第20話


 アサギリはサイレンを止め、コックピットを出た。装甲に乗り上げると、自衛警護隊のヘリコプターが見えた。それからメディアのヘリコプターも見えた。

 周辺の木々は薙ぎ倒され、根と共に地面が掘り返されてもいた。

 パイロットスーツの手首部分に内蔵された腕時計型の通信機が鳴った。

「はい……」

『基地からヘリコプターを飛ばした。とりあえずはそれで帰ってきなさい』

「アクギは……」

 彼女は操縦を終えた直後の判断能力が著しく落ちていた段階で、胃酸の味を掻き消すように興奮剤を砂糖で固めた蛍光黄色のキャンディーを不用意に舐めていた。それがまた、肉体を苦しめた。不適切な日焼けをしたように肌が爛れが疼いている。目は粘膜の炎症であるが、はたから見ると潰れているように見えた。

『基地提携ホテルで泊まりなさい。いいですね』

 カミヅケミヤマの口調はまるで教師のようであった。アサギリは父親を知らないが、フィクションでよく見る父親役のようでもあった。

「アクギで帰ります……」

『アクギを動かせば、機体同士、無事ではすまないでしょう』

 アサギリは異様な虚無感に襲われて、さめざめと泣き出した。

『あなたの生徒が会いに来ています』

『ミナカミ先生!大丈夫か!』

 それは音声のみだった。しかし聞いている側には、声の主の姿がありありと思い浮かんだ。すぐそこに居るかのように。

「嫌だ!嫌!」

 彼女は癇癪を起こした。上空から撮影されていることにも構わなかった。レーゲン・ツキヨノ・ランドロックトという少年が、彼女を惨めにした。


 結局、彼女は放心状態に陥った機に基地のヘリコプターに回収されて帰った。この苛烈で情緒不安定なパイロットにとって飛行機や乗員乗客のその後などはどうでもよいことだった。ウェブニュースでもテレビでも新聞でも、この件について知ろうとしなかった。アサギリは鎮静剤を打たれ、処置された後、ストレッチャーに乗ったまま危機管理委員会だの調査委員会だのに出ていた。

 薬液の大量摂取はアサギリの内臓に大きな負荷をかけた。酸素マスクをつけ、倦怠感の中で、彼女はどうしてもメイヒル・アザレアについて自ら口を割ることができなかった。しかし通信記録には音声にしろ映像にしろ残っているのである。

 何も、彼等或いは彼女等はエンブリオが憎いのでも、反基地意識があるのでも、パイロットに嫌悪があるのでもなかった。ただ形式的に必要なのである。誰もが感情的に生き、感情的に振る舞っていいわけではない。論拠と根拠が要るのである。

 また、カミヅケミヤマもパイロットへの対応に対して審議にかけられていた。子供の如く泣きじゃくるアサギリ・ミナカミの姿が顔にのみぼかしがかかって雑誌の一面を飾っていた。


 アサギリがやっと医局から出られたのは3日後である。彼女はヤーキマンデウ記念病院にすぐには行かなかった。メイヒル・アザレアが投獄されたのである。投獄とはいえ、彼は健常な状態ではなかった。医局地下の格子状の壁がついた個室で眠っている。1人での面会は許されなかった。副基地長に頼み込み、やっと医局地下の留置所を通されたのだった。

「発見されたときには、すでに意識がありませんでした」

 カザバナ・カミヅケミヤマの声は低く、床に響くようである。メイヒル・アザレアに怪我はないそうだ。ただ、意識を失ったままなのだそうだ。

「今回の作戦は、アザレアさんの助けなしには成功しませんでした。それなのに、こんな扱いをするんですね」

 アサギリは格子に縋りつき、床に膝をついていた。

「クラッキングは大罪です。それも、エンブリオの……あれは人を殺せます。大量殺戮のできるものです」

「では、あの状態でどうやってわたしとコンタクトをとれと……」

「ときに、正しさというものはぶつかるのです。結果論で"正しかった"では許されません。緻密な計算と、根拠がなくては。今回は偶々、死者が出ずに済みました」

 委員会でもそうであった。

「アザレアさんの見解は、間違っていましたか」

 カミヅケミヤマは黙った。

「副基地長だけの決定でないことは、分かっています」

 彼はまだ無言を貫いていた。

「わたしはこの基地が家みたいなものです。他に帰る場所はありません。だから基地のお偉いさん方は、わたしが基地を裏切るはずはないと信じているのでしょうけれど、これから一般公募が始まって、誰からもパイロットをつのれるようになったとき……分かりませんよ。殺戮者は最初から殺戮者なのかも知れませんし、途中から目覚めるのかも知れません」

 アサギリは立ち上がった。

「もう大丈夫です。付き合わせてしまってすみません。ありがとうございました」

「ミナカミさん」

「はい……」

 怒涛の反論でもされるのではないかと、彼女は身構えた。

「私の務めはパイロットの安全よりも市民の安心です。ですから、大量投与の件について、おそらく再度、繰り返すでしょう。その点について詫びたところで、その場凌ぎにしかなりません。ですが、ありがとうございました」

「……いいえ。ここは災害大国で、機体あれは人を助けるためにあるものですから」

 彼女の肌にはまだ爛れの痕が残っていた。

 エンブリオ・アクギは、カラカゼを稼働させ、飛行機を退けなければ回収できなかった。また、飛行機の解体についても手伝うことになった。しかしまだ休養が要る。

 医局から寄宿舎に戻る途中、後ろから追突された。しかしそれは力加減のされたもので、転倒することはなかった。

「ミナカミ先生!大丈夫だったのか」

 金色の眸子が視界に飛び込んでくる。

「ランドロックトくん……」

 何故、レーゲン少年が管理司令室にいたのか。彼はパイロットの体調不良を知っていた。そしてその正義感によって管理司令室に向かい、またパイロットのよく知る人物として入室を許された。後から聞いた話では、薬液を大量投与したカミヅケミヤマに対して、彼は憤激したらしい。

「思ったより元気そうで良かった」

「うん。ありがと」

 彼は相変わらず身体を動かしていたようだ。黒い半袖シャツの袖を捲り肩を晒して、鮮やかな緑のタオルを首から掛けている。

「本当に無事なのか。あんなに薬を吸わされて……」

「ああ、見てた?ランドロックトくんには知られたくなかったな。大丈夫だよ、いつものことだから」

 しかし嘘であった。元上司のイセノサキは薬物投与を控えていた。一方新しい上司カミヅケミヤマはパイロットより優先事項がはっきりしている。冗談めかして彼女は答えた。

「俺が必ずパイロットになる。それまでだ。それまで……」

「期待してるよ、ランドロックトくん。パイロットの道は険しいぞ~」

 この少年がパイロットになることについて、真っ向から否定はしなかった。彼ならば本当に、優秀なパイロットになれるような気がした。だが実際そうなったとき、彼の頑なな精神はどうなってしまうのだろう。彼はどのようにして心を壊してしまうのか……

 アサギリは少年の肩を叩いた。印象とは異なる筋肉質な感触がある。けれど彼女にとっては年下の男の子である。大人びてはいるけれど。

 そして格納庫に向かった。更衣室にある服を回収するためだった。

 時間は昼過ぎで、そろそろ整備部や備品管理部は休憩に入る頃だった。アサギリは堂々としていてもいいはずだ。しかし彼女は更衣室に着く前に壁沿いへと隠れてしまった。ドックは明るかったが、更衣室だのシャワー室だのスタッフルームのある場所は、吹き抜けの2階が通路があるために陰っていた。そこは重機だの大きなコンテナなどを置いて仕切り、2階が出っ張っている分だけ通路に作り替えられていた。ゆえに高い天井の強い照明も絞られて手元や足元が分かる程度である。

 彼女はそこに潜んだ。色濃く落ちた陰に。人工日向から聞こえたのだ。フブキ・マヤバシと、若い女の声が。

 何度か2人でいるのを見たことがある、女性新入社員だ。明るい茶髪は肩の辺りで内巻きで、基地の制服のジャケット、そして桜色のロングスカート。白のヒールサンダルが軽快な感じだった。

 彼等は昼食の話をしていた。社員食堂か、購買部と提携してやってくる弁当屋の弁当にするか、駐車場にやって来るケータリングにするか……

 更衣室はすぐ目の前であった。そこに入ったとして、彼等には気付かれないような気がした。だが気付かれそうでもあった。アサギリは気付かれたくなかった。フブキ・マヤバシに会いたくなかった。特に、あの女性新入社員といるときは。言葉が出なくなるのだった。閉塞感が胸や喉に起こるのだった。

 すでに更衣室から着替えを持って、寄宿舎へ帰る道についていてもいいくらいだった。しかしフブキ・マヤバシと女性新入社員は建設的な話をしないのである。そのことにも腹が立った。何の駆け引きなのだろう。今日の昼飯に食うものが、社員食堂か弁当かケータリングか、それはそんなに熟談し、熟慮することなのだろうか。まるで人生を左右する大勝負かのような煮え切らなさである。会話の主導権は女性新入社員のほうにあるようだが、しかし彼女は決定権を放棄していた。ところがフブキ・マヤバシも、その決定権についてまるで興味がない様子である。彼等は寿命が果て、この星が消滅してもまだ、昼飯をどうするか話し合うつもりなのかもしれない。

 やがてアサギリも、この馬鹿話に付き合っていられなくなった。物陰に隠れていたが、一切気にせず立ち上がって、更衣室に入った。ロッカーを開けば淡い葱色のトップスと白いスカートが吊るされていた。

 パイロットでなければ……

 彼女は考えた。パイロットでなければ、基地に就職はしないけれど、就職先の出会いに華を咲かせたのかも知れなかった。

 服を畳んで更衣室を出る。着替えはしなかった。寄宿舎に帰れば、部屋着になるつもりだった。すでに2人の姿はなかった。格納庫を出たときに並んだ後姿を見た。フブキ・マヤバシは作業着の上を脱いで袖を腰で縛り、白いタンクトップだったけれど、女性新入社員とよく似合っていた。背後から視線を浴びていることにも気付かないのだろう。都合の悪いことに、寄宿舎へ帰るには追うかたちになった。フブキ・マヤバシが振り向きはしないかと思いながら、彼女は身を縮ませるように歩いた。


 カラカゼによる飛行機の撤去作業が始まる前に、アサギリは三途ワタラセ、本名ハジメ・バンドウの見舞いに行っておきたかった。マージャリナと、購買部で買った弁当を食うと、ヤーキマンデウ記念病院へ向かった。自身で運転はしなかった。まだ目の霞みが否めなかったのだ。基地の駐車場を巡回しているタクシーを使った。

 ヤーキマンデウ記念病院は移設したばかりの新しい建物だ。元は狭い敷地にどうにか建てたような構造の荒廃した幽霊でも出そうな汚らしい、煤けた病院で、評判もあまり良くなかったが、移設したことで清潔感についてはクリアした。

 アサギリは1輪の花と本を持っていった。入院しているのは個室で、3階の最南端だ。すぐ隣はガラス張りで、街を見渡せた。引戸をノックする。

『どうぞ』

 声質でいうと、それは確かに三途ワタラセであった。しかしアサギリは、違う印象を抱いた。

「失礼します」

 砕けた調子で入るつもりだったが、そういう雰囲気ではなかった。アサギリはドアを開けた。ベッドに少年みたいなのがちょこんと乗っていた。ベッドごと上体を立てて座り、首だけ向けていた。その表情は、三途ワタラセではなかった。

「わっ!アサギちゃん!いらっしゃい!あわわ~」

 しかし彼は来訪者を見た途端に、表情の雪崩を起こしたみたいだった。儚げに思い詰めた顔をしていた一瞬を見逃すことができなかった。

「こんにちは」

「こんな姿でごみん。ちょっと転んでお腹打っちゃってさぁ」

 三途ワタラセ本名ハジメ・バンドウは、負傷した現場にアサギリがいたことは知らないようだった。そしてアサギリも彼には自身の素性を明かしていなかった。

「三途くん……モーリエ・アムールグランドホテルにいたでしょう」

 けらけらと軟派に笑っている姿は、時刻こそ早いがホストクラブ「キャッスル・ストーンハート」の三途ワタラセに違いない。そして誤魔化すことを知らず、動揺を見せてしまう素直さもまた、キャッスル・ストーンハートのキャスト三途ワタラセだ。

「う、うん……社会科見学だよ!」

「お父さん、エンペラーマールの代表なの?」

 彼の眉が困惑を示した。

「どうして……」

「わたしもあの場にいたから」

 ハジメ・バンドウはそれを知られたくないようだった。

「騙してた、ワケじゃ、ないよ」

 何故彼がそういう答え方をしたのか。エンペラーマールの子息であれば、女に媚びを売っている仕事だの、男妾同然だの、女に身売りをさせて成り上がる鬼畜だのと嘲笑われ蔑まれるホストクラブのキャストにならずとも済むであろう。アサギリにとって、夜もすがら酒を飲み、どういう客に対しても上機嫌を保って接客するその職業が、巷で言われているほど楽なものだとは思わなかった。

「仕事でしょう……騙されたとかは、別に思ってはないけれど、なんだか意外で……」

「なんでホストやってんのって、思った?おでには、あんな大きな会社継ぐ才覚、ないから……でも、アサギちゃんはどうして?」

 彼の事情に切り込めば、その質問が返ってくるのは無理もない。

「パイロットだから」

「ふぇ……?やだな、アサギちゃん。基地で語学塾やってるって……」

「う~ん」

 冗談ではなく、事実であった。けれどハジメ・バンドウにはそうではなかった。しかし訂正もしなかった。彼女は笑って受け流した。そのうちにハジメ・バンドウの中でも考え直したのだろう。モーリエ・アムールグランドホテルに居合わせたならば、アサギリという人物は遠からずサザンアマテラス基地やエンブリオと関係のある者だ。基地職員や託児所の児童向けに語学教室を開いている女が入れる場所ではない。エンペラーマールの代表子息はそこに思い至ったのか否か。

「ホテルでもアルバイトしてるの?」

「まぁ、そんな感じ」

 ハジメ・バンドウは俯いていた。気拙げなその様子に気付く。

「おで、ストーンハート、辞めるんだ」

「ストーンハートを?引き抜き?」

「ううん。ホストを……急だけど。退院したら」

「……そう」

 彼はふさいでいるように見えた。

「エンペラーマールの子会社に入ることになったんだ。学無いのに……」

「おめでとうって、言えないことかな」

 首肯も否定もなかった。

「おで、妾の子なんだケドさ、母さん、病気で……でも、親父、本妻の子にしろ妾の子にしろ、他にいるの女の子だけだからさ………おでが会社継いだら、母さんの、治療費、出してくれるって……だから、ホストクラブで働く理由、もうないんだ。楽しかったよ、アサギちゃん」

 アサギリは傲慢な女であった。煩悩の塊であった。業の深い、嫌な人間であった。彼は大金を要した。彼女は自身がそれを動かせることを知っていた。人を買うことについて麻痺していた。そのときの彼女に閃いた奸智……

 だが良識が打ち砕いた。

「そうだったんだ。寂しくなるな。たまには連絡、ちょうだいよ」

「うん」

 ハジメ・バンドウは肉体的な面に於いては無事そうであった。それを見てとることができた。握手を交わして、アサギリは病院をあとにした。三途ワタラセがいないのでは、キャッスル・ストーンハートに通う意義はなかった。また、その他のホストクラブを開拓する気にもならなかった。

 彼女は基地へと帰る。寄宿舎の部屋にはマージャリナがいて、酒瓶がある。三途ワタラセはアサギリにとって、基地の外、ある種の日常的な非日常であった。つまり安穏の象徴であった。だが彼にもまたそこでそうしているだけの事情があった。

 マージャリナが油絵を描いている横で、アサギリはソファーに沈んでいた。やがてそれに飽きると酒を炭酸ジュースで割って飲み始めた。禁酒を命じられてはいたが、守ったためしはない。

 ジュース感覚で飲むつもりだった。だがそのために量を入れてしまった。上機嫌になって、外を散歩したくなる。

 彼女はマージャリナの制止もきかず、寄宿舎の外へ出ていった。足はサーキットに向かっていた。しかしマシンに乗るつもりはなかった。クラブハウスの観客席にいき、どかりと座った。一人占めもこれが最後かもしれない。パイロットが帰ってくるまでかも思われたが、パイロットの一般公募でも開放される。

 息をするたびに、酒気がサーキットの奥の海原と大空へ解き放たれていく。

「ミナカミさん。お疲れ様でございます」

 驚きのあまり、アサギリは肩を跳ねさせた。フブキ・マヤバシが缶を両手に持って立っている。

「どうぞ」

 彼は片方、ビタミン豊富を謳ったエナジードリンク風のジュースを渡した。

「あり……がとうございます。でも、どうして……」

「入っていくところが見えたので」

「休憩中?」

「そうです」

 フブキ・マヤバシは隣の席に腰を下ろした。浅く作られたプラスチックのスタジアムシートでは、作業着に包まれた長い脚が余っているようだった。

「わたしもさっきの昼休み、マヤバシくん見たよ」

 それは嫌味のつもりではなかった。酒気に頼り、言葉を反芻することをやめた。

「声をかけてくださいな」

「でも女の子といたから」

「ああ……いいえ、えっと……どこで……」

 油汚れで黒ずんだ爪が、プルタブの上で滑った。アサギリは、彼の革手袋の下に隠された薄汚れた手を見ると胸が微かに疼いた。

「格納庫。わたし、更衣室に用があったから」

 彼はその時間帯の行動を振り返っているようだった。

「お昼ご飯、何にするか話し合ってた。いいな、わたしも新入社員の子に慕われたいね。無理かな、日々の行いってやつ?で、結局何にしたの?」

 酒が彼女を饒舌にする。最後に会った時、つまり墜落飛行機救出任務でフブキ・マヤバシの腕を握ってしまったことを思い出してしまっていた。これはばつが悪かった。しかしアルコールが味方していた。

「おれに呼び出しがかかってしまって。購買でおにぎりでした」

「……そうだったんだ」

「それより、ミナカミさんは、お身体のほうは大丈夫ですか。そうとう無理をしたとか。ツキヨノさんが怒っていましたから……副基地長に………いや、あの、おれが言えることじゃないんですが……」

 フブキ・マヤバシは途中からぎこちなくなった。

「平気。あれはわたしがバカだった。それに……ん~、まぁ、わたしと副基地長はゴールが違うからね。仕方がない。ツキヨノ・ランドロックトくんは、正義感が強いのよ。若さかな」

「ミナカミさん」

 アサギリがからからと愛想笑いを繕っていると、フブキ・マヤバシは一度俯いた。

「うん?」

「またこういうふうに、ここに来てもいいですか」

「え……?うん。でも、そろそろパイロット公募の人たちに開放されるらしいよ、サーキット」

 彼の目にはまだ迷いがあったが、しかし中心にアサギを据えた。

「ここじゃなくても、ミナカミさんと……」

 アサギリはまたぎょっとした。顔が一瞬で熱くなった。

「え……う、うん…………マヤバシくんが、よかったら………」

「おれはミナカミさんのこと、知りたいですから」

「あ、えっと……」

 この前の出動時に、彼の手を握り、持ち場を離れさせ、コックピット前まで連れて行ってしまった。それは要らぬ気遣いを生んでいるのではなかろうか。

「命懸けの、とても難しい仕事だったと聞きました。おれは何も知らなくて……見送ることしかできないなりに……後悔していたんです」

 機械油に汚れたタンクトップから伸びる肩に、彼女は倒れ込んでみたくなった。仕事中に必要分鍛えられた筋肉が眩しい。

「見送ってもらってるだけで、力になって……る、よ……だから、マヤバシくんは気負わなくて、平気……そのままの、優しいマヤバシくんが、ドックにいてくれる、なら………」

 アルコールはもう役に立ってはいなかった。それでいてアサギリから後先熟考させる力を奪っていた。ゆえに削ぎ落とされた本心を語る。だが気恥ずかしさはついてきた。フブキ・マヤバシもそうであったらしい。顔を朱色に染めていた。

「あ、えっと、とにかく、おれは、その……ミナカミさんが無事に帰ってきてくださって、よかったなって。そういうことです!あの、そろそろ時間ですから、行きますね。楽しかったです」

 座面にバネでも仕込まれていたかのように彼は立ち上がった。

「わたしも、楽しかった……」

 フブキ・マヤバシは去っていった。その背中をぼんやりと見つめていた。顔が熱い。鼓動が速まっている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る