第4話


 己の酒臭さに気付く。眠りたかったが、どうにも外がうるさかった。一度目が覚める。バター犬として贈られた金髪の青年、マージャリナが不思議そうにアサギリを見ていた。機械ごと嵌まった義眼は前後左右、四方八方を行きつ戻りつしている。

「アサギ……?」

 無防備でたおやかな色気があるが、体格は脂肪が少なく、肩が張り、筋肉質だ。日常的に全裸であるからそれがよく分かる。伸びた金髪が揺れる。

 アサギリは話も聞かず、彼の毛先を摘んだ。そろそろ切る頃だろう。伸ばすにしても、整えたほうがいい。しかしそれはまた明日考えたらよい。騒がしさはあったがまた横になる。布団を被った。すると今度は揺り起こされる。彼がわざわざそうするということはある意味では大事おおごとだ。目を擦って身体を起こす。手がふらふらとベッドサイドのペットボトルを探した。

「水……」

 哀れな性奴隷がアサギリに探し物を手渡した。

「ありがとう」

「電話、鳴ってる」

 うるさく震えている端末を渡された。通話に出るとセンター室からだった。

「見てくるから、寝ていて」

 通話の内容を聞きながら、酒臭いあくびをして部屋を飛び出した。私服に基地用ジャンパーを引っ掛けて本部に渡る。退勤しているはずの職員たちも寝間着などに制服を羽織ったり、基地用ジャンパーを引っ掛けている。電話の内容からすると、どうやら亡都から回収してきた男が脱走したのだという。すでに除染処置は済んでいるらしい。それならば特に気になるところはない。アサギリは踵を返した―が、その男レーゲンは入院中だった乞食の少年を攫ったというのである。

 部屋に戻りかけて踏み惑った足が医務室に向かった。途中、ばひん、と聞こえた。最近聞いた音が耳に張り付いているのだろうか。何となくきつく巻かれた包帯の下が痛む。銃声である。

 今この基地にいる中で、射撃訓練を受けているのは準パイロットのアサギリ、指揮官のシマ・フォーティタウゼント、副基地長のテンセイ・イセノサキの3人、そしで銃の所持が許されているのは基地警備部隊を除くと後者2人である。イセノサキは謹慎処分の中にいるが、指揮官か警備部隊、彼等の撃った音であるのならそれでよい。アサギリとしてはこの基地から出たいが、この基地の者たちを忌み嫌い憎んでいるわけではないが、名前以外知りもしない異邦人が暴走し勝手なことをして勝手に撃ち殺されたところで大した情感は起こらない。ところが人質がいるようなのである。そして人質の可能性が高いのはアサギリが拐ってきた子供だ。嘘か真か定かでない曰くのついた子供である。

 医務室に向かうつもりが、銃声が聞こえたことでドックのほうに曲がる。通路には人が集まっていた。開きっぱなしの自動ドアから指揮官が見え、その手には銃が握られている。彼女はまだ制服であった。

「女が銃なんて持つな」

 死角にいるレーゲンの姿はアサギリには見えないが声と言動からして彼に間違いない。

「投降なさい」

 フォーティタウゼント指揮官は説得を試みている。アサギリは何かしらの義務感を覚えた。踏み込みかけたところで肩を掴まれる。見上げるとフブキ・マヤバシである。彼は唇に人差し指を一本突き立てた。姿勢を屈め、ドック内に背高く積み上がった機材に隠れて中へ入っていく。

 忍び寄り、機材や機械の狭間から見るレーゲンは嬰児を抱くみたいに乞食の少年をシーツに包み、片腕だけ上げていた。

「人質を放しなさい」

「この子には俺と来てもらう」

「何が目的なの」

 脱走犯と指揮官の声がこだまする。

「言えばその銃を下げてくれるのか」

「内容によります。まずは人質を降ろして両手を上げなさい」

 レーゲンは依然として片腕を上げ続けるが少年を降ろそうとはしなかった。

「彼はここにいていい人間じゃない。ウァルホール領に入った人間だ。立場もある。国のために戦った人民に誠意を尽くすべきだ」

「ウァルホール……?」

 指揮官の眉根が寄った。

「俺は、ウァルホール軍務局本部第二小隊所属レーゲン・ランドロックト。階級は少尉……」

 アサギリは脱走犯と指揮官の間に圧倒されていた。その横でフブキ・マヤバシは銅線をいじっていた。

「ランドロックト少尉、貴方の要求は?」

「ウァルホールに帰してくれ。彼は自分の立場を人民だった者たちに明かす必要がある。でなければ戦火に消えていった者たちが浮かばれない」

 シーツの中の若い物乞いは、路傍で飢寒死するか、元国民の手で裁かれるかの2択しかなかったわけである。そこに飲酒運転をした訳の分からない情緒不安定で健康問題も起こしている自暴自棄なパイロットが割り込んだのであろう。

 フブキ・マヤバシが鴉雀無声あじゃくむせいとばかりに首を伸ばし、レーゲンの様子を窺っていた。彼の素足が床に張り巡らされた溝に埋まるコードを踏んでいるのだ。フブキ・マヤバシの判断は早かった。壁から生えたレバーが力任せに下げられる。ばち、と大袈裟な静電気の音がした。

 指揮官が一気に脱走犯へ距離を詰めた。レーゲンは隠し持っていたガラス片で己の動かなくなった足の甲を刺す。その瞬間まで何の躊躇いもない。赤い足跡をつけてレーゲンは逃げ続ける。その先にはエンブリオが格納されていた。目立つオレンジの装甲が夜間にも落とされていない強く荒削りな照明によって輝いている。

 除染処置から返され、まだ整備途中であったらしい。コックピットは開き放しで、そこに繋がる乗降ベルトも作業用ステップも片付けきれていなかった。夜勤の整備士がそれらを回収しようとしているが、脱走犯は負傷しながらも足が速い。

 銃声がひとつ、ふたつと鳴り響く。すでに脇腹にひとつ穴の空いている脱走犯の身体にまたひとつ風穴が増えた。しかし弾丸を受けても彼はまだ立っていた。

 アサギリはこの間、先に作業用キャットウォークに上がっていた。周りの整備士たちは整備については一流でも軍人を相手に格闘を演じられるはずもない。エンブリオ・アクギを奪取され、操縦中にあのエンブリオ運転特有の不調によって気でも狂われたらどうなるのか。海の方面に向かえば経済的損失と環境的損害で済むかも知れないが、市街地に墜落されたなら、そこには海に沈没するよりも大きな人的被害が想定される。

 アサギリがコックピットの前に立ちはだかる。ある程度、体術は習ったけれども何ひとつ得てはいない。負傷し出血し頑なに人質を放さないため片腕が不自由になっている軍人に果たして太刀打ちができるのだろうか。キャットウォークから下の様子を見ていた。指揮官は歩行不能になり、床に伸びた脱走犯を跨いでいる。銃口を向けられた彼は人質を放し、両腕を上げた。繭のようにされたシーツは駆けつけた整備士によって回収される。

「女に銃の撃ち方なんて教えるのか、この国は」

 この期に及んでまだそのような発言をしている。そして捕縛された。指揮官はキャットウォークにいるアサギリに気付く。手招きされ、彼女の元に向かった。

「忙しいところ、騒がしくして申し訳なかったわ」

「い、いいえ……」

 殺気だった雰囲気が急に消える。厳しいながらマイペースそうな、センター室にいる彼女に戻っている。2人の横を、血でべっとりと担架を汚し、レーゲンが運ばれていく。

「ミス・ミナカミ」

 汗ばんだ彼が呼びかける。運ばれかけたところを指揮官が止まるよう命じた。彼は後ろで両腕を縛られている。撃たれた肩は赤く濡れ、似合わなかった支給品のシャツには穴が空いている。最も酷いのは足で吸う布もなく担架を染める。

「戦争は男が始めたものだ。彼が子供であろうと男児であるのなら、その身を以って償うのが定めのはずなんだ」

 彼の月を嵌め込んだような目は血走っている。傷は痛むはずだが、口を開けば出てくるのは男だ女だという話である。

 指揮官はアサギリが返答に窮しているのか、空いた口が塞がらないのか否かまでは分からなかったようだけれども、彼女の狼狽を察すると連れて行くように言った。

「男だの女だの、大変ね」

 フォーティタウゼント指揮官は運ばれていく担架を見送っていた。

「貴方が連れて来た子のことだけれど、危険な目に遭わせてごめんなさい」

 アサギリは頭を下げる指揮官に面喰らった。理屈で見ればこの上官は悪くないはずである。人質に取られているなか銃口を向けた、実際に発砲したことを詫びているのか。だが基地内にいる以上、エンブリオを奪取されるくらいならば1人、2人の命など已むを得ないこともある。奪うほうであれ、奪われるほうであれ。この敷地内では、人命は数字にしかならない。脱走犯がドックに辿り着いてしまったときから人質は意味を成さなかった。とはいえ、あれは人質ではなく、明らかな目的があったようだが。

「い、いえ」

 赤い足跡が呼び出された整備士たちに掃除されていく。指揮官は身を翻し、明日の、日付でいうと今日の業務の開始時間が大幅に遅れることを告げた。




 脱走の騒動があった翌日、否、同日に査問委員会に呼び出された。対象になったのはアサギリと、フォーティタウゼント指揮官、それからフブキ・マヤバシの3名である。発砲、命令がないままエンブリオに近付いたこと、業務時間外のドックの機材を操作したことの是非が問われる。

 形式的に開かれるだけであった。内容は大してない。指揮官の威嚇射撃については何らかの処分が入るがその他の発砲は已む無しと判断され、アサギリの対応も奪取を未然に防ぐには仕方がなく、またマニュアルに沿っていた。問題はフブキ・マヤバシであった。果たして彼の介入は必要であったか。一個人の勝手な判断で、人質と指揮官の身すらも危険に晒しはしなかったかという意見が飛んだ。ただ真っ直ぐ前を見ているフブキ・マヤバシの横顔にこれという動揺はなかった。アサギリはちらちらと落ち着きがなく彼を瞥見してしまう。

「あ、あ、ああする以外なかったですよ。あの人、軍人だったはずですから下手なことはできませんでした。意思も強すぎましたし………」

 アサギリは躊躇いがちに挙手し、吃りながら容喙ようかいする。指揮官の鋭い眼差しとマヤバシの戸惑った目を一身に浴びる。

「必要なことだったと思います……足に怪我を負わせることができなかったなら、あの脱走犯はわたしより先にコックピットに辿り着いていたかも知れません」

 アサギリはぼそぼそと自信の無さそうに喋る。自分が出たことでむしろ他2人の立場を危うくしてはいないか。マヤバシが辞めさせられてしまうかも知れない。そこに彼女は焦る。しかしフブキ・マヤバシ自身はもう辞めたいのかも知れない。分かり合えることもなく、分かり合うことを望もうとも何に努めるでもなかった。被害者と過失とはいえ加害者になった時点で、彼と共にいることはできなかったのかも知れない。

「副基地長は謹慎中でしょう。適当な役職の人を探して指示を仰いでいる時間はありませんでした」

 監視カメラの映像を見せられる。ドックに入る直前の、アサギリが中を覗き込んでいる場面に切り替えられた。この直後にフブキ・マヤバシから肩を叩かれるはずだ。

 結局のところ査問委員会は調書をヴェネーシア水源郷の本基地に送り、そこで回答を待つらしい。

 副指揮官ほどの力があるイセノサキが謹慎中のためフォーティタウゼント指揮官はそのまま職務を続行するよう司令が下ったが、アサギリとフブキ・マヤバシはこの日一日謹慎になった。この査問委員会は謹慎処分を下すのが好きらしい。

 査問委員会が閉じられ、3人は放り出される。指揮官に何か怒られるかと思ったが、彼女はイセノサキのように事あるごとに怒ったりはしなかった。興味も無さそうに切り替わり、一言二言交わして自分の仕事に戻っていく。冷淡なのかも知れないが、アサギリとしてはそのほうが良い。彼女は指揮官の颯爽と立ち去る背中を見ていた。フブキ・マヤバシが待っている。

「ありがとう、ミナカミさん。庇ってくれて」

 一瞬目が合った。だが彼から逸らされる。

「あ、い、いいえ……庇ったというか、そのままのことを…………伝えただけですから」

 彼女は喉が固まってしまった。実は困らせていはしないか。

「それでも、助かった。どういう判断が下るかは分からないけど、ありがとう」

 じゃあ、とフブキ・マヤバシは寄宿舎とは別の方角に歩きはじめた。寄宿舎まで2人きりになってしまう。気拙い思いをしたくなかったのだろう。共に行こうと何故言えなかったのか。誘えば彼は頷き、自分の過失で健康を害した相手に気を遣う。いずれにせよ肩身の狭い、息苦しい、窮屈な思いをするのは彼である。

 優先されたルートを辿り寄宿舎へ帰った。マージャリナは絵を描いている。窓際にキャンバスを広げ、筆を握っていた。

「おかえりなさい、アサギ……」

「うん……ただいま」

 整えられたベッドに飛び込む。ああすればよかった、こう言えばよかった、が止め処なく溢れる。しかし突き詰めてもフブキ・マヤバシの気拙げな、離れたがっているビジョンに行き着く。彼女の中のシミュレーションの数々に大した差はない。

 マージャリナがやってくる。油彩絵具で少し汚れたシャツを着ていた。ボタンに長い指がかかる。

「寝ないよ」

 伽の義務を覚えたらしい。全裸になり、添寝するつもりらしい。彼はやっと趣味が見つかったのだ。それに集中しているのがよい。

「今日は1日中、部屋にいるけど」

 長い溜息を吐いた。フブキ・マヤバシは整備士である。辞めたければ辞められる。大きな過誤があり、それを背負い続け、気拙い思いをしてまでもこの職場に留まるのだろうか。まだ若い。基地外にも整備士の仕事はあるはずだ。エンブリオのような超大型機械を整備することはないだろうけれど。アサギリはここの整備士の給料を知らなければ、基地外の整備士の給料の相場も知らない。彼は高額な給料のために神経を擦り減らしてでも気拙い思いに耐えているのだ。とすると、フブキ・マヤバシに自ら接触を図ろうとすることは、彼の心労になるだけだ。

 溜息を吐いた。キャンバスと向き合っていたマージャリナの手が止まる。

「お酒でも飲もうかな」

 彼女は心配そうな性奴隷の目を躱した。部屋の酒棚を漁る。何をしても解雇にならないのだ。謹慎中に酒をかっ喰らったところでアサギリは自由の身にはならない。

 度数の高い酒をがぶがぶ飲みながらソファーに凭れ、テレビを観る。ニュース番組だった。特集を組まれるでも時間を割かれるでもない流し読みされる項目の中に「ウァルホール」の字が入ったテロップを捉えた。戦争に負けたらしいことが書かれている。苦い液体と呑み干す。大変な話である。しかしウァルホールの軍人が何故、死んだ都にいたのだろう。考えかけてやめてしまった。興味がない。乗れと言われたから乗ったのである。連れて来いと命じられたから従ったのである。苦い呼吸にも酔っていく。濃い酒を吝嗇家りんしょくかみたいにちびちび飲み、一気に酔って一気に眠るのが彼女流の飲み方であった。



 苦く異臭めいた自身の寝息で鼻から意識が覚めた。震える端末に気付く。長いこと鳴っていたのかと思いきや、マージャリナが今この瞬間に握らせたものらしい。夕焼けの入る部屋で彼の顔が朱色を帯びている。

「電話、来てる」

 アサギリはぼけっとしていたが、マージャリナに言われて通話ボタンを押した。支給品の端末で、相手は出張中の基地長からである。脱走犯の処置についてだ。昨夜のうちに指揮官が報告書を送っていたらしい。基地長が直接電話をかけてくるとは思わず、彼女は飲酒の気配を隠す。アルコールが彼女の理解力を著しく下げていたのかも知れない。つまり電話の内容は脱走犯をそのまま基地で保護するという。その目付け役を担当してほしいという依頼であった。指令ではない。だが準パイロットで気紛れ通勤、気紛れ退勤のアサギリには確かに時間があった。酒を飲んで潰しているくらいである。諾とする他ない。管理司令室は多忙を極め、指揮官はまともに休んでいる様子はなく、イセノサキは謹慎中だ。

 話がまとまり、通話が切れる。また溜息が漏れた。マージャリナが筆を置いてしまう。

「アサギ……」

「仕事のこと。よくあることだから、大丈夫だよ」

 グラスに半分ほど残っていた酒を飲み干す。喉が焼けた。

 相手は敗戦して間もない異国の差別主義者で軍人である。果たして目付け役など務まるのだろうか。アサギリの脳裏には流血し汗ばみながらも吠える若者の姿である。霹靂神はたたがみ統治ノ地では銃創含めなかなか見られない姿である。最も鮮烈なのは足にガラス片を突き刺した場面である。いくら痺れていたからといって突き刺さすだろうか。狂気の沙汰である。同時にまだ20代前半ほどであろう若者を思想に狂わせる軍だの戦争だのを恐ろしく思った。彼が異常なのであろうか。何か歯車が間違えば、アサギリもまた彼のような境遇に放り込まれるのか。フブキ・マヤバシに泣きついていた頃がふと遠い昔のように感じられた。友人というほど無条件に一緒に居たわけでないけれど、彼の存在なしにエンブリオには乗れなかった。泣きつける相手でいてくれたフブキ・マヤバシには感謝の念があるのだ。レーゲンには、果たしてそういう人物はいるのか、否か。



 とりあえずの謹慎が解け、寄宿舎のエントランスでまたフブキ・マヤバシと鉢合わせる。整備士としての制服にジャンパーを羽織っているということは解雇にはならなかったらしい。おそらく彼の判断は妥当とされたか、減給処分されたかである。

「お、おは、おはよう、マヤバシくん」

 彼はジャンパーの袖のボタンをいじっていた。

「おはようございます、ミナカミさん」

 やはり眉がどこか困った色を帯びている。

「が、んばってください、お仕事……」

 言われずとも彼は直向ひたむきに仕事をこなしている。アサギリは自身の言葉を反芻し、一気に不安になった。まるで彼が歓楽街で酒をかっ喰らい、二日酔いで出勤し気紛れに帰り、遊び呆けていると疑っているみたいではないか。吐いた言葉を引っ込めたくなってしまった。今の一言の弁明がしたい。だがそれもおかしい。吐かれた側が深く気に留めていなかったなら、余計に嫌味たらしくなりはしまいか。頭のおかしな人間だとはすでに思われているだろう。しかしアサギリは、素面でその認識とは向き合えない。

「あ、いや、その……」

「ミナカミさんも、お勤め、お疲れ様でございます」

 アサギリが一瞬で内心汗を噴き上げた事柄など、フブキ・マヤバシには些事であったことらしい。社交辞令的な上面のやりとりである。間に受けて難詰するほうが野暮の小人物ではあるまいか。

「じゃあ」

 いつも通りの別れ方である。目の前にロープでも引かれたみたいだ。そこからはもう踏み込めない。踏み込んで、彼を戸惑わせたくない。

 レーゲンがいるのは医務室とはまた別の施設である。基地警備部隊も何人か回されている。基地で保護すると聞いた時は驚いたけれど、敗戦間もない国の軍人である。傾いた思想を十分に持っていた。自暴自棄になる可能性が高い。そういう彼を野に放てば一般市民に害が及ばないとは限らない。さらには今すぐ国に帰せる状況ではないだろう。

 会った瞬間に噛み付かれはしないかとアサギリは緊張していた。血を噴き出しながらも主張をやめない姿ばかりで、冷静な物言いをしている姿はすべて忘れてしまった。水溜りを踏んだような片方分の赤い足跡がかなり強烈であった。足のサイズまで測れそうだった。

 手続きを終え、レーゲンのいる部屋のドアを開けた。あまりにも静かだった。興奮させないように、アサギリ1人だけだがらすぐ外には警備部隊が配置されているだけでなく室内は監視もされている。おそるおそる踏み込む。レーゲンは車椅子姿で、首輪と見紛うチョーカーを嵌めていた。そこへ強い電流を送るためのリモートコントローラーを彼女は受付で渡されている。それだけでなくチョーカーの横には突起があり、押すと内側へ針が飛び出て彼の首に鎮静剤が打てるらしい。猛獣の扱いである。しかしおそらくそこに見当違いということはない。

 長い髪が相変わらず支給品の衣類と合っていなかった。艶やかさはいくらか失している。ふと視線を動かせば金色の瞳に吸い込まれるようにして捕まった。

「ミス・ミナカミ」 

 点滴に繋がれ、片足も片腕も包帯だらけの上に見慣れない色の基地内ジャンパーを羽織っている痛々しい様相であるが、彼の意識はしっかりしていた。

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