第9話

 エンブリオの試運転の予定が早めにアサギリを起こした。隣ではまだ童貞の性奴隷が眠っている。髪を掻き上げ少しの間 うずくまる。ベッドサイドにある調整剤をあおった。管理司令室から渡されたものだが、これがただのビタミン剤であることをいつの間にか知っている。味が美味い。それだけだった。

 微かな衣擦れに横で寝ていた全裸の男の目も覚める。

「ん……、アサギ。おはよ」

「おはよう。起こした?」

 生活リズムがなかなか合わないためにベッドを別にすると提案したとき彼は泣いて嫌がった。

「大丈夫。アサギ、今日……」

「そう。試運転。あーあ……」

 抑揚なく溜息を吐く。隣の衣擦れが大きくなり、なめらかな感触が身体を包む。マージャリナの腕に抱き締められている。

「大丈夫。アサギ。大丈夫だよ」

 髪を撫で、背を摩るあまり体温の高くないマージャリナの肌が馴染む。

「うん。頑張るよ。だからマージャは心配しないで」

 パイロットスーツを着るときの下着を身に纏い、身支度を整えてドックに向かう。整備士たちの始業もいつもより早かった。緊張で呼吸が重い。

「おはようございます、ミナカミさん」

 いつもは苦手意識を前面に出したフブキ・マヤバシが堂々とした出立ちでやってきた。いつもならば今頃寄宿舎のエントランスで会っている頃だ。早い出勤にもかかわらず、フブキ・マヤバシは身綺麗にしている。革手袋や腰に下げた手拭の油汚れも目に入らなかった。

「お、おはよぉ……」

「健闘を祈っております」

「あ、あ、あ、ありがと、」

 フブキ・マヤバシと喋る緊張、試運転の緊張、どちらが大きいかは分からなかった。整備長から仕様の変更点や調整した部分について説明を受ける。キャットウォークに上がる膝が震えていた。コックピットに入る。胃が縮みそうだった。エンブリオが起動する。ダウンライトが点き、メーターパネルや制御パネルも照らし出される。ヘッドレストレイントから彼女の頭に被さるように円環が現れパイロット情報を読み込む。

 妙な不安が押し寄せた。一度は締めたシートベルトを外して膝を抱く。オペレーターと通信しているモニターが表示され、イセノサキがカメラに寄り過ぎて大きく映っていた。

『ミナカミ。ミナカミ。おはよう』

 呑気な挨拶からはじまる。

「おはようございます……」

 こわい上司の顔も見ずに彼女は蹲ったまま応えた。

『今日は少し動かすだけだ。何も心配することはない』

 心配するなと言われても、心配事や不安は次々とアサギリの意思を無視してやってくる。

「そんなこと言われたってさ……」

 どれも取るに足らない、些細な不安である。口にしてみるのもばかばかしい。

『"飴"舐めるか?』

 アサギリは首を横に振る。

『ミナカミ』

「なんですか……」

 いくら上司が怕いとはいえ、今は話す気分ではない。五臓六腑がエンブリオの運転を拒絶している。空腹か膨満感かも分からない違和が生じている。

『終わったら社員食堂に行ってみるといい』

「今ごはんの話したくないんですが……」

 モニター越しにでさえ顔も見ず、素気無く答える。

『ツキヨノくんが今日からあそこで働くそうだ』

「え……?」

 一瞬ツキヨノが誰のことだか分からなかったが、やがてレーゲン・ツキヨノ・ランドロックトであることを思い出す。

『経歴もやる気も申し分ない。即採用だと聞いたぞ』

 彼女の脳裏にエプロンとバンダナをつけた断髪姿のレーゲン・ランドロックトが描かれた。故郷も家族も友人も失い、知らない国に住まなくてはならなくなっている10代の少年の存在は、背中を押すというよりも突き飛ばされているような感覚だった。彼には彼なりの活力とその源があり、アサギリはアサギリなりの倦怠感と安寧がある。

「わたしはそこまで頑張れませんよ」

 やる気の無い手がパネルを操作する。

『やれるだけやってくれたらいい。それで十分助かる』

 起動の際にだけ無愛想で堅く寡黙な上司は饒舌になる。それが己を鼓舞するためだとアサギリは知っていた。不眠不休の身であることは知っている。昨夜もろくに寝ていないどころか試運転のために休んでもいないのだろう。そうすると駄々を捏ねている自身に対して不満の矛先が向いてしまう。

「ほんっと嫌な上司!」

 ドリンクホルダーにある紙コップを呷る。蛍光色が見えた。何の効力もない、ただ美味しいだけの栄養剤であることは彼女も薄々気付いている。そして紙コップを投げ捨てるとこのコックピットの中で最も力を使うレバーを倒す。数個並ぶメーターパネルに動きがあった。

『終わったらなんでも頼みを聞いてやる』

 しかし金銭的に余裕のあるアサギリは、大概のことは満たされてしまう。ぐったりとして片腕に頭を預けるような体勢で胡散臭そうに聞いていた。美味い飯も好きな服も多忙な上司に求める必要がない。これという趣味もなかった。かといってパイロットを辞めたいという願いは上司ひとりが決められるものではないことも彼女はよく理解していた。

「なんでも?」

『ああ』

「……」

『ミナカミ』

「本当になんでも?じゃあイセノサキさんの撮り下ろしブロマイド、わたしも欲しいです」

 モニターの奥のテンセイ・イセノサキの眉間に皺が寄った。

『前向きに検討する』

 ドックのゲートと天井が完全に開いた。

耽美退廃ゴシックドレスのイセノサキお姉様が見たいで~す」

 激しい気分の高低によって上司の怕さを忘れてしまった。エンブリオが急発進する。

 基地の上を旋回し、モニターに送られてきた操作の説明書どおりに動かした。試運転という彼女なりの侮りのせいか安定していた。

『その機体に新しく透視スキャナーを着けた。どこか建物をスキャンしてみてくれ』

 アサギリは言われたとおりに操作する。基地のほうへ向けてスキャナーの機能に切り替える。コックピット内がグリーンに染まる。外の景色が映し出されていた巨大なディスプレイがブラックとグリーンの罫線、レッドのテキストで構成された。基地の輪郭もグリーンのグラフィックで表現されている。

『焦点を絞れるはずだ』

 指示のとおりに動かす。適当に選んだ建物を拡大するとグリーンの人影が映り始めた。

『市街の立て籠もり事件に運用しようと思う。行政と連携してな』

「立て籠もり犯だけじゃなく、墜落にまで気を揉まなきゃいけないんですね」

『その点については考えているさ。ミナカミはスキャンと焦点を絞る作業だけやってくれ。撃つのは遠隔操作こちらでやる』

「至れり尽くせりなことです」

 コックピットを切り離して車両にでもするのだろう。何度かそのような話は出ていた。

『さらに絞れるはずだ。誰かひとり、個別スキャンしてみろ』

 グリーンの人影をさらに拡大した。スキャンを決定する小さなタッチパッドを押せずにいる。

「出てくるのって個人情報ですよね?管理体制大丈夫なんですか」

基地内ここ関係者やつらの個人情報は見ようと思えばいくらでも見られる』

「ふぅん」

 メインモニターに拡大表示されていた人陰が遠ざかり、建物が遠く映る。そして対象を司令管理センターに定めた。パイロットのオペレーター席に座るグリーンのシルエットをスキャンする。

 黒とグリーンを基調としていた画面がカラーになる。テンセイ・イセノサキの生年月日、身長、体重、持病の有無や家族構成が現れる。他にもまだまだ項目があるらしい。

「イセノサキさんって28歳なんですね。32歳くらいかと思ってました」

 気分良く酔ったときの気分に似ていた。パイロットの上機嫌にイセノサキもどこか安堵している様子だ。

『言われ慣れている。よし、ミナカミ。よくやった』

 他にもいくつか新たな機能を試した。エンブリオがドックへと帰る。エンジンが停止され、コックピットが暗くなったときに猛烈な疲労感に襲われてアサギリはシートベルトを外す気力も起きなかった。整備士が外側からコックピットを開く。任務を終えたパイロット用に改造された車輪付きのソファーを引いている。

「お疲れ様でございます」

 アサギリからは見えないところにフブキ・マヤバシがいたらしい。気怠い身体をシートから引き剥がす。

「お疲れ様です」

 彼女の声音にはエンブリオ起動中とは大きな落差がある。乾涸びた愛想笑いを添えてフブキ・マヤバシに挨拶を返す。

「今出ます」

 シートベルトを外す。ヘルメットを転がしてコックピットから這い出た。ソファーに横たわると、やってきた医局の職員に操縦後の処置をされながら問診される。頭痛と眩暈があった。

 物は食べられそうかと問われ、朝飯を食っていないことを思い出した。飯を食いに行くと言って彼女は立ち上がった。胃もたれか空腹か分からない軋みを腹に感じる。徹夜をしたような気怠さと妙な頭の軽さがあった。

 試運転の日は朝が早くなるが、終業も早くなる。整備士たちもこの後は空くはずだ。アサギリはふとフブキ・マヤバシを一瞥した。もう一人の整備士と話している。朝食は摂ったのだろうか。昼食は誰と摂るのだろう。アサギリはもじもじとしてしまった。

「ミナカミさん」

 もう一人の整備士と話していたフブキ・マヤバシが、まだそこに留まるアサギリのほうを向いた。

「は、はい!」

「ヘルメット、忘れてます。こちらから用具係ホペイロに渡しておきましょうか?」

 フブキ・マヤバシはグローブを外し、素手でヘルメットを拾った。彼はこのパイロットが更衣室を経ず、パイロットスーツのまま帰っていくものと思ったらしい。

「あ、ああ、いいえ!自分で持っていきます。ありがとうございます」

 彼女は礼を言ってヘルメットを受け取った。やはりそこから話題を切り出すことができなかった。フブキ・マヤバシのほうはまだ仕事中である。

 アサギリは更衣室に入って暫く座り込んでいた。多少の空腹はあるが、部屋にチョコレートがある。昨晩はクラブストーン・ハートには行っていない。朝昼兼帯の飯を諦めて早めに来店し、酒を飲むのでもいい。アサギリをそうと決めて膝を叩いてから着替えはじめる。しかし予定が狂ったのはこの直後だった。脱いだパイロットスーツとヘルメットを用具管理員に渡し更衣室を出ると、こわい上司が立っていた。エンブリオ運転中の数々の無礼を咎めに来たのかも知れない。だがイセノサキも操縦中のパイロットの情緒の激しい上がり下がりは理解しているはずだ。今回ばかりは度が過ぎたのだろうか。アサギリは顔を見た途端に萎縮してしまった。

「お、お疲れ様です……」

「お疲れ」

 管理司令室で資料や試運転の結果などを確認し、ぶつくさ言っている時間帯であろう。しかし上司はここにいる。やはり火急かきゅうの用件があるに違いない。そしてそれは訓告であろう。

「なんですか……?」

「人にブロマイド撮影を頼んでおいてなんですか、か。予定が詰まっている。やるなら早めだ」

「え!」

 そしてアサギリは夢で言ったのか現実で口走ったのか曖昧になっている要求を思い出した。

「あ……あれは、ノリですよ。冗談です。別に要りませんし。イセノサキさんの女装ブロマイドなんて」

「女装?女装までする気はなかったぞ」

「まぁ、どっちでもいいです。持っていても仕方ないんで」

 イセノサキに愛憎を抱く当基地のエースパイロットに贈る程度しか価値が見出せない。

「食堂に行くぞ。まだ食べてないんだろう?」

「……はい。そうですけど…………」

「撮影の計画を立ててこいと追い払われた。また戻っていっても仕方がない」

 先をつかつかと行ってしまうイセノサキに渋々アサギリもついていく。彼は管理司令室のジャケットを脱いだ基地内ジャンパーを羽織っていた。鳩尾みぞおちでカードキーが揺れている。

「イセノサキさんはまたうどんですか」

「どうするか。ミナカミはどうする」

「お腹は減ってるんですけど、あんまり胃の調子よくない感じなんで、今日はわたしがうどんかも知れないです」

 そう言いながら食堂で彼女の注文したものはカレーである。サザンアマテラス基地カレーなどと呼ばれている。開発者はすでに市街地でこの基地カレー専門店を出している。今食堂に残っているのはその弟子だ。

 サザンアマテラス基地カレーは黒いが見た目ほど辛くはなかった。大きくカットされた具をスプーンで断ちながら食らう。長いこと煮込まれてポテトもキャロットもビーフも柔らかい。

「ツキヨノくんはよくやっているな」

 豆腐揚げうどんを食らうイセノサキが言った。レーゲン・ツキヨノ・ランドロックトはカウンターの奥で食券を受け取り、注文品を運ぶのに多忙な様子であった。アサギリは横目で一瞥した。

「そうみたいですね」

 あまり興味はなかったが、上司の言うことだ。同意しておけばよい。

「医局の洗濯アルバイトもやりたいそうだ」

「意欲が旺盛なことで」

 この話の流れはアサギリにとって拙い。レーゲン・ツキヨノ・ランドロックトのように働けと言われかねない。

「ただ、健康上の問題もある。まだ治りきっていない怪我があるらしいのでな。下手に仕事の斡旋もできない」

 上司はなかなか扱いの難しいチョップスティックスを器用に使いうどんを啜る。

「なんでそう働きたいんですかね。わたしには分からない感覚です」

 戦争のない日常にまだ軍人の肉体がついていかないのだろうか。アサギリはやはり昼はひねもす夜は夜もすがらベッドで寝転んでいたい。出勤したくなかった。エンブリオにも乗りたくない。飯の準備さえ面倒で仕方がなかった。食事は疎にしか摂らないが酒は多量に入れるためパイロットの定期健康診断の数値は芳しくない。

「借りた金を返したいと言っていたが」

「誰にです?」

 まさか知らぬ間に消費者金融に行ったのであろうか。消費者金融ならばとにかく、借りてはいけないところから借りたのではあるまいか。彼の国の金貸し事情は知らないが、霹靂神統治ノ地には非常に残忍で冷酷な金貸し業が存在する。アサギリはグラスに注がれた水を飲んだ。基地から出たが最期、あの者は深海魚と同居するなり、山奥でクマか野犬に掘り起こされることになるのだろう。

「ミナカミ。おまえに借りたと聞いているが」

「あ、わたしですか」

 上司は黙って頷いた。すでに食事を終え、腕を組んでいる。

「びっくりした。厄戯やくざれ者に借りたのかと思いましたよ。もう会うこともないんだな、なんて。そうなんですね。わたしは貸したつもりないんですけど」

 ほぼ無尽蔵に金が湧くシステムが彼女にはある。つまり異国生まれの天涯孤独の身となった哀れな少年に日用品や服飾品を買い与えたといっても端金である。

「プライドだろうな」

「女に貢がれるのは我慢ならないって思ってそうですもんね」

「そう言ってやるな。国が違ければ男女観も違う。その程度もな」

「それは分かってます」

 上司の頭は固い。

「彼個人のものかは知りませんが、結婚観まで違うみたいなので」

 仕事のことでも考えているのか、上の空めいたイセノサキの眉間に皺が寄る。

「結婚観?」

 アサギリはレーゲンに傷付けられた手を見せた。ほとんど治っているが、剥がれきっていない薄皮によってその跡が分かる。

「彼の祖国だと、手に傷のある女はモテないそうですよ。だから責任とるって言われました。初めてのプロポーズが仕方なくって、本当にわたしの人生ってシケてますね」

 彼女は軽快に笑った。イセノサキは相変わらず怕い表情をしている。

「求婚されたのか」

「断りましたけどね、さすがに。仕方なく結婚っていうのもそうですし、まだ未成年の年下だし、異国人はちょっと……対象外ナシですね」

 アサギリも飯を食い終える。普段はやらないが厳格な上司の前では両手を合わせ、簡易的な祈祷をする。彼から直接何か言われたことはないけれども、こういう点に関して口煩そうである。母親が異国の官僚であり、弟も優秀な軍人である。アサギリは基地所属のエンブリオパイロットであることを除けば何を志願したわけでもない一般市民とそう変わらなかった。

「食器、置いてくる。渡せ」

「それ、上司がやっちゃダメでしょ、イセノサキさん」

 目の前のトレーを引き寄せる。食器を片方に移して重ねる。

「……何が飲みたいんだ」

 イセノサキは嘆息する。この上司と昼食を摂るときのいつものやり取りである。食器を返しに行くか、飲み物を買うかである。

「ミルクティーがいいです」

 トレーを返しに厨房カウンターに近付いた。途端に奥から荒れた声が聞こえる。アサギリはぎくりとしたが、すでにトレーは返却棚に乗っていたため倒れたり落ちたりすることもない。言い争っているらしいが、特に興味もひくこともなく彼女は上司がいるはずのホール前に向かった。そこは長い通路に沿って十数台の自動販売機が並び、基地所属の者たちからは"自販機スペース"や自販機所"と呼ばれていた。その中の半分は水と茶だけを取り扱っている。暑い季節になるとこのうちのほとんどが売り切れになる。

 イセノサキはコーヒーの缶を口元で傾けていた。もう片方の手にはミルクティーのペットボトルがある。

「ごちそうさまです」

「ご苦労」

 アサギリはペットボトルを受け取ると、ぺちと上司のコーヒー缶に当てた。キャップを捻る。

「この後はどうする」

 本格的なものよりも砂糖で甘さを強調されたミルクティーを飲みながら彼女はイセノサキの気難しげな目を捉えた。

「寝ますけど」

「そうか。ゆっくり休め」

「なんでですか?もしかしてどこか誘ってくれるつもりだったんです?」

「いいや。まだ動き回るつもりなのかと思った。休めるなら休んでおいたほうがいい。運転は負担になるだろう」

 アサギリは首を捻る。

「今日はそうでもなかったです」

 彼女の普段の行いや態度から想定していたものとは違う返答だったのだろう。イセノサキの怕い表情が微かに緩む。

「じゃあ撮影会はナシだな」

 そして彼は愛想がないなりに口元を綻ばせ、手を振って去っていく。アサギリは自動販売機の行列を眺めながら対面の壁を窪ませて設けた休憩所のベンチに腰掛けた。本格的ではない人工甘味料のミルクティーを飲む。前を3人ほどの若い男たちが通り抜ける。学生の年頃であろう。社員食堂のスタッフルームから出てきたところのようだ。会話の内容が聞こえた。彼等はひどく気分を害しているらしいのが、その語気や言葉遣い、挙措動作から窺えた。新入りのくせに。しゃしゃりやがって。気に入らない。どうやら彼等は新人に対する不平不満を語り合っている様子だ。アサギリはミルクティーのペットボトルを傾け、内心彼等に同情した。

 彼女は食休みを堪能してから寄宿舎へ戻る。洒落た金色の義眼器を着けた童貞の性奴隷が窓辺で絵を描いている。画材の匂いがした。キャンバスの奥で彼は身体を傾ける。

「おかえりなさい、アサギ」

「ただいま。換気したら?」

 アサギリは換気扇を回した。彼の傍にあるものとは別の窓を開ける。そよ風があった。

「今日、どうだった?」

 マージャリナはまだ身体を傾けている。

「悪くなかったと思うよ。もっと長引くと思ってたし」

 彼は安堵を見せて筆を動かす。

「マージャはごはん食べたの」

「うん。パン食べた」

「そう」

 想定していたよりも穏やかな一日だった。棚に横並びの酒瓶を眺めたが、特に飲む気も起きない。窓を対面にした安楽椅子に腰を下ろしてゆらゆらと揺れた。マージャリナの立てる物音が心地良い。穏やかな一日になると思った。完全に気を緩めたとき連絡用の携帯電話が耳障りに喚いた。

「うるさ……」

 何かの拍子に音量を上げていたらしい。置かれているベッドサイドへ取りにいく。尻はまだ安楽椅子と離れたくないらしかったが、耳はさっさと止めろと訴えている。それだけでなく静かに絵を描いていたマージャリナにすまなく思った。

 電話が来ている。画面にはイセノサキを示す肩書きが映っていた。

「はい?ミナカミですけど……」

 オレンジとホワイトのシェルタイプの携帯電話を耳に当てる。赤い首掛けストラップがメトロノームの如くぷらつく。

『イセノサキだ。運転終わりに悪いな。今どこにいる?』

「フツーに寄宿舎いえですけど」

『俺が邪魔するのと、センターに来るの、どちらがいい?私服で構わないんだが……少し話がある」

 彼女はマージャリナを横目で見た。彼もこちらを見ていた。視線がち合う。

「じゃあ行きます、そっち。ヤバい話ですか?」

『いいや……俺は仲介しているだけというか……そう肩を張る話じゃない。緊張しないでくれ』

「してないですけど、分かりました」

 イセノサキは「頼む」「すまない」と言って電話を切った。アサギリは指定ジャンパーを羽織ってマージャリナに説明すると部屋を出る。

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