

 アサギリはまた苦笑した。彼は唇を尖らせ、戯けて拗ねる。

「慰めてくれてありがとね。相手傷付けおいて自分は慰めてもらおうって、ちょっとわたしズルいかも」

 山盛りの馬鈴薯揚げを摘んで口に放る。そして酒を啜った。異国の少年は故郷を失い、知らない土地で身ひとつ、慣れないルールに従っている。考えると酒の味が淀んだ。彼女は髪を掻く。

「ズルくないよ」

 ぎゅむむ、と三途ワタラセは座面で四つ這いになり、アサギリへ顔を近付けた。飼猫が人に化けたみたいである。

「ここに来て、おでに話して、自分の機嫌自分でとろうとしてるじゃん」

 彼女は顔だけ華のないホストへ向けた。

「そろそろ帰るよ。まだ他に食べたいものある?」

 少し時代遅れな感じのある髪を横に振って三途ワタラセは足をソファーから下ろす。

「ない」

「そう。じゃあまた来るからね。少し痩せた?揚げ物ばっかだからかな。あと髪も、そろそろ染めないと」

 赤金紙幣を5枚ほどホストの内懐に捻り入れる。食費と染髪代にはなるだろう。

「ありがとぉ、アサギちゃん」

「つまらない愚痴はなし聞かせちゃったからね。これで美味しいものでも食べて、全部忘れて」

 金子きんすの捩じ込まれた胸元を両手で押さえて彼はこくりこくり頷いた。

 アサギリはすぐに退店した。基地に戻ると、外を出歩く蹣跚まんさんとした足取りの人影を認めた。監視カメラが捉えているはずで、何の警戒体制にも入っていないところをみると基地内でも危険視していないようである。

 アサギリはその人物の顔を見た。メイヒル・アザレアである。この者はパイロットの資質を持たずにエンブリオに乗ったため、精神状態を著しく悪化させた。

「アザレアさん」

 アサギリは声をかけてみる。シャツのボタンは段違いだった。眼鏡の丁番とテンプルの接合部にテープが巻かれているのが痛々しい。洒落者であったはずだが、身形に気を使うゆとりもなくなっている。こうなるまで、視力矯正が必要なほどに目が悪いことも知らなかった。

「どうしたんですか?」

 ぼさぼさの髪は猫っ毛で跳ねている。今は基地で雇ったヘルパーを入れている。馘首かくしゅの話も出ていたらしいが、イセノサキがそれを止めたという噂である。派閥争いもあった。この基地で、パイロットの意向は大きく響く。イセノサキが言い出したとあれば、彼に愛憎を抱くエースパイロットが黙っていなかった。また、アサギリも詳細の分からないままとりあえず軽い気持ちでイセノサキを支持したのを覚えている。

『また同じことを繰り返すんだね……?』

 メイヒル・アザレアが喋るところを見たのは久々だった。月明かりがその面構えを照らす。痩せこけた頬が濡れて光っていた。彼は調子者で、横暴なところがあったが、今は見るかげもない。

「え?」

 まるでヨウムやインコが言葉を真似たみたいに抑揚のない語り口にアサギリは戸惑う。

『懲りないんだ』

 この者は本当にメイヒル・アザレアだろうか。病が彼をおかしくしてしまったのか。アサギリの知るこの同僚の言葉遣いは日頃から荒かった。

「アザレアさん、部屋に帰ろう」

 介護士がついていない時間帯なのだろう。彼は意識はある。肉体に障害はない。知能の低下も認められなかった。

「アザレアさん」

 メイヒル・アザレアはまだ歩き足らないらしい。肩に触れようとしたアサギリを避け、彼女に気付いたふうもなく前進した。何かあれば基地の監視員が保護するだろう。アサギリも変貌した同僚とあまり関わりを持っていられなかった。直視できない。パイロットと、パイロットでない者の差を考えてしまうことがある。一体何が違ったのであろうか。それだけではなく、同じ職場で働いていた人間だ。

 建物の陰に消えていく変わり果てた同僚を見送ってから彼女も寄宿舎に戻った。エントランスでフブキ・マヤバシと鉢合わせる。彼の隣には新人の女性職員がいた。それだけではない。女性寮から2人は現れたのである。時間は深夜だ。アサギリはぎょっとした。隠れるにはもう遅い。フブキ・マヤバシのほうとはばちりと視線がち合った。

「こ、こんばんは」

 面食らったほうの負けである。アサギリは何も見ていない、理解していないとアピールせんばかりに首を竦めた。それが却って物分かりのいいふうだった。

 フブキ・マヤバシはきょとんとして、それから隣にいる若い、ふんわりした雰囲気の新人女性職員から横歩きで距離をとった。

「お風呂場の電気が壊れたらしくて、それで……」

 寄宿舎の女性寮に男性が出入りしたことは確かに問題である。しかしアサギリも深夜帯にホストクラブで大金を使っているのだ。人のことをとやかく言える立場にないのかも知れなかった。ただ粘土を呑み込んだように喉がつかえ、ゆえに胸が苦しい。

「あ、そ、そうなんですねぇ?整備士さんですもんね。そういうの、得意そう」

 アサギリは虚ろに答えた。

「ミナカミさんも困ったら言ってください」

 アサギリは頷いた。だが社交辞令であることは明々白々だ。

「じゃ、じゃあ、お疲れ様でした」

 彼等は明日、否、今日は休みなのだろうか。アサギリはやはり何も察することなどできなかった、額面通りに受け取ったと言わんばかりの態度でカップルの横を通り抜けた。

 レーゲン・ツキヨノ・ランドロックトに不条理な注意をしたことも、メイヒル・アザレアの変貌ぶりに驚いたことも、ホストクラブで癒されたことも彼女は忘れてしまった。フブキ・マヤバシが人目の少ない夜に監視も緩やかな女性寮から現れた。これの意味するところは考えるまでもなく、直感としてアサギリを打ちのめす。

 部屋に帰ると、ベッドをこんもりとさせていた同居人が起き上がった。

「おかえり、アサギ」

 現れる男の裸身が妙に生々しい。

「何か、着てよ。何か着てよ。ねぇ、何か着て」

 八つ当たりをしてしまう。アサギリはベッドにはいかず、ソファーのほうに行って、棚に並んでいた酒瓶を掴んだ。

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